「うわ、なんで出来んの? ヤバすぎ」
返ってきた俺の答案用紙を覗き込んだそいつは言った。そして意味分かんね〜的な意味合いをもつ言葉を言ったと思うんだけど、俺の耳には入ってこなかった。だってその時にはもうプツンときてたから。
「勉強しに学校来てんのに出来ない方がヤバいに決まってんだろ。ちゃんと勉強してる奴なめんのだるいからやめろ」
その瞬間、教室内にシンと音が消えた様な静寂が訪れて、ピンと張った緊張感に包まれる。皆、まるでとんでもない事を犯した人間を見る様な目つきで俺を見ていた。それから恐る恐る答案用紙を覗いた奴の方へと視線を移していく。
一体どんな反応が返ってくるのか、クラス中の大注目を浴びる中、そいつは言った。
「ほんとだわ、俺だるっ」
あっけらかんと、目をまん丸にしてそいつが俺の言葉を受け入れた瞬間が、俺とそいつ——橘が、親しくなるきっかけだった。
+
「結城君〜宿題分からん〜」
「はいはい。どれのどこ?」
俺の姿を見掛けるや否や、お決まりの台詞と共にやってくる橘にやれやれと溜息をつく。橘が元居た場所には彼の派手な仲間達がたむろしていて、その中の数人と目が合うとそろってこちらに手を振ってくるのでひらひらと振り返した。まさか、あの一件からこんな風になるなんて。むしろこう、イジメの標的みたいな事になるんじゃないかと思ったから、次の日にはとんでもない事をしてしまったと内心ドキドキしたものだ。
なんせ橘といったら完全なる一軍男子である。普通の俺からみても完全にそう。素行不良というか、真面目とは正反対みたいな見た目と態度で、何故か発言権がめちゃくちゃあるのは仲間が多く、そこに尊敬の念があるから。そういう奴らって縦と横の繋がりでみんな知り合い、みんな仲間みたいなつるみ方をしてるから(偏見かもしれない)、そこに楯突いたとなれば酷い目に合うのではと思った自分は間違いでは無かったはず。
それがどうだ。何故か今、俺は彼らと挨拶する様になり、橘に至ってはかなり懐いてくるようになっていた。何が起こったのか分からないというか、何が起こるか分からないものだと思う今日この頃である。
「結城君はさ、いつも何してんの?」
「あー、ゲームとか」
「とか?」
「えー? あと何だろ。これ趣味とか聞いてんの?」
「じゃあそれで」
宿題を丸写しするのはダメだと断ってから、橘はちゃんと自分でやってくるようになった。それでも分からない時はこうして聞きにくる訳だけど、毎回分からないと言いながらもさっさと終わらせて色々話を振ってくるから、もしかしたら単なるきっかけ作りに過ぎないのかもしれない。
「趣味……趣味かぁ……」
「無いの? つまんねー人生だな」
「あるわ。最近だとそうだな、映画とか」
「映画」
「映画かぁ……」と、橘は何だか嫌そうな顔で呟いた。人の趣味に対してなんて失礼な奴なんだ。これだから一軍の人間は。
「別に人の勝手だろ。そういうおまえは普段何やってんだよ」
「オレー? オレは大体だらだらしてる」
「それこそつまんねー人生じゃねーか」
思わず突っ込みをいれると、奴はハッとしたような顔をして、何故か目をキラリと光らせて勢いよく身を乗り出してきた。
「そう! そうなんだよ、つまんねー無駄な毎日なの。だからオレ決めたわ。結城君と一緒に映画行く」
「は?」
いやだっておまえ、さっき嫌な顔してたじゃんと言いたい所だけど、奴は「これで決まりー」とスマホを取り出して、見せられた画面には一番近所の映画館の明日の上映スケジュールが並んでいた。
「どれ行く?」
「え?」
「今予約するから早くして。どれかオススメないの?」
「いや、いやいやいや!」
なんで?と、尋ねた俺に返ってきたのは眉間に皺を寄せた橘の不機嫌な表情。チッと舌打ちまで聞こえてきそうである。
「だから、明日映画行くからどれ行くか決めろって話だよ」
「でもおまえ、反応見た感じ映画好きじゃないだろ?」
「そうだけど、でも明日はいーの」
だから早く決めろと、橘は急かしてくる。いつもいつも急な奴だ。そして、今の機嫌が丸わかりなのに何を考えてるのかはさっぱり分からない、不思議で面倒臭い奴だ。
「あー、待て。考えるから」
更に、一度決めたら絶対折れない頑固な奴。だから俺が折れるしかない。
映画が嫌いな奴が見れるやつ……つまり、分かりやすくて、画面が派手で、長過ぎず面白いやつ……。
「分かった、これだ」
「……え、マジで言ってんの?」
「嫌なら良いから別の奴と行け」
