パトカーのサイレンの音がする。俺たちは家出少年の保護という名目で大人に捕まって、親という絶対的権力者に裁かれる。二人で共謀した騒動の代償に、俺たちの絆は断頭台にかけられる。
「タイムリミットだな」
「そうだね、これで僕たちもロミオとジュリエットだ」
「だから、いちいちたとえがおかしいんだよ」
涙を拭うことなく苦笑した。変わらない功一にどこか安心している。
「よかった、志月が笑ってくれて」
「呆れてるんだよ」
「それでもいいよ」
功一も泣きながら微笑んだ。
「やっぱり僕、絵描くのやめたくない」
俺たち二人で描いた絵を見下ろしながら、功一が呟いた。
「その方が良いと思うよ。俺、お前の絵好きだし」
俺がそう返すと、功一は震える手で俺のコートの裾を掴んだ。
「志月、一生のお願い。志月もやめないで」
ドクン、と心臓が鳴った。眼下には俺たちが描き上げた向日葵が太陽に照らされている。
「今は無理でも、いつかまた一緒に描こうよ。僕たちの思い出の場所でさ。ほら、久保さんが壁画描いていいよって言ってくれたじゃん」
許されない夢だと分かっていても、一緒に叶えたくなってしまうじゃないか。他でもない功一の描く夢だから。
「ああ、次は何を描こうか」
「これを越える向日葵は描けないよ」
「同感。俺らが埋めた絵の代わりに、あったかもしれない未来でも描くか」
「そうだね、今よりちょっとだけ大人になった志月と僕が一緒に絵を描いてる絵なんてどう? 誰にも邪魔されない、二人だけの世界で」
「最高だな。やっぱり功一はセンスの塊だよ」
きっと今、俺の頭の中と功一の頭の中には同じ景色が浮かんでいる。それはきっと歴史に残る絵になると確信していた。
「引き離されても、絶対会いに行く。俺たちが大人になって、忙しくなって、綺麗事だけじゃ生きていけなくなっても、少しずつでも、一緒に描こう」
「うん、待ってる。いや、嘘。僕の方から会いに行く。おじいちゃんになっても、絶対完成させるんだ」
綺麗な顔をぐしゃぐしゃにして、最後は嗚咽混じりの声で功一が答えた。絵を描き上げるのに使った枝を俺に差し出した。
「約束の証」
「ああ」
俺も同じように差し出して、画材を交換する。他人から見ればゴミにしか見えないくたびれた棒きれを強く握りしめた。俺達の宝物。同じ木の枝が俺達を遠い空の下、繋いでくれる。
俺は功一を書いた絵に『同志』、功一は俺を書いた絵に『友』とタイトルをつけた。俺達が歩んできた旅路は俺達の関係の名前を変えた。今ならお互いを相棒と呼ぶのだろう。いつかまた二人で一枚の絵を描き上げたとき、俺達の関係は、その絵のタイトルは『相棒』よりも深い何かになっているのかもしれないが未来は誰にも分からない。
思い出の中のお互いの姿を殺して埋めた夜に交わした約束。何十年先になっても、二人で一つの大きな絵を完成させよう。それまで俺たちはずっと相棒だ。
パトカーを降りた警察と、俺達の両親が駆け寄ってくる。俺達の夢は小休止を挟むことになる。功一は小さく「またね」と呟いた。
泣くな。負けるな。顔を上げろ。どちらの親の叱責とも、お互いへの責任転嫁とも分からない大声を聞きながら、ただ約束の証を握りしめていた。
「そんな汚いゴミは捨てなさい。帰るぞ」
「嫌だ! 絶対捨てない!」
功一が今までに聞いたことのないほど大きな声を出し、驚いて思わず彼を見る。
「何で僕から全部奪おうとするの。成績ずっと一番ってわけじゃなかったけど、勉強もちゃんと頑張ってた。そりゃ大学の学費出すのは父さんだから、大学は父さんの決めたところに行くのが筋かもしれないけど……。でも、言われたとおり国立受かったんだよ。学校を決める権利はあっても、父さんと母さんに僕の生き方まで決める権利なんてないだろ! 僕の夢まで奪うなよっ!」
息を切らせながら、功一が叫ぶ。“いい子”として生きてきた功一が、口下手ながらに真正面から支配的な両親に啖呵を切っている。
俺は今まであんなにまっすぐになれたことがあっただろうか。少し口が上手かったから、のらりくらりと生きてきた。三島に舐められても悔しいという気持ちには蓋をして、逆に利用してやると息巻いた。父が俺のことを「どうせ受かりっこないだろう」と思っていることも好都合だと虚勢を張っていた。
