文化祭に俺たちの両親は来なかった。しかし、久保荘のオーナー夫妻が見に来てくれた。オーナーは三島の友人とは思えないくらいいい人で奥さんも優しい人だった。
「実はね、今年の二月で廃業するんだ」
三年生の最後の合宿の時、オーナーは俺たちもいる場で三島に打ち明けた。
「毎年、三島んとこの生徒さんが来てくれるのが一番の楽しみだったよ」
合宿初日から三島はオーナーと酒を飲み交わしていた。どうして商売を畳むのかという込み入った話の時は子供には関係ない話だからということで俺たちは席を外した。
三年間お世話になったお礼に、海を描いた絵を渡したら喜んでくれた。美術部も俺たちの卒業とともに廃部になるので、最後にということで文化祭に招待した。
オーナー夫妻は『僕らの向日葵』を見て感動していた。
「いやあ、圧巻ですね」
「ありがとうございます」
「実はね、君たちがくれた絵に触発されて私たちも絵を描き始めたんです。といっても素人のままごとみたいなもんなんですが」
オーナーが照れくさそうに打ち明けた。
「宿屋はもうやめるんですが、私たちはそのまま久保荘に住み続けるつもりなのでいつでも遊びに来てくださいね。戴いた絵、大切に飾らせてもらってるんで」
「嬉しいです! じゃあ来年も行きますね!」
社交辞令を真に受けたのか、天性の愛想のよさなのかは分からないが功一はニコニコしながら答えた。
「ええ、その時はうちの壁にも何か描いてください。こんな立派な体育館ほど描くスペースはないですが。」
「えっ、直接描いていいんですか?」
「ええ。庭も持て余してますのでいくらでも」
「やった! ありがとうございます! ね、志月、地上絵も壁画も自由に描いていいってさ!」
絵のことになると周りが見えなくなるのは相変わらずのようで功一は無邪気にはしゃいでいた。
連絡先を交換したわけでもないし、卒業すれば三島との縁も切れる。社交辞令だとは分かっていたが、その瞬間は俺も悪い気はしなかった。
文化祭が終わると、夢のような時間は終わった。俺達は部活を引退した。作品を少しずつ美術室から自宅に持ち帰り始めたが、全部引き上げたら本当に全部終わってしまう気がして、わざと少しずつ持ち帰った。新しい順に一枚ずつ絵を持ち帰り、遡るように思い出を振り返る。数日間、十分に堪能した後にまた新しい絵を持ち帰る。そんな牛歩戦術をしている間に、周りの空気も進路一色になった。俺達は当然、美大に行きたかった。しかし、立ちふさがる最大の障壁は親だ。
俺の家は弁護士事務所、功一の家は開業医、当然家業を継ぐことが求められる。幸いにも俺には弟がいて、功一にも既に東京で今年から研修医として働いている姉がいたので、一人っ子に比べれば進路選択の自由が認められていると思っていた。
弟の方が法曹界に適性がある、浪人はしないから一度だけチャンスが欲しいと交渉した。父は、東京大学文化Ⅰ類受験を条件に美大も受けることを許可した。勉強の手を抜くことは許さない。勉強の妨げにならないのなら一度だけ夢を見てもいい。模試でA判定を取ったら美大受験を認めてくれるとのことだったので死にものぐるいで勉強した。
学業と美大の試験対策の両立は常軌を逸する大変さだった。睡眠不足になり、体重が七キロ落ちた。血を吐くほどの努力で、何とかA判定をもぎとり、親に許可を得た。
「東大と美大、両方受かったら美大の方行っていいんだよな?」
「好きにしなさい」
交渉成立。言質はとった。
一方、功一は門前払いを食らったという。制服をまくって痣を見せてきた。
「美大受けたいって言ったら母さんがヒステリー起こしてさ。もう仕方ないからこっそり受けてから考えようと思ってるんだよね。日程、医大と被ってないし」
