二週間後に退院が決まった。
 そして、また、中野が来た。
「……よ、元気か?退院決まったらしいな」
「そうだね。二週間後ってことは、十一月になるのか。長かったな」
「確かに」
「……学校は、どうする?藤川もいなくなって、クラスの雰囲気は一学期より安定してるけど」
 今日、彼をここに連れてきたのは、退院が決まったことを報告するとともにいうこともあったからだ。
「やめるよ。学校」
「……え?」
「転校する」
「ま、まじ?」
「お前が、言ったんだぞ?戦えって。逃げても追われるならその場で戦ってしまえって」
「い、言ったけど、でもまさか」
「中野がいろいろクラスで手をまわしてたことは知ってる。先生から聞いた。でも、もういいんだ。通信制の学校に通う。そのあとのことは、今後考えるけど、そっちの方が気持ちが荒れることはないと思う」
「……ああ、まあ、確かに。そっか」
「また、会えるでしょ」
「え?」
「ほら、スマホあるし」
「……お前、優しすぎる。俺のことなんて病室に入れない選択もできたはずだろうに」
「そうだね」
「環境が変われば、少しは楽になるかもな。落ち着いたら、学校の話とか聞かせてよ」
「うん。迷惑ばっかりかけたね」
「あ、そうだ。早川呼んでるけど大丈夫?もう着くって連絡あるけど」
「え……。は?」
「おー、早川ー」
 病室をチラッと覗く早川さんの姿。
「……」
 滅茶苦茶気まずい。
 無理無理、殴られる、殺される、助けて、助けて。
「ど、どうも」
「せ、先日は失礼な言葉の数々、誠に……」
 目が合うとギラッと睨まれたようで倒れそうになった。
 死んでしまう。
「私、魔女だから仕方ないよ。うん、傷ついてなんかないよ」
「……」
 中野と目があい助けを求めるが、見方はしてくれなかった。
 前、味方するって言ってくれたじゃないか‼薄情者!
「魔女って、傑作だな。ジャンヌとか偉人にいるけど、やっぱここはオンリーワンだよな。早川七海という魔女爆誕!」
 いえーい、ハイタッチ、じゃないんだよ!
 なに、油注いでんの⁉
「いいよ、ソウルジャムは濁ってないから」
「……」
 そんな目で見られて濁ってないとは思えない。
「申し訳ありませんでした」
「……うーん、じゃあ、美味しい店あるからそこ奢ってよ」
「はい、仰せのままに」
「よろしい」
 ニコッと笑うその顔に濁りはなかった。
「でも、どうやって母親と連絡とったんだ?病室来てないだろ?」
 話を突然戻すな、中野。
「……ああ、電話で伝えた」
 夜、仕事が終わったであろう時間にLINEを送った。
 すると、すぐに既読がついて電話をかけてきた。
『もしもし?どうかした?』
「……」
『もしもし?聞こえてる?』
「もしもし……」
『どうかした?こんな夜遅く』
「学校の話を……、したくて……」
『……うん』
「うちってさ、転校するだけのお金ってある?」
『……転校?』
「ある?お金」
『転校したいの?』
「お金があるかないかどうか」
『……財務会計とか済ませてないからわかんないけど。それなりに』
「……それなりに?」
 弟は、お金がないからバイトしろと言っていた。
 母親と会う時間なんて少ないからそれを信じるしかなかった。
『斗真に言っておいてって言ったけど。自営業だし、夜遅くまで残るから帰りは遅いって』
「聞いてない」
『だから、まあ、大丈夫。転校したいなら、しよっか。それでいいよ』
「聞いてない。言ってない。ありえない」
『まあ、でも仕方なかったというか』
「どれだけバイトしたと思ってる?学校行って、十分な睡眠もとれないまま、バイトして、夕飯も作らなくちゃいけなくて、洗濯物も干して、取り込んで……‼」
『……』
 でも、そんなことが言いたいわけじゃなくて。
「今の忘れて。何でもない。転校していいなら……」
 これが、きっと母親に対する最後の甘えだと思う。
「それだけでいい。それ以上は、何も求めない」
『……』
「転校、云々は先生に伝えとくから」
 スマホを耳から離した時、母親は何かを言っていた。
 だけど、すぐに電話を切った。
 言いたいことは言った。
 知らないこともあったけど、これで少しは余裕が生まれるだろう。
 先生にも伝えて、良い転校先も決まった。
 あとは、それに準備をしていくだけ。
「そっか。転校するんだね」
 早川さんには言ってなかった。
「うん」
「魔女からは逃げられるね」
「……」
「お前ら、魔女とかなんとか言ってるけど、何の話?」
 中野、知らなくていいぞ。
 お前は、穢れを知らなくていいんだ。
「深山くん、私のこと魔女だと思ってるから」
「ああ、納得」
 え?納得?
