「話はまとまりました? じゃあお部屋に案内しますね。あ、いちおう自己紹介しておきますと、私はこの旅館『佐々屋』の女将代理で、佐々木桜乃と申します。何かありましたら、私の方に遠慮なく申しつけてくださいね」
制服姿でお辞儀をする少女と、女将という言葉がどこかミスマッチに思えて思わず笑みを浮かべていた。
通学鞄を手にしているところをみると夏期講習か何かの帰りなのだろう。たまたま皆が到着したところに居合わせたという訳だ。
「女将代理? では女将さんはどうしているのかね」
響は興味深そうな目をして少女へと身を乗り出す。
「あ、母はいまちょっと具合を悪くして静養中なんです。といっても大した事はないんですけど、大事をとって私が出来る事は代わろうと思いまして」
「ふむっ、なるほど。親孝行なのだね、泣かせるじゃあないか。いや孝行をしたい時には親はなし、というからな。偉いものだよ、うむ。これは立派な女将になれるぞ」
少女の言葉に響が大きくうなずいて見せる。どうやら本気ですっかり感心しきっているようで、それだけでこの旅館のぼろさへの気持ちもどこかにいってしまったようだ。
響のそういうところはやや流されやすいかとも思うが、僕が響を嫌いになれない理由の一つでもある。
「そんなこと言われると照れますよ。あ、そうそう私の事は女将さんでなくて、気軽に桜乃とお呼び下さい。代理っていっても、ほんとはただのお手伝いですから」
さらと流れるような笑みを浮かべて、そのまま旅館の中へと入っていく。玄関をくぐると大きな声で「井坂様、ご一行到着でーす」と叫んでいた。
ばたばたと奥の方から旅館のはっぴを着た男の人が現れて、ようこそいらっしゃいましたと告げて僕達を部屋へと案内していく。桜乃はその様子を見送っていたのだろうか。僕はどこか視線を感じて振り返る。
桜乃と軽く視線が交わる。彼女は少し首をかしげて微笑む。同時に強く胸が跳ね上がっていた。どきどきと心臓が鼓動する。
この動悸は未来に見た少女が目の前にいるからなのか。それとも見た事もないような美少女が微笑みかけてくれているからなのか。僕はどこか頭の中がスパゲティのように絡み合っていて、ひたすら理由を探ろうと頭を働かせようとしていた。
しかし桜乃はそんな僕の内心など知る事もなく、まるでその名のように桜が舞い散るような微笑を浮かべていて、僕の心を余計にかき乱した。
理由はともかく、彼女の事を意識してしまっているのは確かなのだろう。僕は少しずつ息を吐き出して、何とか気持ちを落ち着けようと少し視線を逸らすかのようにうつむいていた。
彼女は僕が意識しているだなんて思ってもいないのだろうな。声には出さずにつぶやく。ましてや僕が彼女に会うためにここに来ただなんて、想像すらしていないだろう。
もっともこれだけ可愛らしいのだから、男性から意識される事自体は珍しくはないかもしれない。でもそれだけに少し挙動不審気味な僕の様子を気にしてはいないようではある。でもまさか僕が彼女と出会うために。そして別れを避けるために。未来を変えるためにここに来ただなんて、思ってもいないだろう。
彼女はどうして僕に「一緒に死のう」と呼びかけたのだろう。死にたいほどの何かを抱えているのだろうか。もしかしたら少し病に伏せているという母親が、本当は軽い病ではないのかもしれない。あるいは大きな借金を抱えているのかもしれない。
でもたとえ彼女に死ぬ理由があったとしても、それは僕と一緒に死ぬ理由にはならない。
なぜ僕を誘うのだろう。ここから僕と彼女の間に何かが生まれるのだろうか。それとも質の悪い冗談だったのだろうか。考えても考えても答えは出ない。出るはずもない。
僕はまだ彼女の事を何も知らない。桜乃という名前と、おそらくは高校生だろうという事以上に何もわかってはいないのだから、わかるはずもなかった。
ほとんど何も知らない少女の事を思って、心臓の高鳴りを感じているだなんて、まるで恋をしているみたいだと思う。もしかしたらこれが一目惚れというものなのだろうか。いやそうではないはずだ。だけど彼女に何か特別なものを感じていた。彼女は何かを僕を惹きつけていく。いややっぱりそれは恋心なのだろうか。
どこか苦笑を浮かべてため息をもらす。
