遅い。
 希望と番わせたい。真紀だけでは足りない。
 より濃いネアンデルタール人の遺伝子を持つ人類がもっと欲しい。
 ホモ・サピエンスは砂漠では生きられない。いや、生きられなくもないが、かなりの困難を伴う。水が生命維持に不可欠だからだ。
 しかし、ネアンデルタール人は違う。
 昔は、ホモ・サピエンスよりも強靱な肉体と容量の大きい脳を持つということだけしかわかっていなかった。しかし、希望とその母親の個体が発見されてから数年の研究の後、あることがわかったのだ。
 ネアンデルタール人は、ホモ・サピエンスの半分の水があれば肉体を保つことができる。
 これなら、この先砂漠化がさらに進んでも、ネアンデルタール人は生きながらえることができる。ホモ・サピエンスは地球の砂漠化を止められていない。
 ホモ・サピエンスが絶滅するのはもう仕方がない。もって、あと三百年くらいというところか。しかし、ネアンデルタール人がいれば、「人類」の絶滅は免れる。
「足りないんだよね、もっと欲しいんだ、ネアンデルタール人が」
 和哉は胸元から煙草を取り出した。
 自分ほど人類の未来について考えているホモ・サピエンスはいないだろう。
「あの夫婦もな」
 希望の育て親は、血の繋がらない希望に情がわいてしまったらしい。「その時が来るまでは、普通の人間の子のように過ごさせたい」そう言って、居を大宮に移してしまった。当時はまだ、ネアンデルタール人が水分をホモ・サピエンスほど必要としないことはわかっていなかった。だから、浅間も簡単に彼女を手放した。
 希望が十歳になった時、「その時」が来た。
 希望は初潮を迎えた。当時真紀はまだ普通のホモ・サピエンスであり、誰も番い候補はいなかった。体も未成熟だ。無理に性交渉をさせて、大切なネアンデルタール人を壊してしまうわけにはいかない。そうとなれば、卵子の保管をすることが急務になる。
「大宮なんかに行かせなければ良かったのに」
 和哉はため息をついた。
 大宮では、優秀な精子と卵子はオークションで高値がつくほどの優勢遺伝子第一都市だ。卵子の保管などさせたら、どこから売りに出されてしまうかわからない。そして、どこからかネアンデルタール人の秘密が漏れてしまったら……。
 だから、何もしなかった。危険を冒すことはしなかったのだ。
 「各研究都市は、人類の未来の為にその研究成果をおおっぴらにする」というのは、嘘だ。絶対にどの都市にでも自分のところだけで秘密にしている事がある。
 そんな中、真紀と番わせる手筈がやっと整ったというのに、大宮で暴動が起きて、希望は行方不明ときた。
「でも、やっとだ。やっと人類に希望が見えた」
 ーーホモ・サピエンスなど、滅びてしまえばいい。
 和哉は、胸ポケットから小さな骨壺を取り出して、薄暗い電灯の明かりに透かした。

   ***

 四時間ほどで、浅間研究都市に着いた。山の向こうの空がぼんやりと白み始めていた。
 浅間は都市の周囲をぐるりと塀で囲まれている。都市への入り口は、数カ所しかない。とは言え、普段は封鎖されているわけでもなく、誰でも自由に出入りできる。
 そのうちのひとつの入り口の前までやってきた。
「案内所がこのへんにあるかな」
 高斗は車を路肩に止め、道に降りた。しばらく歩くと、大きな看板のような物が見えた。
「なんじゃこりゃ」
 案内板だと思ったものには単に「ようこそ、浅間へ」と書かれているだけだった。
 高斗は和哉に連絡を取ってみようと思った。まだ電話番号が変わっていなければ繋がるはずだ。
「お客様のお掛けになった電話番号は……」
 高斗は電話をきった。瞳に和哉の連絡先を聞いてくれば良かった。この時間に瞳に電話したら迷惑だろう。和哉の野郎は別にかまわないが。
 つい勢い込んできてしまったが、こういうところが自分は抜けている。
 仕方ない、朝まで車で待って、夜が明けきったら都市の中に入ろう。道を聞ける人くらいいるだろう。
 そう思って車に戻ろうとした時だった。
「ん?」
 門のあたりで明かりがちらちらとしている。人がいるのだろうか。高斗はそちらに足を向けた。
 明かりは背の高い草の奥から見えてきた。かさりと草をかき分けて進んでいく。
「誰!?」
 誰何され、高斗は足を止めた。聞いたことのある声だった。
「真紀?」
 草の中には、蹲った真紀がいた。
