桜乃の前に立って、矢上からの視線を遮る。
「浩一さん」
背中から桜乃の呼び声が聞こえる。しかし今は振り返る訳にはいかない。
「浩一さん」
それでも桜乃はもう一度僕の名前を呼んでいた。そして静かな声で囁くように告げる。
「私と一緒に死んでくれますか」
あの時と同じ台詞。
思ってもいない言葉に、思わず振り返りそうになる。
こんな時に何を。いや、こんな時だけからこそ告げているのか。桜乃は自分の力をうとましく思っていた。だからいっそ僕と二人でここで打ち果ててしまおうというのだろうか。いや、違うはずだ。桜乃は僕に未来を見せて欲しいと願った。それはまだ未来を信じているからだ。自分の力を打ち消してくれることを、僕が見せてくれると信じているからだ。未来には絶望以外もあるのだと、僕が証明してくれる事を願っているはずだ。
もういちど桜乃は死を願おうとしているのだろうか。それとも僕が未来を諦めそうになっていることを受け入れてしまおうというのだろうか。
だめだ。僕はその言葉を受け入れる訳にはいかない。桜乃に未来を見て欲しいんだ。ただ死んで欲しくないんだ。
わかっている。これは僕のエゴだ。僕は未来を変えられないと悟りつつも、未来を見せられないと約束を破りそうになっているのに。僕はそれでも桜乃に生きて欲しかった。
僕は。桜乃が好きなんだ。
同じような力をもっていて、同じように苦しんできた。だからなのかもしれないけど。それでも僕は桜乃に生きていて欲しかった。
こんな気持ちも全て桜乃には伝わってしまっているだろう。
でも本当はこんなことを伝えたくはなかった。それは桜乃にこれからも続く苦しみを味わせようとしていることだ。
でも好きな人に生きていて欲しい。そう思う気持ちはごまかせなかった。
桜乃はいつの間にか僕の隣に立っていた。そしてささやくような笑顔をむけて、そして静かな声で告げる。
「もしも二人ががりでも、未来を変える事が出来なかった時には」
桜乃はまだ信じてくれているのだろうか。なかば諦めそうになっている僕を信じてくれているのだろうか。二人ならきっと変えられると、僕を励まそうとしてくれているのだろうか。
なら僕自身も諦める訳にはいかなかった。
未来を変えよう。未来をまるいかたちにしてみたいんだ。
もしも未来が変えられないのなら、僕はきっと死ぬ事になる。だけど桜乃はその時は自分も一緒に死ぬと告げているのだろう。
だから死なないで、と。
違うかもしれない。僕の勝手な思い込みかもしれない。でも僕は桜乃を救いたいと心から思う。
桜乃はこれ以上には何も言わず、ただ僕に笑みを向けていた。僕の心は全て伝わっているはずだけれど、否定も肯定もする事はなく、ただ口元に静かな微笑みを浮かべている。
本当に桜乃がそう思っているかは僕にはわからない。だけどそれでいいんだ。僕がそう感じたのだから、それが全てなんだ。桜乃はきっとそう願っているはずだ。
桜乃のうかべるどこかいたずらで不可思議で、だけど優しい微笑み。僕はこの笑顔がいつの間にか何よりも大切に思っていた。だから僕は桜乃を守る。
「もう、やめろっ」
矢上は突然叫びだしていた。
何か抑えられないかのように、僕へと向かって飛び込んでくる。
僕はなんとか矢上の動きを読んで、すんでのところで避ける。それから手を伸ばすが、矢上を捕らえることは出来なかった。
僕の身体の動きは思っているよりも鈍い。そうとう疲れているなとも思う。考えてみれば昨日から駆け回り続けていたし、まともに睡眠もとっていない。病院で疲れ果てて、いすの上で眠ってしまっていただけだ。
矢上はそのまま桜乃の方へと向かっていく。
桜乃はそこから動かない。避けようとする意思すら感じなかった。゜
「桜乃さんっ」
思わず彼女の名前を呼ぶ。
矢上のナイフが桜乃へと伸びるが、しかし桜乃はすんでのところで身を翻して、矢上の突進を躱していた。そしてその手をつかんで押さえ込んだ。
桜乃は心を読む事が出来る。だから矢上がどう動こうとしているかはわかっていたのだろう。
しかしその瞬間、桜乃はまるで嗚咽のような小さな声を漏らした。