躾や親子喧嘩の範疇を大幅に超えた痣なのに、功一は朝ご飯のパンが焦げた程度のことを報告するかのようにさらりと言った。
「痛くねえの?」
「痛いけど、慣れてるし。医者の父さんが見て見ぬふりしてるくらいだし、これくらいじゃ死なないし痕も残らないよ。テストで悪い点とると僕のこと殴るけど、姉ちゃんのことは朝帰りしても怒鳴るけど殴らないから、ちゃんと良識ある人なんだよ。女の子のお肌に傷が残ったら大変でしょ理論ってやつ」
典型的な教育虐待だった。唯一の理解者であったはずの姉は遠くに住んでいるうえに激務なので頼れないらしい。
「僕より姉ちゃんの方が大変だと思うよ。僕、父さんとは仲いいけど姉ちゃんは留年してからどっちとも仲悪いからさ」
「留年とか、あるんだ」
こんなことが言いたいんじゃないのにそれしか言葉に出来なかった。姉がどんな状況にあろうと、功一が辛い境遇にあると言う事実に変わりはないのに。
「医学部って試験一個でも落としたら即留年なんだって」
「厳しいんだな」
こういう時に掛ける言葉を知らないことがもどかしかった。
「姉ちゃんはどっちかっていうと、継ぎたかった人なんだよね。でも、継ぐのは長男に決まってるとか言い出してさ。女の子が六年も大学行ったらお嫁に行くのが遅れるとか、頭古いっしょ。何時代だよって感じ。普通に親戚に女医さんいるのに。父さんまで僕に継がせるとか言い出したから国家試験受かった後、姉ちゃんぶちきれてすごい大喧嘩。で、父さんも母さんもお前は紗理花みたいに反抗的な子にはなるなってさ。あ、紗理花って姉ちゃんのことね。姉ちゃんの方が僕よりよっぽどまともなのに、見る目終わってるよね」
出会った頃に漂っていたどこか悲壮な雰囲気と壮絶な生い立ちがリンクした。何も知らなかった自分を恥じた。
「今、可哀想だって思った? 言っとくけど僕全然不幸じゃないから。志月と美術部で三年間過ごせて楽しかったしさ。だから、一緒の大学行こうね」
功一はいつもの笑顔を向けた。
「実はね、今年の二月で廃業するんだ」
三年生の最後の合宿の時、オーナーは俺たちもいる場で三島に打ち明けた。
「毎年、三島んとこの生徒さんが来てくれるのが一番の楽しみだったよ」
合宿初日から三島はオーナーと酒を飲み交わしていた。どうして商売を畳むのかという込み入った話の時は子供には関係ない話だからということで俺たちは席を外した。
三年間お世話になったお礼に、海を描いた絵を渡したら喜んでくれた。美術部も俺たちの卒業とともに廃部になるので、最後にということで文化祭に招待した。
オーナー夫妻は『僕らの向日葵』を見て感動していた。
「いやあ、圧巻ですね」
「ありがとうございます」
「実はね、君たちがくれた絵に触発されて私たちも絵を描き始めたんです。といっても素人のままごとみたいなもんなんですが」
オーナーが照れくさそうに打ち明けた。
「宿屋はもうやめるんですが、私たちはそのまま久保荘に住み続けるつもりなのでいつでも遊びに来てくださいね。戴いた絵、大切に飾らせてもらってるんで」
「嬉しいです! じゃあ来年も行きますね!」
社交辞令を真に受けたのか、天性の愛想のよさなのかは分からないが功一はニコニコしながら答えた。
「ええ、その時はうちの壁にも何か描いてください。こんな立派な体育館ほど描くスペースはないですが。」
「えっ、直接描いていいんですか?」
「ええ。庭も持て余してますのでいくらでも」
「やった! ありがとうございます! ね、志月、地上絵も壁画も自由に描いていいってさ!」
絵のことになると周りが見えなくなるのは相変わらずのようで功一は無邪気にはしゃいでいた。
連絡先を交換したわけでもないし、卒業すれば三島との縁も切れる。社交辞令だとは分かっていたが、その瞬間は俺も悪い気はしなかった。