「納得?」
 それは、早川さんも思ったらしい。本気で言ってるわけじゃないから、余計戸惑っているのだろう。
「どうりで、深山も早川と距離を置くわけだ」
「深山もってそれどういう意味?複数人居るとでも言いたいの?」
「いや、まさか」
「ほんと?」
「ほんとほんと。俺嘘つかない」
「あっそ、死ね」
 突然の暴言に恐れおののく姿を見せる中野に拳をぶつけた早川さん。
「『コネクト』連れてってね」
「……あ、はい。もちろん」
「おごりで」
「もちろん」
 その日、退出時間まで彼女たちとくだらない話をしていた。
 三人と話す時間ももう少ないのだと思った。
 そして、なにより中野と早川さんが二人で目を見て笑っている姿に少し、苦しくなった自分がいた。

***

 二週間後、僕は退院した。
 順調に体の調子も良くなったそうだ。
 迎えに来た母親の車に乗り、家に帰る前に学校に向かった。
 転校の手続きを済ませるためだ。
 手続き自体は順調に進んだが、親の同意が必要でその説明も聞く必要があるみたいなので、今日は店自体を閉めてきたそうだ。
「店、大丈夫?」
「うん。一日くらい平気」
「そう……」
 会話は続けなかった。
 必要以上に喋る理由などどこにもない。
 僕らの家庭なんてものは、修復する以前の問題。
 僕の今の環境さえ変われば、バイトもできるし、家庭に迷惑をかけることもない。
 勉強だけ家でやればいいし、参考書を買えば、大学受験に向けたものだってある。
 そんな中、思うことがある。
 もしも、父親が居なかったら、今通っている学校に行っていただろうか。
 否、それはないだろうなと、思う。
 勉強にすら手を付けられなくなったのは、そもそも僕が家族を壊したという責任から。
 その壊れた家族が修復するわけもない、再婚してよりを戻すなんてことも現実では起きない。
 むしろ、そんなものがあるのだとしたら、きっとよりを戻したころにもまた父親は僕を叩くだろうし、責めるだろう。
 僕自身を守るためだと考えるなら、このままの方が良いのだ。
 母親の気持ちはわからないままだし、弟の気持ちなんてもっとわからない。
 弟は、僕のことが嫌いだってことくらいしか、わからないだろうけど。
「なあ、なんで……」
 言いかけてやめた。
「なに?」
 けど、母親は催促してくる。
「……生んで正解だった?」
「…………いきなりどうしたの」
「僕のこと、生んで正解だった?失敗作じゃない?だって、僕のせいで家族は崩壊した。離婚した。……よく、転校すること許したね」
 母親を責めるつもりだったのに、自分を責める結果になった。
 言っている自分が気持ち悪い。不愉快で腹立たしい。
「良いのよ。転校して。でも……、自殺しようとしたことは許してない」
「……」
「それだけは、一切許してない」
 後部座席に座る僕は、母親の顔を見ることはできなかった。
 バックミラーから母親の顔を見ることもできない。
 どんな顔で怒っているのか、わからない。
「……見てたんだ。やっぱ、あれ、母さんなんだ」
 あの日、自殺する前に誰かが鍵を開けた。気が早まってそのままベランダの柵から落ちていった。
「……ええ、そうよ。なにも、許してないわ」
「……失敗作だから、責めたんだろ?家族みんなして、僕を責めて、糾弾して、そうやって殺そうとしたんだろ。いらない子供なんて必要ないから。できれば、死んでほしいなんて思ったんじゃないの?もし、あの平穏がいつまでも続くなら、僕が男となんか付き合わなければ、きっと、きっと……っ。もっと、平穏で、二人で店をやってたはずじゃないか……。僕が、それを壊した。許さない理由はそこにあるだろ?僕が壊した愛の形を許すはずない……」
「……」
「責められて当然なのに、それで自殺するのは間違いなのに、僕がそうやって逃げたから。責められるべき人が、自殺なんてしたら許さないよな」
 自虐だった。
 誰も笑えない、誰も喜ばない、ただの自虐。
 ひねくれた答え。
 許されるはずのない行為。
 これが、親不孝だろうか。
 失敗作が廃棄されれば十分だろう。
 むしろ、親孝行だ。
 人生最大の親孝行。
 そもそも人として考えられていないのだから、廃棄処理完了とでもいうべきか。
 また、こうやってひねくれて自虐して、惨めな自分を笑う。
 消えてしまえばいい。
 こんな人生なら、終わってしまえばいい。
 やっと見つけた解決策でさえ、人と話しているとこんな風に心が荒れていく。
「……違う。それだけは違う。あなたを責めたいわけじゃない。離婚したのは――」
「僕のせい」
「だから」
「――僕のせいでいいだろ……っ!僕は、僕のせいで家庭を壊した」
「違う。ちゃんと聞きなさい」
「無理だ。絶対に無理だ。どうして、僕のせいじゃないっていうんだ。だって、離婚したのは、僕が父さんに」
「それが一番の原因だと思うなら、間違ってる。私は、私の意思で離婚を切り出した。あなたが、可愛そうだからとか、あなたが傷ついているからとかそんなのは関係なく、終わりにしたの」
「……」
「あなたのせいで、家庭が崩壊したわけじゃない。離婚もあなたに相談したわけじゃないでしょ?あなたを理由にして離婚するのは簡単だと思う。だけど、あなたの母親だからこそ、私の気持ちを優先して離婚を考えた。あなたは二の次ね。だから、壊したというのなら、私が家族を壊して終わらせた。あなたのせいじゃない」