うまく生きてきたつもりで、結局肝心の勝負には負けてしまった。俺のおかげで楽しかったと功一は言ってくれたけれど、文化祭で何をしようとかそういう楽しい提案は全部功一のものだった。俺が言い出したことといえば、卒業式をボイコットして両親に恥をかかせてやることと、最後の思い出作りだけ。
誰よりも絵が大好きで、俺をいつだってキラキラした世界に導いてくれた功一の未来は誰にも奪わせない。
俺はヒステリーを起こして功一を殴ろうとする功一の母親の腕を掴んだ。
「なんなの、あなた! 離しなさい!」
「俺たちの夢は、絵描きとして食っていくことじゃなくて、描きたい絵を描くことです」
巨匠ゴッホが生前に売ることができた絵は一枚だけだ。画家として生計を立てられなくたって、こうして数百年後を生きる俺たちの心を動かす絵を描くことはできる。美大に行けなくたって、他の職業についたって絵をやめる必要なんてない。ひねくれた俺は難しく考えすぎていたのかもしれない。
「俺たちの絵、一回でいいから見てください。父さんと母さんも」
俺は砂浜に描いた『最後の向日葵』を指差す。俺たちの魂を込めた絵は誰かの心を動かせるだろうか。
「志月」
功一が俺の名前を呼ぶ。大丈夫だ。未来はきっといい方向に行く。だって、『最後の向日葵』は功一にまた絵を描きたいと言う気持ちを取り戻させてくれたから。
「功一、走るぞ」
「え?」
俺は功一の手を掴むと、裸足のまま走り出した。功一は戸惑っていたが、構わず手を引っ張った。元体育会系の俺のスピードに、完全にインドア派の功一が根性だけでついてくる。
「一回しか言わないからよく聞けよ。あのさ、俺、ずっとお前に憧れてたんだ」
走りながら、振り返らず声を張り上げる。
「うん」
「ずっとお前の背中だけを見てきて、それでも追いつけなくてさ。『同士』としても『友』としても『相棒』としても、ふさわしい自分になれなくて悔しかった」
「そんなことない」
ぜえぜえと息を切らせながら功一が否定してくれる。そんな彼に誇れる自分になりたいと思った。
「俺、才能あるわけじゃないから、立ち止まってる時間なんてねえんだよ」
功一と描いたあの向日葵は何より俺を変えてくれた。俺はあの花にも、ずっと見つめてきた憧れの人にも恥じない自分にならないといけない。
「功一、俺の一生のお願いも聞いてくれ」
「うん」
「おじいちゃんになっても、なんて悠長なこと言ってらんねえよ! 今から久保さんとこ行って、さっき描こうって言ってた絵、一緒に描いてくれ!」
もう功一が行くと言っていた「来年」になった。民宿は畳んでいて、他のお客さんに気を遣う必要もない。画材は貸してもらおう。一度だけわがままを許してほしい。
「うん!」
功一が俺の手を握る力が強くなり、さっきまで泣いていたとは思えないほど声が躍ってていた。気持ちは最高潮のまま久保荘にたどりつく。両親も警察もついてきていない。
「さて、みんなが『最後の向日葵』に見とれているうちに久保さんに壁画描かせてくださいってお願いしますか」
「あのさ」
俺がインターホンに指をかけると、功一が何かを言いたげにしていた。
「どうした?」
「『最後の向日葵』ってやめにしない?」
最後にするつもりで描いた手向けの花。画家としての自分と二人の思い出を殺した跡地に描いた絵。俺たちは一度死んだ。でも、あの絵を見て生まれ変わったのだ。
「異議なし。人生長いし、これから先どんどん向日葵描いていこうぜ」
「そうだね。大人になって、でっかい土地買って、今度は校庭よりも、あの砂浜よりも大きなキャンバスに色つけてさ」
一回り小さな夢さえ見ることが許されなかったくせに、功一の心のキャンバスにはいつだってサント=マリーの海原のように大きな夢が広がっている。
「ほんっとにお前は最高だよ。じゃあ、改題といきますか」
「そうだね。僕、今たぶん志月と同じこと考えてると思うよ。せーので言おうよ」
功一は息を整えると、にこりと笑った。
「せーの」
「「『始まりの向日葵』」」
俺たちの声がぴったりと重なる。俺達は顔を見合わせて笑ったまま、インターホンを押した。いつか『始まりの向日葵』を超える向日葵を二人で描くその日を夢見て。