姫様は国公立大学の人文学科へと進学し、この春より一人暮らしを始めていた。今は一人の女子大学生。誰かが執事のように丁重にお嬢様扱いすることもなければ、姿振る舞いをお姫様として過ごすこともなく、姫川桃子としての学生生活を送っている。私が探りながら聞いた限りでは、少なくともそのようであった。


 この世界における姫様と私の関係は不明。卒業後やり取りがあったのかもわからない。仮に前世界同様に許嫁であるなら、一人暮らしの部屋にお呼ばれすることがあるだろう。そうだ。そうに違いない。


 そう考えた私はえいやと連絡のメールをポチりとした。


 返事はすぐに《《オーケイ》》の二文字が返ってきた。


 よかった。知らね存ぜぬ赤の他人というわけではないようだ。ほっとした。この世界の人間関係は前と比べてあまり変わっていないように思えた。それは安心材料だ。

 

 教えてもらった住所を訪ねると、姫は笑顔で迎え入れてくれた。


 一人暮らしマンションの一階角部屋。ワンルームのエルディーケイ。トイレ風呂別、キッチンにも仕切りがあって別区画。足の低い折りたたみの四足テーブルがフローリングの上に敷かれた絨毯に置かれ、向かいにテレビが、背にはベッドがある。大人数入るのは難しそうだが、こうして二、三人ぐらいであれば不自由のない広さ。角部屋だから多少日差しや寒さがあるそうだが、その分安いらしい。


 ……落ち着かない。


 姫は紅茶を入れると言い、電気ポット片手に準備をしている。私は手伝うには狭い水回りを鑑みて大人しく座ってはいたが、しかし落ち着かない。後ろがベッドというのが良くない。良くない。良からぬ。


 ベッドは二つ折り可能だが、頑丈できちんとした作り。白いシーツが綺麗に伸ばされて、白い枕が美麗に鎮座している。ピンクの掛け布団がきれいに畳まれて端に置かれ、その下のブラックホール……つまりベッドの下にはモノ一つ入れずに綺麗に掃除されていた。収納スペースとかに使いそうなものだが、机が置きっぱなしなところを見ると案外不便なのかもしれない。ベッドの端の先にはクローゼットがあり、ピタリと閉められた手前に物干し竿が細く狭いスペースに立っている。Tシャツやジーンズが干されていると同時に洗濯バサミの先にあるものがどうしても目に入ってしまう。いや、一応は隠れているのだ。ジーンズなどの衣類のほうが手前で、洗濯バサミの先のそれは奥でクローゼットの扉に触れているほどである。しかし、それでも目にしてしまってから後ろで最強に存在感を放つ胸の下着と言ったら……落ち着かない。良くない。良くない。良からぬ。


「おまたせ」

「はいっ」

「なに? 緊張してるの? まあ、そっか。過去から来たヨウヘイは私の部屋初めてだもんね〜。ふふ、初めて部屋に呼んだ日のこと思い出すなぁ」


 初夜!? 初夜があったのですか!? 姫様の部屋にこの世界の私は呼ばれていたというのですか!? なんと羨ましい。なんて羨望な。早く過去に戻って時間を一年進めたい。いや、待て姫様? それよりーー。


「この世界に私は二人いるのですか?」


 姫様は微笑みながらカップに紅茶を注ぎ、それぞれに差し出しながら言った。


「今はこの部屋にいるヨウヘイ君だけだよ。君もなかなかややこしいことになってるからね」



 ※ ※ ※



 まず前提として。未来のことを話すことはできない。話せば過去に未来の情報が伝わり、それによって過去が変わり未来も変わるからだ。未来の私、つまりこの世界の私はすでに時間旅行へ出掛けていていない。これを過去の私、つまりこの部屋で紅茶をすすっている私だが、この部屋にて姫様に会うことは問題無いらしい。むしろ必要だとまで言う。


「世界の捉え方、時間軸の考え方に関してはさ、玖瑠実ちゃんから教えてもらった通りだよ。思い出して、ヨウヘイはカレーを食べてる彼女と出会ったと報告してたはずだったけど?」


 間違いない。その通りだ。私の記憶はそれだ。ああ、何故かそれだけで泣けてきた。自分が自分であるということ、間違いなく私であると認めてくれたようで嬉しい。


「はい。未来人と自称する味楽来玖瑠実氏に会い、調査として話を聞き、姫に報告しました」

「そうだね。そしてそこにいる夢野ちゃんがあとから参戦。ヨウヘイのお供になった」

「はい。ユメもそれで間違いございません。わたくしは時間遡行はしておりませんが」

「うん。夢野ちゃんはそれでいい。それで、ヨウヘイは今何が知りたいの?」

「秘密結社同好会が無くなっていましたが、あれはどうしたのですか?」

「それは一年後お楽しみに」

「玖瑠実氏は未来人ではなくなってしまっていました。なぜでしょうか。それと、枝桜氏にも会いましたが彼は、いえ、彼女は女性です。初めて会ったときは男性だったのに」

「落ち着いて、ヨウヘイ。はい、紅茶」

「……すみません」

「玖瑠実ちゃんからね。彼女は未来人だよ。普段はバレないように一般人のふりをしてる。一年の自称未来人としていた自分を黒歴史として否定してね。一年間はどこにも飛んではいない。それは私が保証する。未来から来た理由はヨウヘイに会うため。それは変わっていない。大丈夫」

