絵画『同志』が完成してから、功一の態度は明らかに変わった。廊下の端同士にいても、俺を見かけるといつも大声で俺を呼んで手を振った。
反応しないと聞こえていないと勘違いされ、返事をするまで大声で呼び続けるのが恥ずかしかった。かといって、俺も大声を出すのは憚られたので、手を軽く挙げて聞こえていると意思表示をするのが常だった。ある日、友人の島田といる時に、「布施くーん!」と大声で叫ばれた。廊下の端と端の距離でも分かるくらいにニコニコしている功一とは対照的に、島田は信じられないといった表情をしていた。
「お前、あの瀬尾にここまで懐かれるってすごいな。いったい何したの?」
「同じ美術部なんだよ。ああ、そうか。島田って瀬尾と中学同じなんだっけ」
「そうそう、三年間同じクラスだった。てか、あいつマジでどうしちゃったの。高校デビューって次元じゃねえ」
「あいつ、昔はどんなんだったの」
「俺はほとんど話したこと無いってか誰かとしゃべってんのも見たことないな。一匹狼そのものだったし、仲良かったやつとかいるのかな。でも、頭良かったし、絵がうまくていつも踊り場に美術教師があいつの絵飾ってたから、みんな一目置いてたよ。学校行事のパンフレットの表紙とかもいつもあいつが描いてたな。あと、文化祭に来てたあいつの姉ちゃんがすげー美人だって噂になってた」
「性格がまるで見えてこねえ」
「そんなこと言われても知らねえよ。とにかく、大声で「布施くーん!」なんて叫ぶタイプじゃないし、笑ってるのも初めて見たわ。すごい通り越して怖いよお前。今日からお前のことラスボスって呼ぶわ」
「おいやめろ」
姉がいることはこの時初めて知った。外見については、そこらのストーカーよりもじっくり見てきたつもりだが、案外何も知らないのかもしれないと思った。
その日の放課後、部活前に画材の準備をしている最中に俺の私物に描いてある名前を見た功一に問いかけられた。
「布施君の下の名前って、志月っていうの? 綺麗な名前だね」
「今更かよ」
ずっこけそうになった。もう一学期も終わろうとしているというのに。下の名前も知らないヤツによくあそこまで親しげに出来たなと呆れた。
「え、だって布施君も僕のこと名字で呼ぶし、僕の下の名前知らないっしょ?」
「功一だろ」
「すごい、よく覚えてたね。1回しか自己紹介してないのに。じゃあ、これから僕のこと功一って呼んでよ。僕も志月って呼んでいい?」
「付き合いたてのカップルじゃねえんだから、いちいち許可取らずに好きなように呼べよ」
「そのたとえが出てくるってことは、ずばり、志月には彼女がいる。合ってる?」
探偵のように指をさしながら瀬尾が言った。実際にはもう別れていたが、中学の時に付き合っていた彼女はいた。しかし、功一のテンションについて行けなかった俺はその話を広げるのが面倒くさくなり、適当にあしらった。
「黙秘。なんで瀬尾にそんなこと言わないといけないんだよ」
「功一って呼んでよ」
すかさず呼び方を訂正してくるのが面白くて、からかいたくなった。
「お前メンヘラこじらせた女子みてえ」
「えー、ひどい。で、いるの?」
「だって、どう見てもヤバいメンヘラじゃん。ってか、どんだけ知りたいんだよ」
「じゃあ、僕がメンヘラってことにしていいから教えてよ。志月のこと描いてるんだから、志月のこと知りたいのは当然だと思わない?」
「彼女いたことくらいはあるよ、普通だろ。瀬尾の方が百倍面倒くさい女みたいだけど」
「すごいね。さすが志月、モテそうだもんね。あ、僕はいないよ。あと、功一って呼んでって言ってるじゃん」
「知ってる。お前見るからに童貞っぽいもん」
「ひどい。志月、実は僕のこと嫌いだったりする?」
「これくらい普通に言うだろ。豆腐メンタルかよ」