「……じゃあ」
「あなたのことは離婚してから知った。斗真が弁護士にそう証言したみたいなの。それで知ったし、でも、斗真があなたのことは任せてって言ったから、託してた。それがまた、あなたを傷つける結果になった。警察から聞いた。斗真と空は良い関係を築けているのかって、当然仲いいと思っていたからそのはずですって言ったけど。それも違った。あなたを見てこなかった結果よ。恨むなら、それは正しい」
「……ずるいなっ。それは、ダメでしょ。何をいまさら」
「……」
「こっちがどんな思いで、どんな苦しみをどんな言葉で押し殺してたか知らないだろ‼それを恨むなら恨め?ふざけんなよ!何もできてないから、家族を壊したから、バイト代も貯めて、全部渡して、それで何を正しいとか言ってんだよ‼僕がやったことがほんとに正しかったのなら、なんで、何にそのお金は使われて、僕は、苦しい思いをしたんだよ!傷ついたなんて思いたくない!自殺なんてしたくなんかなかった!時間が経ってよく思ったよ!あの時、よく飛び降りることできたなって!許してないから、金を払わせたんだろ?どうだよ、僕の金で借金が減った気分はさ!」
「…………なに、それ」
「……は?とぼけてんのか⁉僕は、僕は母さんの店が借金多くて閉店させなきゃならないからって言ってたぞ!何、今更とぼけてんだよ。ふざけたこと言いやがって……っ!」
「してない。そんなこと。そもそも、借金ってなに?返済できる額はあるし、ハイリスクな営業はしない」
「……は?」
 信号で止まる車。
 静寂の中、ある一つの結論だけ見つかっていた。
『離婚したことで、家も変わった。家が変わって、お金も使ってる。店のお金も使ったみたいで、それは借金になるらしい。その借金が多くて、営業に支障をきたす可能性がある。今、閉業したら大変だ。言ってしまえば、お金がない。だから、バイトをして、お金をためてほしい。俺から、渡しとくから、よろしくね。ほんとは、俺もバイトして払いたいんだけど、まだ中学生だからさ』
『仕方ないよ。……あんまり言いたくないけど、兄貴が、壊したんだよ。今までの平穏を』
 自転車で並走する男子生徒たちが笑いながら前を通っていく。
「斗真だ」
「……え?」
「後で、話すよ」
 その時、本気で思った。

 弟は、クズだ。

 あの状況を利用して、お金を得る方法を考えた。
 どうりで、すぐに帰ってこない日があるわけだ。
 夏休み、ほぼ毎日外に出ていた。
 部活も八月の初めには終わっていた。
 そのくせに、毎日のように外に出て夕方ごろに帰ってくる。
 どうして、すぐに違和感に気づけなかったのだろう。
 そもそも、弟の小遣いだけで考えれば、高頻度で外に出ることは難しい。
 自習室で勉強するにしても、同じ中学なのだからわかったはずなのに。
 自習室が、八月は週二日しか開けていないこと。
 お盆の時期は開いていない。
 そして、お金のないはずのあのマンションで、彼の部屋だけ異様にものが多かったこと。
 父親が開けたことで、発覚したことだ。
 僕から、お金を取っていた。
 そのお金で、気になっていた漫画や小説、グッズを買ったんだ。
 そのくせ、参考書は一見したところなかった。
 空っぽの僕の部屋とお金がないと言っている弟の部屋ではものがありすぎる。
 あれだけ、毎日のように外に出て自習室に行けるわけじゃない。
 お金だって二千円くらいしかもっていないはず。
 そのお金で外に出て、どこかで勉強するならその分必要なお金があるはずなのだ。
 でも、弟は自分で言っていた。お金がないんだ、と。
 転校の手続きを済ませた帰り、母親は口を開いた。
「斗真が、何をしたの?」
「先に良い?」
 そんなことを言う僕を不思議そうに見た後、頷いた。
「僕が母さんの愛情を拒否していたこと、どう思ってた?」
「…………ぷっ!アハハッ!なにそれ」
 一瞬の静寂の後、大笑いをした。
「とっくに知ってた。いやぁ、自分でもしょうがないなって思ってた。だって、私がお酒で酔っぱらった時からだもん。わかるよー。親の体重なんて子供からして重いだけだもんねー。無理もないよー」
「……知ってたんだ」
「そりゃまあね。だって、あの後、人殺しを見るような目で後ずさりするんだもん。ハグを怖がってるなって」
「……」
「それが?あ、まさかずっと気にしてた?良いの良いの。私は、全然気にしてないから」
 それ誰かが言ってて、滅茶苦茶気にしてた気がするけど。
 母親は果たして……。
「それで、斗真は?」
「……家に着いたらわかる」
「家?」
「斗真の部屋、入ったことある?」
「……ないけど。もしかして、何か関係が?」
 家に到着した車を降り、弟の自転車を確認した。
 弟は家にいる。
 そういえば、LINEで「今日、退院?待ってるよー」と連絡が来ていたっけ。
 なら、もう確実だ。
 証拠はそもそもその場から離れていない。
 部屋に入ることを拒み続けた彼だからわかる。
 その行動もすべての言動もそれらがバレないようにするための行いであることもすべて理解した。
 玄関の扉を開けると、すぐに部屋から出てきた弟が飛び出してきた。
 離婚する前の平穏な生活で見ていた彼の姿。
 それがどうしても、今は気持ち悪い。
「荷物持つよ?」
「いらない。この荷物全部洗濯機に入れるから」
「え?ああ、これ全部服とかだった?」
「ないからね、何も」