「はい」

「枝桜さんは女性だよ。言い方が良くないかもだけど、はじめからずっと女性。彼女が男性だったことはない」

「超能力者だということは?」

「彼女、ヨウヘイの前で何か能力を使ったの?」

「いえ。特別な状況下でないといけないらしく、直接はまだ」

「なるほど。それは私の知っている話と違うかな。ヨウヘイには、タイムトラベラーを名乗る人物が現れた。調査せよ! ……としかあのときは言っていなかったはずなんだけど」

「宇宙人や超能力者は?」
 
「初耳だね。もちろん、枝桜ちゃんが関わってるかもしれないということも」

「そうですか……ええと、そうですね。ごめんなさい。考えをまとめます」 

「どうぞ」
 

 この世界には未来人しかいない。宇宙人も超能力者を自称する人物もいない。やはり時間を飛び越えただけでなく、似たようでどこか違うパラレルな別世界に来ていたのだ。では、どうする。何をすれば戻れる。いや、そもそもあのときの姫様は何を目的として私を飛ばしたのだ?


「姫様」

「どうぞ」

「タイムトラベルの仕組み、方法はご存知でしょうか。私は姫様、私の世界の姫様によってこの世界に飛ばされてきたはずなのですが……」

「うーん」 

「ええと、たとえばタイムマシンとか無いでしょうか……少し昔に、時をかける女の子のアニメというか小説がありましたが、あれではクルミのような何かだったような……」

「ごめん。タイムトラベルのやり方はわからない。どうやって時間を超えるのか。それは私も玖瑠実ちゃんから聞いてないんだ。でも、彼女が未来から来たのはおそらく事実。間違いないよ。現にこの世界にいるはずのヨウヘイが彼女に会ってタイムトラベルしてるし」

「そ、それだけですか」

「うん。それだけ」

「どうして……どうして私を、過去から来たと信じられるのですか」

「ここの世界のヨウヘイが彼女に会って居なくなり、入れ替わりにあなたがやってきたから。それだけ。それなら、そうかなって。あと、私はヨウヘイの言葉を信じてるからね。疑うことはない。だから、それが何よりの証拠。ヨウヘイの証言が玖瑠実ちゃんが未来人だっていう証拠」
  

 私は鼻水をすすりながら涙をこらえつつこれを聞いていた。自分のことを信用してくれるのが、ここまで疑わないというのが、有り難かった。嬉しかった。滅茶苦茶な状況下で、ああ、幾ら愛を告げた相手だからとはいえ、ここまで。


 肯定。


 受け止めてくれたことへの感謝を、私はずっと言っていた気さえする。姫様はその度に背中を擦ってくれていたと思う。ユメはそばでそれを静かに見守っているばかり。同情や共感なんて生易しいことをせず、従者としての献身として。最大の理解者として側に居た。


 世界が変わっても、この二人は変わらない。変わらずに私との関係を保ってくれている。


「……姫様。私はどうしたら良いでしょうか」

「うーん、そうだね。一概には言えないかな。戻れるかどうかは今のヨウヘイくん次第だしね」


 今の私次第、か。


 戻れる可能性と戻れない可能性。多世界解釈で言えばこの二つの世界に分岐するのだろうな。過去に戻る私と、このままこの世界で時間を進める私と。どちらもあり得る話だと。そしてどちらにも私は存在する。今ここにいる私がどちらに行くかは別として。


「ヨウヘイくんはどうやって時を渡って来たの?」


 どうやって。具体的に。確か、あれは姫様が手にしていたモノによって何かが起き、それで時渡りしたはず。そうだ、だから私は今こうして姫様に会いに来ている。何か知っているのではないかと。確かあの日はーー。


「ユメと宇宙人だというエデン・レイに会いに行った日です。地球を侵略したいって文面が来て、それでいつもの旧校舎に行きました」

「何か変わったことは? それかこの世界で変わったこと。たとえばありえないものがあるとか、あるはずのものがないとか」


 あるはずのものが、ない……?


「タイムトラベルには《《つきもの》》のパラドックスだよ。矛盾が生じやすくなるからね。多世界解釈もそれを解決する一つみたいなものだし。あとは、そうだな。オーパーツ、本来なら存在しないものっていい方もあるかな」


 存在しないもの……。あっ。
 

「……観覧車」


 観覧車だ。


「? えっ、なに?」


 最初に目にしたのは教室の課題と観覧車のない風景。元の世界とは異なるポイントは観覧車かもしれない。そうか、そうすると、つまりーー。


「そうか! そうです、この世界には観覧車がない! ありませんでした!」


 どうやら私は正解の道を歩むことができるかもしれない。