俺の友達は基本的に全員口が悪い。男同士の普通のコミュニケーションのつもりだったが、繊細な功一には毒舌に感じられたようだ。すっかり拗ねてしまっていた。
「悪かったって。功一クン機嫌直して」
冗談っぽく名前を呼んでやると、すぐに笑った。
「志月だから許すよ」
よく言えば素直。悪く言えばチョロい。その日、俺を描く功一はとても機嫌が良さそうだった。
「志月のことが知りたい」
それ以来、時々ラインで質問攻めにされた。あの後、お互いのこと全然知らないなという話から、そもそもラインを交換していないことに気づいて笑いながら紙に書いたIDを交換したあとは毎日ラインが来る。くだらない質問や謎の心理テストから「座右の銘は?」なんて面接みたいな質問まで来た。
「そんなこと聞いてどうするんだよ」
「だって、内面も知ってる方がいい絵が描けると思って」
「よく言うよ。つい最近まで俺の下の名前も知らなかったくせに」
軽口を叩いたが、絵のためにと言われれば何でも答えた。俺は功一の絵の完成が楽しみだった。
うだるような暑さの夏の日、ついに功一が俺の絵を描き上げた。その絵を見た瞬間、全身に電流が走った。キャンバスの中に、俺の知らない俺がいた。しかし、絵の中の俺は紛れもなく布施志月で、違和感の欠片もなかった。俺ですら知らなかった一面を自覚させられ、それはすっと俺の心に入り込んだ。
功一への尊敬心は十倍以上に膨れあがった。俺は同じようにゴッホの絵に魅了されて上達を志す功一を『同志』だと思っていたが、功一は俺の遥か前方を走っている。いつか隣を走りたいと思った。
俺の肖像画を功一はコンクールに提出した。三学期、その絵が何かの賞を受賞して全校朝会で功一が表彰されていた。受賞の有無にかかわらず、功一への尊敬心はカンストしていたので変わらなかった。しかし、ようやく世間が功一のすごさに気づいた、俺が一番最初にあの絵を見たのだと世間に対する底知れない優越感を抱いていた。絵の題名は『友』だった。
反応しないと聞こえていないと勘違いされ、返事をするまで大声で呼び続けるのが恥ずかしかった。かといって、俺も大声を出すのは憚られたので、手を軽く挙げて聞こえていると意思表示をするのが常だった。ある日、友人の島田といる時に、「布施くーん!」と大声で叫ばれた。廊下の端と端の距離でも分かるくらいにニコニコしている功一とは対照的に、島田は信じられないといった表情をしていた。
「お前、あの瀬尾にここまで懐かれるってすごいな。いったい何したの?」
「同じ美術部なんだよ。ああ、そうか。島田って瀬尾と中学同じなんだっけ」
「そうそう、三年間同じクラスだった。てか、あいつマジでどうしちゃったの。高校デビューって次元じゃねえ」
「あいつ、昔はどんなんだったの」
「俺はほとんど話したこと無いってか誰かとしゃべってんのも見たことないな。一匹狼そのものだったし、仲良かったやつとかいるのかな。でも、頭良かったし、絵がうまくていつも踊り場に美術教師があいつの絵飾ってたから、みんな一目置いてたよ。学校行事のパンフレットの表紙とかもいつもあいつが描いてたな。あと、文化祭に来てたあいつの姉ちゃんがすげー美人だって噂になってた」
「性格がまるで見えてこねえ」
「そんなこと言われても知らねえよ。とにかく、大声で「布施くーん!」なんて叫ぶタイプじゃないし、笑ってるのも初めて見たわ。すごい通り越して怖いよお前。今日からお前のことラスボスって呼ぶわ」
「おいやめろ」
姉がいることはこの時初めて知った。外見については、そこらのストーカーよりもじっくり見てきたつもりだが、案外何も知らないのかもしれないと思った。
その日の放課後、部活前に画材の準備をしている最中に俺の私物に描いてある名前を見た功一に問いかけられた。