「……」
「お金を母親に全額渡してほしいって言われてるし、斗真に預けてるからね」
「……あ、ああ」
「どうしたの?なんか、反応悪いけど」
「ううん。別に。そうだ!今日夜、どこか出かけない?折角、三人集まれたんだし」
 それでも変わらず接する態度に次の手を講じることにした。
「部屋、開けるぞ」
 靴を脱いで、弟の部屋に直行する。
「え?え、……ちょっと待って!何するんだよ‼」
 ガッと開けた弟の部屋には、思い通り本が並んでいた。漫画や小説、グッズなど色々。
 止める弟の言うことも聞かず、部屋に入りカバンの中を開き、財布を取る。
「ちょっと、兄貴!こういうことされると困るんだよ!財布なんて持ってどうしたの?いいから、すぐ戻してよ」
「空?そんな強引なことするのは……」
「今月、いくら渡した?」
「え?」
 母親に尋ねるがいまいち、理解していない様子。
「母さんは、今月、斗真にいくら渡したんだよ」
「……二千円」
「じゃあ、それ以上のお金が入っていたら?」
「そんなこと言うなら、開けてみなよ。何を疑ってるの?」
「……」
 その目は、どこかで見たことある。
 あのいじめっ子である藤川の何もない無と一緒だ。
 財布を開けてもお金はなかった。
 当然だ。
 そこまで、バカじゃない。
 だから、僕を騙すことができた。
 お金を取るなら、精神的に弱っている人を相手にする。
 簡単に釣れる。
 何でも信じる。
「お金、ないじゃない」
「そうだね。どこに隠したって言っても意味ないだろうから」
「――もういいだろう‼十分だろう?何?何がしたい?人の部屋に入らないでくれって言葉の意味わかんない?わかんないから、そうやって父さんみたいに入ってくるの?俺、何かした?何をしたっていうんだよ!」
「僕のバイト代はどこに消えた?母さんはそんなこと知らなかったみたいだけど?そもそも、よく考えてみれば、母さんがそんな考えなしに動くことは基本ないんだ」
 酒を飲んだ時は除くけど。
「だ、だったら?」
「酒を飲んで、結果、金がない、金をくれっていうならわかる。だけど、離婚して別居してから酒を飲んだ時は?酒が冷蔵庫に入っていたことは?酒がゴミ箱に入っていたことは?」
「…………やめろ」
「酒は、なかった。この部屋には、沢山のものがある。それはなぜ?」
「……うるせえ」
「否定するなら、母さんの話が嘘だと言う証拠を出せ。一体、どれだけの時間を一緒に過ごしたと思ってる?十六年間一緒に生きてきた。平穏だったころから、どんな人か、どんな想いなのか、十六年もあれば自然と分かるようになる。お前にわからないのはなんだ?斗真がわからないのはなんだ?金をとって、その金で遊んだか?その金で本を買ったのか?」
「……黙れよ‼」
「だったら、この本棚はなんだ?二千円が入ってすぐに買える棚じゃない。前の家にはなかった。この小説や漫画は?このアニメキャラのグッズは?」
「…………だったらなんだ。じゃあ!じゃあ、それが何だってんだよ!俺は行いの報酬をもらっただけだ。別に、兄貴のことなんて、どうでもよかったわけじゃない。空っぽになればよかっただけ」
「だったら」
 自分の部屋のドアを開ける。
「この部屋を見ても、空っぽだって言えるか?時に、部屋は自分を映す鏡だと言うそうだ。空っぽなのはどっちだ?何もないのはどっちだ?」
「……っ」
「泣けば許されるなら、泣けばいい。だけど、僕はお前が泣いても許すつもりはない。死ぬのって怖いんだ。入院したあの時から、ずっと冷静になればなるほど、自分があんな行いをしたこと、怖く感じるんだ。震えるし、一人の病室が怖くなる。一人ぼっちで泣くこともできない。何かを許すことはもっとできない。何もできない。そのくせ、何もかも考えてる。どうして僕が、なんで父さんは、母さんは、斗真はって色々考える。家族のことだけじゃない。学校のことだって考える。そうやって行くうちに、誰とも関わりたくなくなって、そんな自分が嫌いになって、それでも死ぬことが怖いなって思う。あの時、死ねば良かったって思う。こんなに死ぬのが怖くなって、震えてしまうくらいなら。それでも生きてる。その怖さを同じクラスの女子生徒にぶつけてしまったこともあった。同じクラスの男子生徒にはバレてしまったけど。それでも、終わりにしたい気持ちはあった。死にたいって思うこともあった。でも、二度目の飛び降りは、心の底で誰かが止めてくれないかななんて弱いことも考えた。甘えたことも考えた。きっと、彼女なら、彼ならもしかしたら止めてくれるんじゃないかって。でも、そこにあるのは全部空っぽで、何もない」
「でも……。でも、仕方ないんだよ……っ」
「そうだよ。こんなこと思っても、皆仕方ないっていう。自分にも仕方ないって言い聞かせた。仕方ない仕方ないって思ううちに、今度は苦しくなるんだ。じゃあ、自分がやってきたことは何だったのかって。バイトも勉強も、全部何のためにやって来たのかって。あの苦しい日々は何だったのかって。なにも意味をなさない哀しいものなのかって。仕方ないって思いながら生きれたらいい。でもそうじゃない。生きれない。そんなちっぽけで浅はかで軽い言葉で自分の傷は埋められなかった。傷は癒えなかった。何も、変えられなかった」
「……」
 それでも、弟に伝える言葉は考えてきた。
 何を言うことが自分のためになり、苦しまなくなるのか。