僕はいつの間にか立ち去っていた桜乃の後ろ姿を、いつまでもじっと見つめていた。彼女の姿が見えなくなった後も、ずっと。ただ立ち尽くして呆然と見つめていた。
同時にすぐ目の前に麗奈の顔が現れる。
「うわ!?」
「浩一。さっきからずっと呼んでるのに、ぼーっとして。もしかしてさっきの桜乃さんに見とれていたのかな。もうやらしいんだから」
麗奈はとがめるような口調で告げると、眉を寄せて僕をにらみつけていた。
人の気も知らないで、麗奈は勝手な事を言う。僕は未来を変えるために彼女と出会いに来たんだ。
「そうだよ」
思わずそう答えると部屋の方へと向かう。
麗奈はそんな答えは想像もしていなかったのか、きょとんとした顔を向けたあと、すぐに僕を追いかけてきていた。
僕が彼女を気にしている理由は、麗奈が思うような理由では無い。無いはずだ。でも彼女を気にしていた事には変わりはない。だから素直にそう認めていた。
「え? だ、駄目駄目。そんなの駄目っ、絶対だめだかんね」
しかし麗奈は目を大きく開いて、強く否定し始めていた。突然の剣幕に少しあっけにとられてしまう。
いつものブラコンが出たのかもしれない。麗奈はすぐに文句つけるくせして、僕を束縛して独占しようとする癖がある。そんなところが妹として可愛く思える時もあるけれど、今は少しいらつきを覚えさせていた。
「何がダメなんだよ」
「何でも絶対だめ。だって、それじゃけいか……っと、そうじゃなくて。とにかくだめなの。そんなやらしい浩一は嫌いなんだから、浩一はいつもしゃんとしてて」
麗奈は何かをいいかけてやめると、それからぷいっと顔を背けていた。
何が言いたいんだよと思うものの、こういう時の麗奈は強情だから問い詰めても答えは戻ってこないだろう。
諦めて部屋の中に入っていく。もちろん部屋は男女で分かれているから、部屋の中に入ってしまえば麗奈からは解放されるだろう。
けっして麗奈の事は嫌いじゃない。大切な妹だと思う。でもいつでもべったりとくっついてくる麗奈に、多少うんざりとする時もあるのは確かだ。今はまさにそんな気分だった。
それは桜乃と出会って、これから未来は確かにやってこようとしている。その事に恐れを覚えていたからかもしれない。
僕は未来を変えられるだろうか。未来は変わるのだろうか。
少なくとも僕が麗奈にナイフを刺すだなんて事はないはずだ。例え神様がどれだけ意地悪だとしても、僕自身の行動を縛り付ける事は出来ない。僕がナイフに触れなければいい。そうすれば麗奈を刺すなんてことはない。
僕の行動は僕が決める事が出来る。だからこんな未来は変えられるはずだ。
本当に? 僕の中にいる誰かが問いかけてくる。
わかっていた。僕は不安を覚えている。今までどんなに未来を変えようとしても、避ける事は出来なかった。
だからこそ今は逆にその未来に向かって進んでいこうとした。でもそれこそが未来を呼び寄せているのだとしたら。
僕は麗奈を刺してしまうのか。麗奈を傷つけてしまうのだろうか。
それだけはあってはならない。麗奈を傷つけるなんてごめんだ。
僕の頭の中は少しずつ迫ってくる未来へのおびえと、そして麗奈を失うかもしれない恐怖が、どこか重なり合うようにして埋められていく。
それでも僕はその気持ちを振り払う。
絶対に未来を変える。変えるんだ。
僕は決意を再び胸にする。
ただ自分の中に、未来への恐ればかりがあるわけではないこともどこかで感じていた。
白昼夢の中で見た少女。桜乃はでも現実では、夢の中よりもずっと細くて、どこか華奢な体つきは彼女を守らなければという気持ちにもさせていた。
やっぱり麗奈の言う通り可愛らしい子に出会って、浮ついているのかもしれない。
でもそんな気持ちがもしかしたら未来を変える力になってくれるかもしれない。何が幸いするかなんて僕にはわからない。
だからいま覚えかけている気持ちが、決して悪い方向には向かわないことを信じたいと思う。きっと僕の信じたい未来を連れてきてくれる。
これから起きる事態を思えば、楽しい気分には到底なれはしない。それでも桜乃と出会って感じた何かが、この先の未来を良い方向に変えてくれる。そんな気すらしていた。
未来を変えたいんだ。そう思う僕の心は、口の中を渇かして儚い望みを渇望させる。