「布施君の下の名前って、志月っていうの? 綺麗な名前だね」
「今更かよ」
ずっこけそうになった。もう一学期も終わろうとしているというのに。下の名前も知らないヤツによくあそこまで親しげに出来たなと呆れた。
「え、だって布施君も僕のこと名字で呼ぶし、僕の下の名前知らないっしょ?」
「功一だろ」
「すごい、よく覚えてたね。1回しか自己紹介してないのに。じゃあ、これから僕のこと功一って呼んでよ。僕も志月って呼んでいい?」
「付き合いたてのカップルじゃねえんだから、いちいち許可取らずに好きなように呼べよ」
「そのたとえが出てくるってことは、ずばり、志月には彼女がいる。合ってる?」
探偵のように指をさしながら瀬尾が言った。実際にはもう別れていたが、中学の時に付き合っていた彼女はいた。しかし、功一のテンションについて行けなかった俺はその話を広げるのが面倒くさくなり、適当にあしらった。
「黙秘。なんで瀬尾にそんなこと言わないといけないんだよ」
「功一って呼んでよ」
すかさず呼び方を訂正してくるのが面白くて、からかいたくなった。
「お前メンヘラこじらせた女子みてえ」
「えー、ひどい。で、いるの?」
「だって、どう見てもヤバいメンヘラじゃん。ってか、どんだけ知りたいんだよ」
「じゃあ、僕がメンヘラってことにしていいから教えてよ。志月のこと描いてるんだから、志月のこと知りたいのは当然だと思わない?」
「彼女いたことくらいはあるよ、普通だろ。瀬尾の方が百倍面倒くさい女みたいだけど」
「すごいね。さすが志月、モテそうだもんね。あ、僕はいないよ。あと、功一って呼んでって言ってるじゃん」
「知ってる。お前見るからに童貞っぽいもん」
「ひどい。志月、実は僕のこと嫌いだったりする?」
「これくらい普通に言うだろ。豆腐メンタルかよ」
俺の友達は基本的に全員口が悪い。男同士の普通のコミュニケーションのつもりだったが、繊細な功一には毒舌に感じられたようだ。すっかり拗ねてしまっていた。
「悪かったって。功一クン機嫌直して」
冗談っぽく名前を呼んでやると、すぐに笑った。
「志月だから許すよ」
よく言えば素直。悪く言えばチョロい。その日、俺を描く功一はとても機嫌が良さそうだった。
「志月のことが知りたい」
それ以来、時々ラインで質問攻めにされた。あの後、お互いのこと全然知らないなという話から、そもそもラインを交換していないことに気づいて笑いながら紙に書いたIDを交換したあとは毎日ラインが来る。くだらない質問や謎の心理テストから「座右の銘は?」なんて面接みたいな質問まで来た。
「そんなこと聞いてどうするんだよ」
「だって、内面も知ってる方がいい絵が描けると思って」
「よく言うよ。つい最近まで俺の下の名前も知らなかったくせに」
軽口を叩いたが、絵のためにと言われれば何でも答えた。俺は功一の絵の完成が楽しみだった。
うだるような暑さの夏の日、ついに功一が俺の絵を描き上げた。その絵を見た瞬間、全身に電流が走った。キャンバスの中に、俺の知らない俺がいた。しかし、絵の中の俺は紛れもなく布施志月で、違和感の欠片もなかった。俺ですら知らなかった一面を自覚させられ、それはすっと俺の心に入り込んだ。
功一への尊敬心は十倍以上に膨れあがった。俺は同じようにゴッホの絵に魅了されて上達を志す功一を『同志』だと思っていたが、功一は俺の遥か前方を走っている。いつか隣を走りたいと思った。
俺の肖像画を功一はコンクールに提出した。三学期、その絵が何かの賞を受賞して全校朝会で功一が表彰されていた。受賞の有無にかかわらず、功一への尊敬心はカンストしていたので変わらなかった。しかし、ようやく世間が功一のすごさに気づいた、俺が一番最初にあの絵を見たのだと世間に対する底知れない優越感を抱いていた。絵の題名は『友』だった。