目を奪われた。良い意味ではなく悪い意味で、である。
 なぜなら、ステージに立つその人が可哀想なほどにガクガクと震えていたからだ。
「け、軽音楽同好会会長の鳥海です……。う、歌います!」
 新入生に向けた部活・同好会紹介のステージに立ちながら一切活動内容を話さないその人は、どこからどう見ても異質な存在だった。軽音楽同好会と言いながらステージの上には鳥海という男一人しかいないし、その上歌も上手くない。お飾り程度に持っていたギターは、最初こそ頼りない音を響かせていたものの終盤には触れられもしなくなった。バンドではないどころか、もはやギターボーカルでさえない。そこには、自己満足の一人カラオケに付き合わされたかのような気分の悪さだけがあった。
「うちら何見せられてんの?」
「ギターがお飾りでしかなくて笑うんだけど」
 周りからはそんな声と共に嘲るような笑い声が響いてきて、俺はそら見たことか、とため息を吐く。
 バンドなんて無駄に目立つものはやらない方が良いに決まっているのだ。静かに、大人しく、平穏に。学校生活を乗り切るために必要なものはそれらであって、間違ってもステージの上で演奏をすることではない。このステージに立っているということはこの人は俺よりも年上だろうに、そんなことも分からないのだろうか。そんな一種の哀れみを持ってステージを見上げると、震える手でマイクを握るその人と目が合った。
 恥をかいている自覚があるのかその目は僅かに潤み、頬は紅潮している。それでも、彼は前を見ていた。決して俯きはしなかった。
 心を奪われる要素など何一つないはずなのに、俺はなぜだか彼のその姿から目を離すことができなかった。

「佐倉、ちょっと」
 そう声をかけられ大人しくついていくと、担任は困ったような表情で「入部届、いつ出してくれるんだ?」と問いかけてきた。
「入部届?」
「ああ。一番最初のホームルームで説明しただろ?うちの高校は部活動への入部が必須だって」
「えっ……」
 思わぬ言葉に、俺は口を半開きにして担任の顔を見つめる。
「まさか聞いてなかったのか?提出期限は昨日だったし、おまえ以外は皆んな出してるぞ」
 そんなことは聞いていない。聞いていなかった……はずだ。すっかり帰宅部になるつもりでいた俺は、予想外の事態に視線をうろつかせることしかできない。そんな俺を哀れに思ったのか、担任は「部活じゃなくても、同好会でもいいから」と付け足した。
「とにかく、何かしらの活動はしてくれ。同好会だったら活動日数が少ないところもあるから、な?」
「……はい」
 促されるままにこくりと頷く。部活動も同好会も入りたくはなかった。さっさと帰宅して、家でぼんやりゲームができればそれでいいと思っていた。けれど、どうやらそういうわけにはいかないらしい。
「今週までは待ってやる。決めたらはやめに入部届出してくれよ」
 その言葉に対する反論の言葉なんて、持ち合わせているはずもなかった。

 部活よりは同好会の方が活動日数も少なく楽な傾向にある、らしい。事実、担任も先ほど同じようなことを言っていた。しかし、俺はその言葉を疑わずにはいられなかった。なぜなら、我が校の同好会は運動系のものがほとんどだったからである。
「山岳同好会、スキー同好会、アイススケート同好会……って、なんでこんなのしかないんだよ……」
 それでも、スポーツを楽しむことを目的としたような緩い同好会だったらまだ良かったのかもしれない。しかし、高校のホームページを見る限り全くそんなことはなさそうだ。『同好会活動記録』の欄に載るおびただしいほどの受賞歴に、俺は自分の顔からだんだんと生気がなくなっていくのが分かった。
「あー、くそっ……」
 のびてきた前髪をぐしゃりとかきあげながらそう呟く。すると、そのときふと『軽音楽同好会』の文字が目に留まった。
 記憶によみがえるのは、ステージに立つあの先輩――鳥海の姿だ。下手くそな歌声で、途中からギターも弾けなくなって、そのくせ瞳だけはなぜかずっと真っすぐで。バカみたいなあの先輩は、今でもまだ一人でいるのだろうか。たった一人で、下手な歌とギターを奏でているのだろうか。そう思ったら、なんとなく先輩の顔を見てやりたいような気持ちになった。
「まぁ、行くだけ行ってみるのはあり、だよな……?」
 何も入ると決めたわけではない。ちょっと冷やかしに行くだけだ。外からチラッと覗いてみて、満足したら帰ればいい。自分にそう言い聞かせながら、俺は部活棟に向かって歩き出す。たったそれだけのことで、なぜだか胸がうずうずと疼いた。