「殴られた痛みって知ってるか?赤く痛くなる。頬を殴れば、腫れる。そんな痛み、知っていても言葉の痛みは知らない。体にできる痛みは治るから。でも、言葉で受けた痛みは治すための言葉を持っていない。対義語がある。だけど、それを言われて解決するわけでもない。今まで、斗真が僕にぶつけた言葉の暴力は言葉で解決するものじゃない。じゃあ、暴力で解決するのかって言ったらそうじゃない」
 父親のように叩く人になりたくない。
「自立するしかないんだ。自分の弱点を知るしかないんだ。その弱点をどうするかは自分次第なんだ。斗真がやって来たことは許されない。泣いても許さない。謝っても許さない。それでも、許すべきなのは斗真じゃなくて、許さない自分自身。きれいごとだろう、エゴでしかないだろう。でも、自分に自分が言って聞かせるしかない。僕は、弱くない。弱さを知ったから。だから、克服することも補うこともできる。何もできないままじゃない。斗真が、やってきたことはきっと誰かを救う言葉になっているかもしれない。その一方で、誰を傷つけていることを忘れちゃいけない。言葉で人を掌握したいと思うなら、それが間違っていると、兄としてそう言ってやる」
 ただ、と付け加え、弟の頬に拳を思いっきりぶつけた。
 小さなリビングにつながっているため、置いてある家具にぶつかった。
「これはまあ、個人としての気持ちかな。本気で殴ることないし、これが正真正銘の一発」
 弟の目からは涙が零れていた。
 頬を抑えることもせず、ただ口をポカっと開けたままぽろぽろと涙を流していた。
 そして、弟の前でしゃがみ込む。
「斗真、お前は本当に空っぽだと思うか?」
「……」
 彼は頷いた。
 藤川と一緒に居た理由は、きっと同じ側の人だと思ったからだろう。
 なぜだか人は似ている人を察する能力がある。
 太田だって僕のことをゲイなのではないかと憶測を立てたくらいだ。
 早川さんだっていじめを受けた過去があったらしい。
 まあ、その時はいじめを受けていたわけじゃないけど。女の勘は当たるし、あまり言わない方が良いのだろうけど。
 中野は、ただ友達として一緒に居るには十分すぎるくらい気が合うからだろう。
「だったらなんで、そんな顔して泣いてるんだよ。人の感情がわからないなら、泣かないよ。仕方ないって誰もが感情がわからないから言ってるわけじゃない。誰もが苦しいからそれを忘れたくて言ってるんだ。自分を守るための免罪符にするための言葉じゃない」
 苦しいから仕方ないという。
 それはある違和感を覚えた。
 殴られる前から、涙目になっていた弟だ。
 これで感情がないわけない。
 空っぽになればよかった……。
 まだ、終わってない。
 父親にも会って言うことがある。
 言いたいことはちゃんと頭にある、心にある。
 だけど、それ以上に言う言葉がもっとほかにあるのかもしれない。

 ***

 父親の家へと向かった。
 弟が全てを話したのは二日後のことだった。
 何が何でも、こうせざるを得なかった状況が理解できて、それが弟に怒りを焚き付ける原因になっていたこともすべて。
 離婚は、ある意味たどり着く解決策だった。
 その解決策を取るには、必要なことがたくさんあってそのために動き回っていたのは、母親である。
 母親の気持ちを考えれば、自殺を図る息子なんて余計胸が苦しくなることだっただろう。
 今更、こんなこと言って何が得られるだろう。
 何も得られるわけじゃないのに……。
 でも、父親がなぜこんなことをしたのかだけは未だ理解できない。
 人の気持ちを百%知ることはできないのだから。
 弟の気持ちをすべて知ることはできない。
 あの言葉がすべて真実だとも限らない。
 だからこうして、会いたくない相手に会いに行くのだ。
 前の記憶を思い出して、息が苦しくなることもあるだろう。
 それでも一人で行くのだ。
 兄である僕が、対抗すべき相手である僕が、父親との決別をするために今こうして、インターホンを押した。
 車があるのだから、家にいる。
 母親と仕事をしていたのだから、今、仕事はない。
 バイトをしながら、就職先を探しているのだろう。
 今日は、バイトもなく家にいる日だと弟は言っていた。
 弟は、離婚後も何度もこの家に着ていたから、父親の生活習慣も把握できているそうだ。
「はい」
「空です」
「……」
「父さん、話が合ってきました」
「……今は」
「入りますね」
 強行突破をして、リビングへと入る。
 懐かしい気持ちになった。
 僕が、男と付き合う前、三年前までは平穏で、仲のいい家庭だった。
 父親も笑顔で母親と一緒に帰ってきて、テレビを見てゲームをして、勉強を教えてもらっていたりした。
「……父さん、その女性は誰?」
「……」
 言うでもなく、不倫だった。
 その証拠集めに母親は、動き回っていた。
 仕事はちゃんとこなしてそのあとで証拠集めの時間にいつしかなって行った。
「誰?このイケメン。孝弘の息子?」
「僕のこと知ってるんですか?」
「出てってくれないか?君は、言うことが聞けない悪い子なのかな?」
 父親は、子供に聞くように尋ねた。
「自殺図るくらいだ。悪い子に決まってる。父さん、僕の話、聞いてくれるよね。そこの女性は?誰?」
「……いい加減にしなさい。はやく、出て行きなさい。人の家に勝手に押しかけるとはどういうことかわかってるのか?」