「いやっ、いいけど。いいけどさ、結城君マジ結城君なんだけど。意外過ぎる謎チョイス……」
なんて言いながらもポチポチとその場で予約して、「なんか楽しくなってきた」と呟く橘と明日の集合時間を決めた。
そして翌日。俺達は映画館にやって来た。二人で夏の子供向け映画を観る為に。
毎年この時期に公開するタイトルであり、誰もが幼い頃からこれを観て育ったような人気作である。辺りは親子連れが多く、それを確認した橘は改めて言った。
「高校生の男子二人で観る映画じゃなくね?」
「じゃあおまえサスペンスとか恋愛とか二時間観れんの?」
「え、観れない。よく分かったね」
そして橘は、「オレさ、映画観てると途中で冷めんだよな」と、これから映画を観る者としてあり得ない心持ちの話をし始めた。
「なんだろ。今これ何の時間? てか今何時? みたいなさ、早く解放してくれ的な気持ちがやってくる」
「なんだそれ。単に集中が切れたんじゃなくて?」
「そうじゃなくてこう、時間を無駄にしてるような気持ちというか……オレ今ここで何してるんだろみたいな」
「映画観てんだろ」
「いやそうなんだけど、そうなんだけどさ……なんだろ? 飽きんのかな……」
さっぱり分からないと思いつつポップコーンを買いに売店へ並ぶと、着いて来た橘がびっくりした顔で「え、買うの?」と聞いてくる。「買うに決まってんだろ常識だろ」と答えると、パチパチと二回瞬きをしながら、「マジで結城君って結城君だね」と真面目な顔で言った。
「オレ、映画館でポップコーンとか買ったこと無い」
「今日買えば?」
「二時間観れるかわかんないから買わない」
「いや、観ろよ。俺一人になるじゃん」
「でも急に虚無の時間訪れるからなぁオレ、マジでそういうの無理なんだよ」
「じゃあなんで今日来たんだよ」
一から十まで訳が分からな過ぎて思わずストレートに飛び出した心の声。そんなつもりは無かったけれど、もしかしたら傷つけるような言い方になってしまったかもしれないと奴の顔を窺うと、その必要は一切なかったと一目で分かるくらいあっけらかんと奴は言った。
「フツーに結城君と遊ぶ為だけど?」
何言ってんの? 当然だろ?とでも言いたげにそんな事を堂々と言ってのける橘に今日も橘だなぁとしみじみ感じた。何考えてるのか本当の意味で分からない、今まで俺の周りはいなかった考え方をするタイプの奴である。
「だったら別に映画である必要性無かっただろ」
「いやー、結城君とならオレも映画観れるかもしれないっていうチャレンジ精神も生まれちゃって」
「なんだそれ。それで結局観れなかったら俺が可哀想過ぎるからやめろ」
「でもさー、本当にオレ、意味の無い時間が耐えらんないんだよなぁ」
ポップコーンとジュースを受け取ると入場開始時刻となり、ぞくぞくと人が入り口へ吸い込まれていくその列に俺達も並んだ。親子連れの中に俺と橘が混ざっているのは分かっていたとはいえやっぱり違和感があった。なんせ俺達はたった二人の高校生代表である。意味の分からない理由で途中退場されて一人きりになるのはやっぱり御免被りたい。
「じゃあ分かった。観てて無理になったらおまえは俺のポップコーンを食べろ」
「え、なんで?」
「で、自分にこう言い聞かせる。自分は今、俺とポップコーンを食べにここへ来ている」
「は?」
「外は暑いけどここなら涼しくて座り心地の良い席まで用意されている。どっかのカフェにでも入ったような気持ちで意味の無い時間をやり過ごせ。その内映画の展開が変わってまた意識が切り替わるかもしれないだろ?」
「…………」
「おまえは映画を観に来たんじゃなくて俺と遊びに来たって言ってた。だったらそういう事にすれば良いじゃん」
「…………」
予約した通りの席に着いて、俺はポップコーンとジュースを所定の位置にセットした。スクリーンにはもうすぐ公開予定の映画の宣伝が流れている。
「……マジか」
「?」
暫く黙っていた橘がポツリと呟いたのでそっちを見ると、昨日と同じくキラリと光らせた目でこっちを見る奴と目が合った。
「結城君すごっ、そんなん考えた事も無かった」
「おー」
「試してみる! 今回それでやってみるわ」
「あー、うん。まぁ、そうして」
そして、場内がもう一段階暗くなるとアニメの主人公が現れて、そこから物語が始まった。
その作品のファンでも無い限りこの年になって映画館でわざわざ観る事も無いような懐かしい気持ちになる映画だったけど、俺は結構そういうのが好きで、やっぱりいくつになっても世界に飛び込んでしまうくらい魅力的で面白かった。
