瀬尾功一と出会ったのは、仮入部期間最終日の美術室だった。中学では三年間サッカー部に所属していたが、熱血気質ではないので性に合わなかった。だから高校では文化部に入ろうと思った。
 西洋絵画好きの父に小さい頃からよく美術館に連れて行ってもらったので絵は好きだった。中でも、ゴッホの人物画が好きだった。小学校の図工も、中学校の美術の成績も常に良好。夏休みの宿題で描いた絵を教師に褒められた。小さな理由が心に降り積もっていた。
色々な部活を見学したが、結局、初日ちらりと覗いた美術部に心は傾いていた。

 最終日に改めて美術室を訪れると、瀬尾はもう入部を決めて絵を描いていた。他の部活よりクオリティの高いプラカードを持って必死に校庭で勧誘していた先輩たちよりも、美術室前で呼び込みをしている先輩たちよりも彼は遥かにこの空間に馴染んでいた。案内してくれた先輩が「あの子も一年生だよ」と教えてくれなければ新入生だとは気づかなかったと思う。
 挨拶をしたが完全に無視され、少しだけイラっとした。彼の絵はだいぶ描き進められていた。素人目にもうまかった。一目ですごいと感じた。彼の絵はゴッホに強く影響を受けていた。
「ゴッホ、好きなの?」
「分かる?」
 俺が気まぐれにもう一度問いかけると途端に瀬尾は大きな目を輝かせた。無口なコミュ障に見えたが、思いの外饒舌で、ゴッホの絵が好きだと言うこととその理由をまくし立てた。これはこれでしゃべるタイプのコミュ障という雰囲気がにじみ出ていたが、決して不快ではなかった。
 彼は身を乗り出して楽しそうに喋った。至近距離でよく見ると整った顔立ちをしていた。彼はコミュ障だけれども、惚れる面食いの女子もいるかもしれないと勝手に想像して少し笑ってしまった。
 その年、美術部に入部したのは彼と俺の二人だけだった。二年生はいなくて、三年生が五人。二人きりの同期ともなれば、歓迎会で多少会話は生まれる。彼が中学でも美術部だったことを知った。
 本格的に活動が始まり、俺は人物画を描きたいと思っていた。そのモデルに瀬尾を選んだ合理的な理由は二つ。先輩や部外者に頼むのは気が引けるから、そして、彼が一般的に美男子と呼ばれる類いの人種だったから。しかし、本質的な理由は絵に向き合う真剣な瞳を、美術部員の卵の端くれとして美しいと感じたからに他ならない。
「瀬尾が絵を描いてるところ、描いても良いか?」
「布施君が? 僕を?」
 瀬尾は不思議そうに首を左右に交互に九十度ずつ傾けた。
「嫌なら良いけど」
「全然嫌じゃないよ!」
 慌てたように瀬尾は身を乗り出した。
「ふつつかものですがよろしくお願いします」
「何だよ、その挨拶」
 逆に俺にお辞儀をする瀬尾に、思わず吹き出した。
 絵を描く目的で瀬尾を観察していると、色々なことに気づく。睫毛が長いとか、姿勢がいいとか、考え事をするときの癖だとか、俺はやたらと瀬尾に詳しくなってしまった。瀬尾の外見を一言で総括するならば、憂いを帯びた美少年。彼を見ていると自然に筆が動いた。

 美術部に入るほど芸術の素養のある人間は大抵家が裕福だ。そういう家庭の生徒は親が社長や士業であることが多い。跡継ぎや面目等の事情で、何かと子どもをいい大学に入れなければならない理由があった。教育熱心な親の指示で、先輩は皆六月ごろには引退し受験勉強に専念していた。俺が絵を完成させる前に、先輩達は荷物や作品をすべて撤収し、部活に顔を出さなくなった。
 こんなにすぐ引退するというのに、勧誘に必死になっていた先輩たちの姿を思い出す。彼らはきっと、美術部を廃部にしたくなかったのだ。卒業しても母校に美術部という居場所を残したかったのだと思う。

 貸し切りの美術室は少しだけ広くなった気がした。静かな空間は集中するのに最適だった。俺は毎日瀬尾を描き、瀬尾は静物画を描いていた。素人目に見ても瀬尾は才能の塊だった。そう言うと、まるで俺が美術に詳しい人間のようだが、単純に瀬尾の絵は俺の好みだった。結局俺は絵描きとしての瀬尾を尊敬しているから、瀬尾功一という人間そのものにも興味を持ったのだ。外見云々は後付けの理由だった。
 俺は完成した絵を瀬尾に見せた。どう見ても素人の絵で、瀬尾に比べるとお世辞にもうまいとは言えないが、瀬尾は感動していた。
「すごい! 布施君、絶対天才だよ!」
「そうかな、モデルがいいからじゃね?」
「布施君の腕だよ。僕、この絵すごく好き。君のファンになったかも」
「褒めても何も出ないぞ……ありがとな」
 その時の瀬尾の目は、ゴッホの絵が好きだと言っていたときのキラキラした目、絵を描いているときのあの宝石のような目と同じだった。瀬尾はおべっかを言えるような世渡り上手ではないとは分かっていたが、本心から言ってくれていることを肌で感じ、嬉しくなった。 しかし、同時に気恥ずかしくてつい目をそらしてしまった。
「布施君に触発されて、僕も絵描きとしての君のこと描きたくなっちゃった。布施君のこと、モデルにしてもいい?」
 瀬尾が俺に問いかける。断る理由がなかった。瀬尾が描く俺を、瀬尾の目を通した俺の姿を見てみたかった。俺はこの日、瀬尾を描いた絵を『同志』と名付けた。