それがどれだけ微かな希望だとしても、僕は信じようと思う。きっと未来は変えられる。深く心の中で祈る。
少しだけ目を閉じて、僕は大きく息を吐き出していた。
制服姿でお辞儀をする少女と、女将という言葉がどこかミスマッチに思えて思わず笑みを浮かべていた。
通学鞄を手にしているところをみると夏期講習か何かの帰りなのだろう。たまたま皆が到着したところに居合わせたという訳だ。
「女将代理? では女将さんはどうしているのかね」
響は興味深そうな目をして少女へと身を乗り出す。
「あ、母はいまちょっと具合を悪くして静養中なんです。といっても大した事はないんですけど、大事をとって私が出来る事は代わろうと思いまして」
「ふむっ、なるほど。親孝行なのだね、泣かせるじゃあないか。いや孝行をしたい時には親はなし、というからな。偉いものだよ、うむ。これは立派な女将になれるぞ」
少女の言葉に響が大きくうなずいて見せる。どうやら本気ですっかり感心しきっているようで、それだけでこの旅館のぼろさへの気持ちもどこかにいってしまったようだ。
響のそういうところはやや流されやすいかとも思うが、僕が響を嫌いになれない理由の一つでもある。
「そんなこと言われると照れますよ。あ、そうそう私の事は女将さんでなくて、気軽に桜乃とお呼び下さい。代理っていっても、ほんとはただのお手伝いですから」
さらと流れるような笑みを浮かべて、そのまま旅館の中へと入っていく。玄関をくぐると大きな声で「井坂様、ご一行到着でーす」と叫んでいた。
ばたばたと奥の方から旅館のはっぴを着た男の人が現れて、ようこそいらっしゃいましたと告げて僕達を部屋へと案内していく。桜乃はその様子を見送っていたのだろうか。僕はどこか視線を感じて振り返る。
桜乃と軽く視線が交わる。彼女は少し首をかしげて微笑む。同時に強く胸が跳ね上がっていた。どきどきと心臓が鼓動する。
この動悸は未来に見た少女が目の前にいるからなのか。それとも見た事もないような美少女が微笑みかけてくれているからなのか。僕はどこか頭の中がスパゲティのように絡み合っていて、ひたすら理由を探ろうと頭を働かせようとしていた。
しかし桜乃はそんな僕の内心など知る事もなく、まるでその名のように桜が舞い散るような微笑を浮かべていて、僕の心を余計にかき乱した。
理由はともかく、彼女の事を意識してしまっているのは確かなのだろう。僕は少しずつ息を吐き出して、何とか気持ちを落ち着けようと少し視線を逸らすかのようにうつむいていた。
彼女は僕が意識しているだなんて思ってもいないのだろうな。声には出さずにつぶやく。ましてや僕が彼女に会うためにここに来ただなんて、想像すらしていないだろう。
もっともこれだけ可愛らしいのだから、男性から意識される事自体は珍しくはないかもしれない。でもそれだけに少し挙動不審気味な僕の様子を気にしてはいないようではある。でもまさか僕が彼女と出会うために。そして別れを避けるために。未来を変えるためにここに来ただなんて、思ってもいないだろう。
彼女はどうして僕に「一緒に死のう」と呼びかけたのだろう。死にたいほどの何かを抱えているのだろうか。もしかしたら少し病に伏せているという母親が、本当は軽い病ではないのかもしれない。あるいは大きな借金を抱えているのかもしれない。
でもたとえ彼女に死ぬ理由があったとしても、それは僕と一緒に死ぬ理由にはならない。
なぜ僕を誘うのだろう。ここから僕と彼女の間に何かが生まれるのだろうか。それとも質の悪い冗談だったのだろうか。考えても考えても答えは出ない。出るはずもない。
僕はまだ彼女の事を何も知らない。桜乃という名前と、おそらくは高校生だろうという事以上に何もわかってはいないのだから、わかるはずもなかった。
ほとんど何も知らない少女の事を思って、心臓の高鳴りを感じているだなんて、まるで恋をしているみたいだと思う。もしかしたらこれが一目惚れというものなのだろうか。いやそうではないはずだ。だけど彼女に何か特別なものを感じていた。彼女は何かを僕を惹きつけていく。いややっぱりそれは恋心なのだろうか。
どこか苦笑を浮かべてため息をもらす。
僕はいつの間にか立ち去っていた桜乃の後ろ姿を、いつまでもじっと見つめていた。彼女の姿が見えなくなった後も、ずっと。ただ立ち尽くして呆然と見つめていた。