そんな中、スッと伸びて来た手が俺のポップコーンを攫っていく。集中して観ていたのですっかり忘れていたと、ハッとして隣の橘を見る。奴の言う意味の無い時間とかいうのがやって来たのだと思ったからだ。
けれど、そこにあったのはスクリーンに釘付けの橘の横顔だった。しっかり観入ってるし、しっかりポップコーンも食べている。鷲掴みにした分を一気にほうばってもぐもぐしてるのが可笑しくて、やれやれと呆れつつも微笑ましく感じる気持ちで俺もまたスクリーンに目を戻したのだった。
「マジで良かった。感動した。何? なんで大人これ観にこないの? あの感動子供にも分かんの?」
こんなん心の英才教育じゃん、とかなんとか言いながら、橘はさっきドリンクバーで入れて来たコーラを一気飲みした。ポップコーンだけ食べていたからすっかり口がパサパサになったらしく、そのままファミレスに入る事にしたのである。
「なー。時間帯もあるんだろうけど、子供の映画って決めつけんの良くないよな。俺結局泣いちゃうもん」
「オレも! オレも泣いた!」
少し興奮気味にも感じるテンションで橘は頷くと、おかわりを貰いに行って戻って来た。「いやー、映画っていいもんだな!」なんてニコニコしながら。
「俺もさ、合わないと二時間観んのだるくなる時あるけど、面白かった時はやっぱり特別な体験した後みたいな充実感あるよな」
「うん、今そんな感じ。もしかしたらオレ、映画観るって行為自体が嫌いだったのかも。面白い面白く無いじゃなくて、二時間拘束されるっていう時点で萎えてたっつーか。そうなると話も頭に入んなくなってた感じ」
そう説明されて、ようやく橘の言っていた状態の事が初めて納得出来た。映画以外のものに例えてこれから二時間ここから出られないと思うと、確かに萎えるかも。だとしても始めからそんなテンションで観にこられたら映画の方も迷惑な話だろうけど。映画館にこんなテンションでくる人居る? こういうのって苦手意識とでもいうのだろうか。
「でも今回は平気だったんだ?」
「そう。自分でもびっくりした。多分あれだ、結城君が言ってたやつ、あれのおかげ。俺とポップコーンを食べに来ていると思え」
「え、マジでそう思って観てたの?」
「違う違う。なんかなるほどなって、あの時スッと心が軽くなったというか。なんかそれでいーじゃん、みたいな」
「?」
「知らない考え方を教えて貰えたみたいな感じ。間違いが正されるみたいな……ほらあの時、回答用紙覗いて怒られた時もそう」
そう告げる橘に対して訳が分からないといった顔を全面に出している自覚はあったけれど、向かい側に座った橘が「顔!」といって指差して笑ってきたので、ムスッとしてコーラを飲んだ。だって本当に訳がわからなかったから。俺はいつも当たり前の事と思いついた事を言ってるだけだ。
「オレさ、最近無駄でつまんねー毎日だなって嫌になってたんだけど、そうだった、学校って勉強しに来る所だったって改めて気がついたといいますか。あれは目が覚めたね」
「いやでも、義務教育だってそうだっただろ」
「義務教育は義務じゃん。高校は自由じゃん。うちさ、親がオレを高校行かせるの渋ってさ。だったら逆に行ってやる的な反骨精神で入学したもんだから入った時点で完全に燃え尽き症候群出ちゃってて、本来の目的なんてすっかり忘れてた訳」
「忘れてた訳って……」
びっくりした。ただ映画で静かに座ってんのが嫌だっていう話から、まさかこんな話に繋がるなんて。
「だから、改めて教えてくれてありがとうって思ってる。高校に行くのは勉強する為と思うと無駄な毎日に意味が出来てスッキリした。オレ、何かをする為には納得出来る理由がないとダメみたい」
「……そうか。それはなんというか……」
「なんというか?」
「……うん。まぁその、おまえってさ、意外と真面目なんだな」
「! オレ、真面目?」
目を丸くして聞き返してくる橘に、俺は大きく頷いた。自由な言動に派手な見た目。外から見たら絶対にそんな風には思わないけど、今日今この瞬間に橘に対して感じたのはこの言葉で間違いない。
「まぁでも、無駄も良いと思うけどな。無いと窮屈になるし」
「え、結城君がそう思うの?」
意外!と、今度は向こうが全面的に表情に出している。まぁ、意外だろう。俺はどこからどう見たって普通な男だし、真面目な男だ。
「なんだろ、おまえから見ても真面目に生きてる俺的に辿り着いた答えとして、その無駄に意味を作るのが今日で、それが明日になるから無駄にも意味がある……っていうか。つまり、意味は無駄な昨日から生まれて、それを今日の俺が明日に変える、みたいな」