「……それを、言えるほどの説得力はどこにもないでしょ」
「は?大人に向かってなんだその言い方は」
「うちに上がってきたことは何度もあったそうじゃないか。うちに着て初めて会ったのは、弟だ。弟が、そう証言した」
「証言って……。お前、それじゃあ、俺が悪者みたいじゃないか」
「悪者以外のなんだよ。離婚したのに、土足で踏み込んで、侵略したのはそっちだ」
「言い方に気を付けろよ。何を怒ってる?別に、怒るほどのことはしてないだろう。お前に必要な助言はした。もちろん、斗真にも。でも、それを悪者だのなんだの言われると俺の今までの努力が無駄になるだろう。それに、今までの生活を壊したのは間違いなくお前だ。それをなぜ未だに理解できていない?」
「壊したのは、僕だ。そんなのはわかってる。だったらなんで、うちに来た?お前の家はここだけだ。それなのに、こっちに着て、やたらと説教して、教えを講じたつもりかよ。その生活を壊した僕への腹いせか?僕が憎くて、新しい環境を壊したくなった?」
「……お前、言うようになったな。前まで、散々震えてたくせに。息を荒くして、蹲って、土下座して、ずぅっと許しを請うてたやつが、よくもまあこんなにも変わったな。ほら、よく見てみれば、手は震えてる。ほんとは怖いんじゃないか?自分が、壊さなければ、こんな風に敵対視することもなかったから」
「……」
 手が震えている。そんなの、話しているうちから気づいていた。
 でも、このままじゃいけない。
 僕が僕であるために、僕を許すために僕は何事にも勝ち続けなきゃならない。
 一人で生きるためとか、誰かに依存しないためとかそういうことじゃなくて、ただこんな混沌とした家庭環境を終わらせたいのだ。
「僕が僕であるために、言わなきゃならないことがある」
「面白ーい、尾崎豊じゃん」
「懐かしいな、今度曲でも聞こうか」
 不倫相手の女性は、そんなことを言った。
 何年前の話かも分からないし、きっともうたぶん四十年くらい前の話だと言うのに。
 親が知ってるのなら、ちょうどそのくらいの世代だろうけど……。
 え、待って、この不倫相手の女性って父親と同じ年?嘘だろ、全く見えないぞ⁉
「話の邪魔しないでくれません?」
「イケメン君、そんなこと言わないで、仲良くしようよー。彼、良い人だから」
 この人がいると、本題に入れない。
 だからと言って、強行突破するのも変な話。
「どこであったんですか?」
 どうせ、この人の話もしないといけないのだから探りを入れても問題ない。
「どこって、この人が経営してる店だよ」
「おい、あんまり言わなくていい。もう、無理なんだから」
「じゃあ、話しかけたとか?」
「え、ああ、違うかな。私たちってさ、生まれがA県なんだよね。そっから、S県に来てさ。A県の中学生の友達。て言っても、元カノだけどね」
「……え?」
 え?ん?
 あれ、母親から聞いている話と違うぞ?
 母親は、不倫相手だって言ってた。
 この人、そんな感じしない。
「おい」
「いいじゃん、離婚したって言うから、こっち来たのに」
「それは、こいつの前で言うな」
「こいつって、息子さんでしょ?言い方気を付けるのは君の方だね」
「……」
 父親が、劣勢だ。
「えっと……」
「ああ、店で知り合ったってよりは、店に行ったら同級生がいたって感じかな。もう、会えないと思ってたからびっくりしちゃって。それに、結婚したって言ったから、良い人に出会えたんだなぁって。私も、結婚してるから何とも言えないけどね。それで、何度か会ってたの」
「……」
 やっぱ、不倫相手じゃない。
「でもね、聞いて!三回目くらいに会った時、この人離婚することになったっていいだしてさ」
「自分に落ち度があったんだってすごい落ち込んでたからちょっと気にかけてたの!そしたら、今こんな風に息子相手に言い出して、最低だね」
「……」
 ズバッと言い過ぎでは?僕が言うつもりだったんだけど?
「でも、じゃあ、この写真は?不倫は?ここに写ってるのあなたじゃないんですか?」
「……何この写真。これ違うよ。ていうか、この格好、キャバ嬢じゃん」
「……へ?」
「ねえ?」
「……」
「それに結構若いよね。この写真何枚もあるの?」
「えっと、はい」
 カバンからその写真を全部手渡すとその女性は、呆気になっていた。
「うわ、最低。なに、もしかして不倫相手ってキャバ嬢?」
「……」
「違うに決まっているだろ。そもそも、俺はそんなところに行かない」
「じゃあ、これらは?」
「……」
「やっぱそうじゃん。……ああ、何かわかったかも。こういう場所行かなかったからいざ、行ってみたら楽しくて、そこの店の子とよく会うようになったんだ。それで、何度かこうやって夜遅くに外居るから奥さんに勘ぐられたのね」
「不倫じゃ……」
「いやいや、キャバ嬢なんて金になる話以外はしないの。ましてや、恋心なんて一切ないよ」
「……」
「……」
「じゃ、じゃあ、もしかしてそれが撮られたってこと?……でも、それじゃ不倫じゃない」
「いやいや、だって、一途に店やって来たんでしょ?二人で。なのに、ほかの若い子とつるみ始めたらそりゃ、誰だって嫌だろうね。好きだったはずの相手が今のその場にいないから」
 知らなかったと、女性はこぼした。
 なんだか、聞きたくない話だった。
 よく見てみれば、確かにこの写真たちに端々にそういう店の名前がぼんやりとピントの合わない字で書いてある。