「なんだ、高斗か。びっくりさせないでよ」
 ほっとしたように言うと、真紀は口元を拭った。
「いや、そりゃこっちのセリ……ん? お前怪我してるのか」
 手と口元に、血がついている。それを指摘すると、真紀は「あ、これ?」と言って立ち上がって反対の手を掲げて見せた。
 その手にあるのは、ファーストフード店でよく見るあれだ。
「チキン食ってたのか?」
 小さな骨に、肉が付いている。
「そうだよ。今獲ってきたの」
 ほら、と真紀が地面を指さす。目が闇に慣れると、暗い地面にうっすらと影が浮かび上がった。
「熊鷹、か?」
 そこには、羽を片方千切られた大きな鳥が転がっていた。高斗は眉を顰めた。
「お前、生で食ってたのか? 腹、壊すぞ」
「壊さないよ。今まで壊したことないから」
 なんでもないことのように言うと、真紀は再び腰を下ろした。高斗は真紀を見下ろしながら首を傾げた。
「何度も食ったことあるのか? そんなもん」
「あるよ。だって、こいつらが狙ってくるからさ」
 そこで高斗は思い出した。希望もそうだったことを。
「……ネアンデルタール人は熊鷹に狙われやすいのか?」
 真紀は一瞬驚いたように目を見開いた。そして、納得したように頷いた。
「そうだよね、もう聞いたんだよね。私と希望がネアンデルタール人だって」
「……ああ」
「それで、希望を追って来たの?」
「そうだ」
 真紀は呆れたようにため息をついた。
「気持ち悪くないの?」
「ん? 何がだ」
「ネアンデルタール人が」
 高斗は脳内で言葉を探した。
 気持ち悪くはない。が、得体のしれないモノに対する畏怖のような感情があることは否定できない。
「別に気持ち悪くは……」
「私は気持ち悪いよ」
 被せ気味に真紀が断言した。高斗を見上げる。
「自分も気持ち悪いけど、とにかく希望が気持ち悪い」
 高斗はムッとした。その表情を真紀が見つめてきた。
「嫌だよ、数万年前のホモ・サピエンスとは違う人類なんて。人間じゃない」
「いや、同じ人類だろ」
「違うよ」
 真紀は手の中の肉の付いた骨をぼきりと折った。
「わたしは言われてきたよ。気持ち悪いって。大事な実験体に対して随分なモノ言いだよね? でもまあ気持ちはわかる」
 高斗は真紀を黙って見下ろした。
「わたしも嫌だよ。希望と番うなんて」
 その瞬間、高斗の拳に力が入った。が、何も言えずに真紀の言葉の続きを待つ。真紀は目を下に落とした。
「コレ、食べても羽は生えないよね」
 ぽつりと真紀が呟いた。
「こいつらは、同じく遺伝子操作されてる。正確には希望の母親から取った遺伝子を入れた個体の子孫達だ」
「進化じゃないのか?」
 真紀はぷっと吹き出した。
「数十年でここまで一気に進化するわけないでしょ。ホモ・サピエンスに入れる前に、害がないか熊鷹に入れたんだよ。多分だけど、ね」
「鳥になんか入れるか?」
 試すなら、マウス、もしくは猿の類いではないのか。高斗は首を傾げた。真紀は淡々と説明した。
「研究所にいっぱいいたから。絶滅危惧種で保護していた個体が。それだけだろうね。それで遺伝子が合わなくて絶滅しちゃってもまあいいかと思った種だったんでしょ」
 真紀は立ち上がった。
「だからこいつらは、同じ遺伝子を持つネアンデルタール人を狙う。食ってより強い個体になろうと本能が教えてるのかもしれないね。だから私も食べ始めたんだけど」
 真紀の顔が青くなっていった。
「ねえ、羽が生えて逃げられたらいいのにね。希望みたいな化け物と子供なんか作りたくないよ……」
「化け物、っておま……」
「真紀!」
 遠くから声が聞こえた。がさがさと草をかき分けてこちらに近寄ってくる。
 その声は、聞き間違うはずがなかった。
「いるんでしょ、発信器外しちゃったから探せないって、和哉さんが……」
 そこで言葉は途切れた。
「希望……」
 高斗は絞り出すようにその名を呼んだ。
 会わなかったのは、ほんの一日にも満たない時間だ。けれど、高斗にとっては、とてつもなく長い時間に感じられた。もう、一生会うこともないかと心を過ったほどに。
「な、んで……?」
 希望が唇を震わせる。そして、はっとしたように、逃げ出した。
「あ? おい、なんで逃げる……」
 後ろでは、真紀が反対方向に駆け出した。高斗は舌打ちした。
 どちらを追うかは迷うまでもなかった。