「今日のオレが、明日に変える……」
「そう。だから気づいた時には無駄だとか意味が無いとか感じた分は今日の自分の経験値になってて、一つレベルが上がった新しい明日になってるから大丈夫、みたいな。何事も経験が積み重なっていくからトライアンドエラーの精神でというか、失敗なくして成功なし、的なメンタルで。だから橘もあんま考え過ぎんなよ」
「…………」
そして、自分語り恥っ、と我に返り俺が黙ると、ここで暫しの沈黙。橘は何も言ってこない。あれ? やっぱり俺めちゃくちゃスベってる?と、冷や汗が滲み出す程の無言の時を経て、ようやく橘は口を開いた。
「……結城君って先生じゃん」
「……え?」
「ありがとう、俺の先生」
「は?」
揶揄われているのだと思って言い返そうとしたら、真っ直ぐな瞳に言葉を喉の奥に閉じ込められた。キュッと力が入ってどう反応していいのか分からない。
「オレ、結城君の事尊敬する」
少しもふざけずにそんな事を言ってくるものだから、居た堪れない気持ちになって顔を逸らした。先生って、尊敬するってなんだよ。
恥ずかしいのか、照れくさいのか、なんだかむず痒い気持ちなのが俺だけなのは可笑しいだろと思ったけど、これ以上特に言う事も言われる事も無く話題は移り変わっていった。
それからというもの、橘は宿題の他に度々何かあると報告に来たり、ちょっとした相談のようなものをしてくるようになった。
そんな奴の様子から、俺の事を先生だと言ったのは俺の答えを信用しているという意味なのかなと受け取り、信じて貰えるならば答えたいと、下手な返事をして間違えないよう以前よりも気をつける様になった。なんというか、丁寧に扱いたい相手になったというか。
だって橘は、俺が思っていたよりずっと真面目に物事を考えている奴なのだから。それを知っている今、誠実に対応するべきだと、その時々の橘の言葉に耳を傾ける。特に親しい訳でも、いつも一緒にいる訳でもない橘の存在は着実に俺の中で大きな物となっていった。
「結城君。オレさ、なんか毎日に飽きてきたというか、そろそろ次のステージに進みたいなと思い始めている」
「? つまり?」
「バイトを始めようと思う」
「な? 良くない?」と、ニコニコして橘は俺の返事を待っていて、特に否定する事もないので、「良いと思う」と頷くと、一層嬉しそうに笑った。
「実はもう決めてんだ、ここ」
「居酒屋じゃん。大変そう」
「でもなんかガヤガヤしてて楽しそうじゃね? コンビニはもっとキツそうだし、動き回れる方が性に合ってるし」
まあ、確かに。橘の性格的に考えればそうかもしれない。
「結城君も暇じゃん? やろーよ」
「いや俺は映画鑑賞の趣味あるんで」
「ここぞとそれ出すのやめろー」
そう言ってケラケラ笑いながら自分の席に戻って行った橘と後日話した時にはもう居酒屋でのアルバイトは始まっていて、思い立ったら即行動な所がすごくあいつらしかった。
しかもどうやらそのバイトがとても楽しいらしく、始めてから今日まで橘は随分とご機嫌な様子である。
「オレ今、すっごい意味のある毎日を生きてるって感じがする」
キラキラと目を輝かせ、恥ずかしげもなく真っ直ぐに気持ちを告げる橘は眩しかった。奴の言う意味のある毎日。それがどんなものなのか、どんな意味をもっているのか俺には分からなかったけれど、ずっと探し求めていた何かがそこにあったのだろうという事だけは奴を見ていて俺にも分かった。
「これも結城君が言ってくれたおかげだ」
「え、俺?」
「結城君にあの時言われなかったらオレ、今頃つまんねー毎日のままだったと思う。自分の明日は自分で作る! みたいなメンタルで今はやらせてもらってます」
「それが無駄な昨日を変える今って事だよな!」と、爽やかなのに力強い笑顔で橘は俺に言う。それはまるで青春を具現化したような笑顔だった。
さて、そう言われた俺はというと、あまりの出来事にあっけに取られてしまったというか、あまりの眩しさに目が眩んでしまったというか、怯んでその場を動けなくなり、立ち尽くす事になってしまったというか……なんというか、なんだか橘が随分遠くへ行ってしまったような気持ちになってしまった。
「……俺のおかげなんかじゃないよ。これは橘が自分で見つけた答えだよ」
そこには素直に喜ばしい気持ちと、少しの羨ましさがある。結果、では俺の毎日はどうだろうと考えさせられるきっかけとなった。