 でもだったら、なんで不倫という言葉を使ったのだろう。
「あんたもバカね。こういう場所は、仕事以外で行くのは厳禁でしょう。それに、好きだから一緒に店をやって来たのに、自分でそれをつぶしてしまうなんてね」
 それは、今回ここに来た答えになっていた。
 答えが出てしまえば、あとは簡単な話。
 こちらの言い分を聞いてもらうこと。
「父さんは、それが原因なのに、僕らにこんなことをしたの?」
「あ?」
「父さんが、望んだことじゃなかったとしても、大切な人を大切にできない気持ちは尊重できない。僕が誰と付き合おうと関係ない。勝手だ。父さんも勝手だろ?キャバクラなんて行って人の気持ちを軽んじたじゃないか」
「あのなぁ、お前が人を好きになるとか大切にするとか俺たちと同じ歳になってからいいなよ。どうして、お前にそんなこと言われなければならないんだよ」
「大切にできないなら、僕より劣ってる。僕は、男であろうと好きだった。好きでいた。大切にしていた。気持ちも相手も。父さんは、できなかっただろう」
「欲望に負けたとか言うつもりか?お前いつの間に偉くなったよ。ちょっと外の空気吸いたいとか、ちょっと新しい世界を見てみたいとかそう言う気持ちにはならないか?学生の時は、毎日が刺激に溢れてるかもしれない。だけど、刺激なんてない。大人の世界に刺激は無い。刺激は敵だ。平穏だけが欲しい。それ以外はいらない」
「……」
「お前は、まだ子供だ。わかるわけがない。わからないから、そうやって言いたいことが言える。俺以外にもそんな人は多い。そもそも誰かを好きのまま居続けることができるか?お前だって、結局そいつと別れただろうが」
「……」
「親なら、当然のように子の恋愛は肯定しろって言うのか?あり得ないね。それを誰が許せる?自分の気持ちは抑えてそれが正しいと言え?無理に決まっているだろう。正しくないのだから」
「……恋の形に正しさなんて知らない。愛の形に歪さはいらない。そんなもの愛じゃないから。僕は、子供ながらそう思ってる。恋だって形なんてない。正しさを求めれば求めるほど、正しいが出てくるかもしれない。でも、何も言わない選択だってできる。そのやり方を正解か不正解で選ぶ必要がどこにある。僕は、そんなこと思わなかった。今まで、父さんのことを間違いだと思わなかったから、正解を求めなかったからこうやって僕は、言われるがままに言い返すことをしなかった。言い返していれば、今頃何か変わったかもしれない。だけど、それが正しいと、正しさを自分に持てなかった」
 だって、と続ける。
「この多様性を求める時代に本来の正しさは悪でしかないから。性の多様性、それは否定するのも肯定するのもどちらでもいい。だけど、悪は、悪だ。僕は、きっと多様性の時代でなくても、その男子と付き合っていた。それは紛れもない事実だ。この時代だから、付き合ったんじゃない。あいつに出会えたから付き合ったんだ」
「お前」
「父さんの思いと、僕の思いが自分の思う正しさでぶつかり合うと言うのなら、僕はそれでも戦う。中学生の頃とは違う。正しさは信念だ。おもいだ。気持ちだ。ぶつけなきゃいけないこともある。僕が、僕を守るために、父さんを負かす必要がある」
「いい加減にしろよ。なんで、そんなことを……」
「正解がなくなってしまっている環境、正解を手に入れるのは大変なんだよ。自殺を図ってようやく理解した。理解することに時間が必要すぎた。なんで、こんなに考えて、考え続けて、少し時間を置くとなぜだかスッと答えが出てくるのか。僕にはわからない。だけど、もしかしたらそれはとっくに理解できていて、それを肯定するための意思や判断材料が足りないのかもしれない。僕は、そう思うようになった」
「そんなこと言いに、ここにきたのか?嗤ってんのか?馬鹿にしたいのか?離婚した夫だよねってそう言いたいのか?」
「馬鹿にするつもりなんてない。笑うつもりもない。だけど、惨めだとは思ってる。ちょっとキャバクラ行ったくらいで色々言われた、そしてそれが離婚の原因になった。惨めだなって思う。だけどもっと、惨めだと思うのは、僕ら子供との距離がどんどん離れていってしまわないように、今まで弟にしてこなかった脅迫にも似た行為をしたことだ。今まで、僕にしかしてこなかった。それを弟にもして、なんて言った?金を払えって言ったんだろ?そんなこと、弟にまで言うようになってしまったことがひどく惨めだと僕は思う」
「なんだ、何なんだよ。お前、そのまま死んじまえよ。何だお前は……。人の心、見透かしたような顔してさ。それが、間違いだって何で思わないんだよ。なんで、堂々とそんなこと言えるんだよ。実の父親に惨めって言うのか?ふざけんなよ」
 父親の瞳は、鋭く睨み付けるようで怒りに満ちていた。
 それでも僕は続けた。
「ふざけてるよ。昔の自分が見たら、ふざけてるって思う。でも、それは仕方ない。僕は、こうやって何度も仕方ないって乗り越えてきた。男と付き合ったから怒るようになった、仕方ない。両親が離婚してしまった、仕方ない。そうやって、思うようにしてきた」
「……」
「でも、何も仕方ないって思えない。仕方ないことなんてない。自分では思いたくても思えない。そんな思考を許そうと僕は思えない。目を閉じて忘れようとしてもその瞼の裏で焼き付くように残ってる。消えない。逃げ出したくても、逃げ出せない」