文化祭が終わると、夢のような時間は終わった。俺達は部活を引退した。作品を少しずつ美術室から自宅に持ち帰り始めたが、全部引き上げたら本当に全部終わってしまう気がして、わざと少しずつ持ち帰った。新しい順に一枚ずつ絵を持ち帰り、遡るように思い出を振り返る。数日間、十分に堪能した後にまた新しい絵を持ち帰る。そんな牛歩戦術をしている間に、周りの空気も進路一色になった。俺達は当然、美大に行きたかった。しかし、立ちふさがる最大の障壁は親だ。
俺の家は弁護士事務所、功一の家は開業医、当然家業を継ぐことが求められる。幸いにも俺には弟がいて、功一にも既に東京で今年から研修医として働いている姉がいたので、一人っ子に比べれば進路選択の自由が認められていると思っていた。
弟の方が法曹界に適性がある、浪人はしないから一度だけチャンスが欲しいと交渉した。父は、東京大学文化Ⅰ類受験を条件に美大も受けることを許可した。勉強の手を抜くことは許さない。勉強の妨げにならないのなら一度だけ夢を見てもいい。模試でA判定を取ったら美大受験を認めてくれるとのことだったので死にものぐるいで勉強した。
学業と美大の試験対策の両立は常軌を逸する大変さだった。睡眠不足になり、体重が七キロ落ちた。血を吐くほどの努力で、何とかA判定をもぎとり、親に許可を得た。
「東大と美大、両方受かったら美大の方行っていいんだよな?」
「好きにしなさい」
交渉成立。言質はとった。
一方、功一は門前払いを食らったという。制服をまくって痣を見せてきた。
「美大受けたいって言ったら母さんがヒステリー起こしてさ。もう仕方ないからこっそり受けてから考えようと思ってるんだよね。日程、医大と被ってないし」
躾や親子喧嘩の範疇を大幅に超えた痣なのに、功一は朝ご飯のパンが焦げた程度のことを報告するかのようにさらりと言った。
「痛くねえの?」
「痛いけど、慣れてるし。医者の父さんが見て見ぬふりしてるくらいだし、これくらいじゃ死なないし痕も残らないよ。テストで悪い点とると僕のこと殴るけど、姉ちゃんのことは朝帰りしても怒鳴るけど殴らないから、ちゃんと良識ある人なんだよ。女の子のお肌に傷が残ったら大変でしょ理論ってやつ」
典型的な教育虐待だった。唯一の理解者であったはずの姉は遠くに住んでいるうえに激務なので頼れないらしい。
「僕より姉ちゃんの方が大変だと思うよ。僕、父さんとは仲いいけど姉ちゃんは留年してからどっちとも仲悪いからさ」
「留年とか、あるんだ」
こんなことが言いたいんじゃないのにそれしか言葉に出来なかった。姉がどんな状況にあろうと、功一が辛い境遇にあると言う事実に変わりはないのに。
「医学部って試験一個でも落としたら即留年なんだって」
「厳しいんだな」
こういう時に掛ける言葉を知らないことがもどかしかった。
「姉ちゃんはどっちかっていうと、継ぎたかった人なんだよね。でも、継ぐのは長男に決まってるとか言い出してさ。女の子が六年も大学行ったらお嫁に行くのが遅れるとか、頭古いっしょ。何時代だよって感じ。普通に親戚に女医さんいるのに。父さんまで僕に継がせるとか言い出したから国家試験受かった後、姉ちゃんぶちきれてすごい大喧嘩。で、父さんも母さんもお前は紗理花みたいに反抗的な子にはなるなってさ。あ、紗理花って姉ちゃんのことね。姉ちゃんの方が僕よりよっぽどまともなのに、見る目終わってるよね」
出会った頃に漂っていたどこか悲壮な雰囲気と壮絶な生い立ちがリンクした。何も知らなかった自分を恥じた。
「今、可哀想だって思った? 言っとくけど僕全然不幸じゃないから。志月と美術部で三年間過ごせて楽しかったしさ。だから、一緒の大学行こうね」
功一はいつもの笑顔を向けた。