 音が鳴って、鳴ってはまた途切れて。『軽音楽同好会』と書かれた教室の中からは、そんな下手くそなギターの音が響いていた。
 暗譜していないのか、あるいは覚えてはいるが指が追い付かないのか。メロディらしいメロディを奏でられていないその様は初心者丸出しといったようで、やはり見ている方が恥ずかしくなる。
 視線うろつきすぎ。そんなあわあわしてたら弾けるもんも弾けなくなるだろ。同じ場所で躓くなよ。サビさえまともに弾けなくてどうすんだ。ってか、ギターなんて触ったこともない俺から見ても下手だって分かるのがやばすぎる。初心者なのかもしれないけど、それにしたってこのクオリティはないだろ。
 そんな悪態ばかりが頭の中に浮かんだ。しかし、それでもこの男は楽しそうなのだ。目つきは誰よりも真剣で、口元には薄っすらと笑みが浮かんでいて――。こんなにも下手くそなのに、仲間だっていないのに、嬉しくて仕方がないとでも言わんばかりの表情で音を奏でている。
 声をかけるわけでもなくぼんやりとその姿を眺めていると、ふっと視線をこちらに向けたその人と目が合った。
 誤魔化しがきかないほど強く視線が絡み合ってしまい、俺は仕方なしに会釈を返す。すると、男は慌てたように教室の戸を開けた。
「ご、ごめん、気づかなくて……!入部希望の人かな?」
「いや、別にそういうわけじゃ……。なんか、楽しそうだなって思っただけで」
 ぽつりとそう溢すと、男はキラキラと瞳を輝かせながら「そうなんだよ!」と声を上げる。
「音楽って楽しいんだ!熱気が凄くて、音が身体を揺らしてさ、胸の中がカッと熱くなるっていうか……!」
 俺が「楽しそう」だと言ったのはギターを弾く男のことだったのだが、どうやら音楽に興味があると勘違いされてしまったらしい。人を捕まえるや否や好き勝手に語り出すその様は鬱陶しい先輩そのものである。しかし、仮にも後輩という立場である以上文句は言えない。俺は自分語りともいえるような男の長い話を黙って聞いた。
「僕らが小学生くらいの頃にバンドアニメって流行ってたでしょ?同じ高校の子たち集めてガールズバンド結成するやつ。僕さ、それがずっと大好きだったんだよね。いつか自分もあんな風に……って、思っちゃうくらいには」
 でも、中学時代は軽音部に入れなかったのだ、と男は言った。
「軽音部自体はあったんだけど、陽キャっていうの?ああいう派手な人ばっかりで、部員と上手くやってく自信がなくて、結局入部届さえ出せなくてさ。それをずっと後悔してたから、高校では同じ後悔を繰り返さないようにって――そう思って作ったのがこの同好会なんだ」
 この人の話は、なんだかこの人の音楽のようだ。ふとそう思った。ひとりよがりで、青臭くて、聞くに堪えない痛々しさがある。それでも、その中に消えない光のようなものが宿っているから俺はこの男に惹かれてしまうのだろう。惹かれていると認めるのは癪ではあるが、こうして活動場所にまで足を運んでいる以上もう言い逃れはできなかった。
「なんか凄いっすね。そこまで考えて活動してる人、多分いないですよ」
 俺だって何か一つのものに打ち込んでみたい、と思ったことがないわけではない。でも、何かに打ち込んでいる人間が「ダサい」と陰口を言われているところを腐るほど見てしまえば自然とその気持ちはしぼんでいった。
 もともと才能がある奴なら何かが違うのかもしれない。でも、そうでない奴が努力したところで待っているのは周りからの冷たい視線だけだ。それなら、頑張ろうなんて思わない方がいい。目立つことなく、ただ平穏に学校生活を送る方がいい。そう思ってしまうのも無理からぬ話だった。
「そうやって何者かになろうと足掻くの、なかなかできることじゃないんじゃないっすか」
 そう言葉を続けると、先輩は「いや」と否定の言葉を紡いだ。
「別に僕も何者かになろうとしているわけじゃないんだ。っていうか、多分僕には音楽の才能がないしね。続けていたってプロになれるわけでもないと思う」
 熱い先輩の口から零れ落ちた思いのほか冷静な言葉に驚いて顔を上げる。すると、彼は笑いながら頬を赤く染めた。
「でも、そう分かっていてもやらずにはいられないことってあるんだよ」
 その言葉が、俺の心をふるりと揺さぶる。バカみたいにぽかんと口を開けている俺を見て、先輩は「良かったら見学だけでもしていってよ」と言った。
「ずっとやりたかったことだから、僕は一人でも音楽ができれば幸せなんだ。でも、メンバーがいたらきっともっと楽しくなるから」
 俺には、周りから白い目を向けられてまでやりたいことなんてない。今までも――そして、きっとこれからも。でも、この先輩についていったら何かが変わるのだろうか。変わってくれるのだろうか。そんな一抹の期待を胸に、俺は教室に向かって一歩足を踏み出した。
「よろしくお願いしますね、鳥海センパイ」
 ニッと笑いながらそう言うと、先輩は「えっ、僕の名前……!あ、もしかして新歓ライブ見てたの!?」と騒ぎ出す。
 来年のステージで、俺は先輩と同じ場所に立っているのだろうか。その自信はまだあまりないけれど、そうであればいいな、と。不思議と、今は素直にそう思えた。