 父親に言うのはこのタイミングしかない。
 わかっているからこそ、僕は、ここで全てを言うしかないのだ。
「弟に、お金を要求した。そのお金は、僕からもらったものだろう?そのお金で物を買ったんじゃなかった。まあ、少し買ったみたいだけど、毎月、固定の金額を払わせるようにいったんだって?その金額は中学生で払うことができないから、弱りきっていた僕にバイトさせるように仕向けた。状況が状況だった上に簡単に信じたよ。店のことは、何も知らなかったし、経営がどうとか何にも」
 別居した家に父親が来た時、弟は、本気で止めたそうだ。
 最初は、素直に話せば聞くとちゃんと説明していた。
 だけど、段々と父親の目は危機を感じさせる雰囲気を持っていて、どうするべきかわからなくなっていった。
 一瞬の隙が、父親にとっては好都合だった。
 その瞬間を見定め、弟に脅しをかけた。
『今、弁護士を雇ってる。その弁護士の話曰く、慰謝料を請求できるみたいなんだ。だけどね、斗真にそんなお金をすぐに出させるわけにはいかない。百万単位にはなるだろうし、こちらとしてもしたくない。今の発言は、ちゃんと録音させてもらっているし、言ってしまえば、すぐに弁護士にお願いすることも可能だ。今、斗真が話したことはなかったことにしてもらいたい。そしたら、現在取ろうとしている慰謝料から少しだけでも金額を減らしたいと考えてる。もちろん、離婚した身だし、とやかく言うつもりはないけど、誰にも言わなければ、すぐに金額を下げる方向へと持っていくよ』
 そして、その結果毎月五万円という金額を払うようになった。
 僕のお金で、払ったみたいだけど。
「弟から、こんな話を聞いて、さすがに気が気じゃなかった。僕以外にも弟にもそんなこと言っていたとか、本当に惨めで稚拙で哀れだなって、本気で思ったよ!自殺未遂者から言われる言葉はどうだ?いつだか言ったよな。人に迷惑かけるなって、お前が一番迷惑かけてんだよ!大人なのに、みっともない。子供脅して、金取った。それが、関係を続けるために本当に必要だったと言うのなら、軽蔑する」
「……黙れ」
「本当に弁護士を雇っているのかすぐに検索できるぞ?この家を調べるだけでも十分だろ?弁護士いるなら名刺くらいもらってる。そこにいる女性の前で言われるザマはどうだよ。僕は、父さんに散々暴言を吐かれてきた。その度に自尊心は傷つくし、何をしても自分は間違ってるって思うようになった。元々、あなたは正しいことしか言わないから。余計に、苦しくなった。多様性を謳う時代で父親が間違っていると言うのなら、本当は間違っているんじゃないかって思えた」
 でも、と続けた。
「間違ってなんかない。僕は、彼と付き合って良かったと思ってる。正しさは自分で見つける。そして、その正しさでぶつかることがあるのなら、弁護士を雇おうと、裁判になろうと本気ぶつかっていく。弱さを知ってこそ、僕らしくいられる」
「……そんなことして、そんなこと言って、俺が許すと思うのか⁉︎」
「安心しろよ。あんたの言う通り、元々、空っぽで何もないんだ。プライドだって、命を取られたって今更何も思わない。じゃなきゃ、こんなことできるわけがない」
 空っぽだから、深山空。
 父親に言われたことで気づけたこと。
 だけど、こうも思う。
 あの夜に見た、ブルーな空。
 夜が明けて欲しいと思ったことはない。
 ブルーな夜に光る花火は、儚くて、眩しい。ここに存在しているんだと訴えるようにも見えた。
 それ以上に、死を望んだ僕への祝福だった。
 花火と僕は似ていた。
 一瞬だけ光って一瞬で消える。
 僕に尊さはないけど、命の儚さはなんとなく理解できた。
 でも、それ以上にその夜が明ければ、青く澄み切った空が待っている。
 逃げることができない夜もある。
 逃げることでいい結果を得られる夜明けもある。
 逃げたところで追いつかれてしまう夜もある。
 そんな夜は、戦わなきゃならないし、勝たなきゃならない。
 負けてしまえば、夜は続くから。
 泣き叫んだって、助けを求めたって、助けを求められなくたって虚しく響くだけ。
 夜から逃げたくて死を選ぶことだってある。
 そんな夜がいつだってどこにだって存在する。
 僕にはそんな夜が何度も続いた。
 だけど、一人でいるその夜は怖くてつらくて苦しいものでもきっといつかは明けていく。
 そのいつかのために戦うのだ。
 待っているだけで夜が明けるならきっと戦う必要はないから。
 何もしないまま生きてきたわけじゃない。
 何かをして何かを得ていく中で負けてしまったんだ。
 僕の場合、それが男と付き合う事だった。
 弟の場合、脅しに怯えたこと。
 関係がこじれることはきっとある。
 そんな夜もある。
 光の射す方へと向かうために戦う。
 戦って、その先にある朝日を見る。
 そしたらきっと、僕を明るく照らすだろう。
 だから言ってやるんだ。

「僕は、もう負けない。いつだって堂々と戦ってやる。逃げても追いつかれるなら、その場で戦ってやる。逃げ切れることなんて限られてるかもしれない。だけど、逃げ切れるなら逃げ切る。これは、喜ぶべきだ。父さんからは逃げられない。そう思った僕が、戦うと意思表明したのだから。宣戦布告と捉えてくれても構わない。正真正銘真っ向勝負だ」

 その先にある朝焼け色の空を見るために。

 ほら、見えてきただろう?
 朝焼け色の空が目の前に。

 完