同時にすぐ目の前に麗奈の顔が現れる。
「うわ!?」
「浩一。さっきからずっと呼んでるのに、ぼーっとして。もしかしてさっきの桜乃さんに見とれていたのかな。もうやらしいんだから」
麗奈はとがめるような口調で告げると、眉を寄せて僕をにらみつけていた。
人の気も知らないで、麗奈は勝手な事を言う。僕は未来を変えるために彼女と出会いに来たんだ。
「そうだよ」
思わずそう答えると部屋の方へと向かう。
麗奈はそんな答えは想像もしていなかったのか、きょとんとした顔を向けたあと、すぐに僕を追いかけてきていた。
僕が彼女を気にしている理由は、麗奈が思うような理由では無い。無いはずだ。でも彼女を気にしていた事には変わりはない。だから素直にそう認めていた。
「え? だ、駄目駄目。そんなの駄目っ、絶対だめだかんね」
しかし麗奈は目を大きく開いて、強く否定し始めていた。突然の剣幕に少しあっけにとられてしまう。
いつものブラコンが出たのかもしれない。麗奈はすぐに文句つけるくせして、僕を束縛して独占しようとする癖がある。そんなところが妹として可愛く思える時もあるけれど、今は少しいらつきを覚えさせていた。
「何がダメなんだよ」
「何でも絶対だめ。だって、それじゃけいか……っと、そうじゃなくて。とにかくだめなの。そんなやらしい浩一は嫌いなんだから、浩一はいつもしゃんとしてて」
麗奈は何かをいいかけてやめると、それからぷいっと顔を背けていた。
何が言いたいんだよと思うものの、こういう時の麗奈は強情だから問い詰めても答えは戻ってこないだろう。
諦めて部屋の中に入っていく。もちろん部屋は男女で分かれているから、部屋の中に入ってしまえば麗奈からは解放されるだろう。
けっして麗奈の事は嫌いじゃない。大切な妹だと思う。でもいつでもべったりとくっついてくる麗奈に、多少うんざりとする時もあるのは確かだ。今はまさにそんな気分だった。
それは桜乃と出会って、これから未来は確かにやってこようとしている。その事に恐れを覚えていたからかもしれない。
僕は未来を変えられるだろうか。未来は変わるのだろうか。
少なくとも僕が麗奈にナイフを刺すだなんて事はないはずだ。例え神様がどれだけ意地悪だとしても、僕自身の行動を縛り付ける事は出来ない。僕がナイフに触れなければいい。そうすれば麗奈を刺すなんてことはない。
僕の行動は僕が決める事が出来る。だからこんな未来は変えられるはずだ。
本当に? 僕の中にいる誰かが問いかけてくる。
わかっていた。僕は不安を覚えている。今までどんなに未来を変えようとしても、避ける事は出来なかった。
だからこそ今は逆にその未来に向かって進んでいこうとした。でもそれこそが未来を呼び寄せているのだとしたら。
僕は麗奈を刺してしまうのか。麗奈を傷つけてしまうのだろうか。
それだけはあってはならない。麗奈を傷つけるなんてごめんだ。
僕の頭の中は少しずつ迫ってくる未来へのおびえと、そして麗奈を失うかもしれない恐怖が、どこか重なり合うようにして埋められていく。
それでも僕はその気持ちを振り払う。
絶対に未来を変える。変えるんだ。
僕は決意を再び胸にする。
ただ自分の中に、未来への恐ればかりがあるわけではないこともどこかで感じていた。
白昼夢の中で見た少女。桜乃はでも現実では、夢の中よりもずっと細くて、どこか華奢な体つきは彼女を守らなければという気持ちにもさせていた。
やっぱり麗奈の言う通り可愛らしい子に出会って、浮ついているのかもしれない。
でもそんな気持ちがもしかしたら未来を変える力になってくれるかもしれない。何が幸いするかなんて僕にはわからない。
だからいま覚えかけている気持ちが、決して悪い方向には向かわないことを信じたいと思う。きっと僕の信じたい未来を連れてきてくれる。
これから起きる事態を思えば、楽しい気分には到底なれはしない。それでも桜乃と出会って感じた何かが、この先の未来を良い方向に変えてくれる。そんな気すらしていた。
未来を変えたいんだ。そう思う僕の心は、口の中を渇かして儚い望みを渇望させる。
それがどれだけ微かな希望だとしても、僕は信じようと思う。きっと未来は変えられる。深く心の中で祈る。
少しだけ目を閉じて、僕は大きく息を吐き出していた。