「あ、ぁ」
桜乃の顔が激しく歪んでいく。
そう、か。
桜乃は矢上を取り押さようと手を掴んだ。しかしそれは桜乃にとっては同時に矢上の記憶を読み取る行為でもある。
たぶん僕と手をつないだ時のように、少し触れた程度では何という事はない。桜乃もそう思っていたのだろう。
だけど矢上の中にある心は、矢上一人のものではなかった。矢上をとらえている残留思念までもがきっと桜乃の中に流れ込んだんだ。
桜乃は矢上の手を離して、そのままその場にうずくまっていた。思っていたよりも衝撃が強かったのだろう。
怒号のような声が辺りを包んだ。
「わぁぁぁっ」
その声をあげたのか、桜乃なのか、矢上なのか。それとも僕自身だったのかすらもわからなくなっていた。
それはスローモーションのようにも思えた。
矢上の手が再び桜乃へとさしかかっていた。僕は慌ててその手を止めようと身体を向ける。
桜乃は苦痛に耐えるかのように両手で頭を抱え込んでいる。
させない。絶対に桜乃だけは傷つけさせない。
僕は叫んだ。いや叫んだつもりだったけれど、声にはならなかった。
ただ身体だけが動いて、桜乃をかばうようにして僕は覆い被さる。
強い衝撃を感じた。感じたと思う。
でもよくわからなかった。
腹部が熱く迫ってくる。
その瞬間、ああ僕は刺されたんだ、と理解していた。
痛みは感じなかった。いやわからなかった。ただ僕の耳に何かが響いた。
「浩一さんっ!」
桜乃の声だっただろうか。よくわからない。桜乃らしくない強く大きな声。
矢上が自分の手を見つめていた。
「浩一? なぜ、浩一が。……私は、なに、を、浩一。浩一っ」
矢上の声がしたような気がする。正気を取り戻したのだろうか。ナイフを放して、僕へと向かって何かを叫んでいる。
僕を刺した事が矢上にとって、強い衝撃を与えて残留思念をふりほどいたのかもしれない。それなら一つ何かを救えたのかもしれない。
二人はまだ何かを叫んでいた。
だけどその後の声はもうほとんど聞こえなかった。
未来は、変えられなかった。
人がどんなに抗おうとも、未来を変えるなんて大それた事は出来ないのだろうか。決められたレールの上を走るしかないのだろうか。
いや、違う。違うはずだ。
未来は確かに訪れてしまった。だけど全てが同じだった訳ではない。
桜乃は僕に一緒に死のうと誘いかけた時には白いワンピースを着ていなかったし、この日も本当は雨のはずだった。未来は変わったはずだ。
だから矢上の様子からすれば、きっとこれ以上は何もしないはず。だから桜乃は助かるはずだ。桜乃が助かるならそれでいい。僕だけが別れを告げるのであれば、それでもいいんだ。
桜乃は無事で、矢上も元に戻った。それなら僕が望んだまるいかたちかもしれない。
僕は笑う。笑ってみせた。
まだ僕の想いが聞こえているのなら、桜乃には生きていてもらいたい。だから僕は君と一緒には死ねないんだ。
この気持ちは伝わっているだろうか。
ああ、なんだか意識が遠い場所に向かっている気がする。
これが死というものだろうか。
闇が世界を満たしていた。僕の中にそれが入ってくる。
青い空も白い雲も。夏の風も潮の匂いも。少しずつ感じられなくなっていく。
矢上の顔が見えた。桜乃の姿も見える。
でも泣いているのか笑っているのか、それももうわからなかった。
最後に願うなら、もういちど桜乃の笑顔をみていたかった。
いや、違う。
たった一度だけでいい。本当に、心から、心の底から笑っている桜乃を。
見たかった。
僕の心は深い闇の中に消えていく。
「浩一さん」
背中から桜乃の呼び声が聞こえる。しかし今は振り返る訳にはいかない。
「浩一さん」
それでも桜乃はもう一度僕の名前を呼んでいた。そして静かな声で囁くように告げる。
「私と一緒に死んでくれますか」
あの時と同じ台詞。
思ってもいない言葉に、思わず振り返りそうになる。
こんな時に何を。いや、こんな時だけからこそ告げているのか。桜乃は自分の力をうとましく思っていた。だからいっそ僕と二人でここで打ち果ててしまおうというのだろうか。いや、違うはずだ。桜乃は僕に未来を見せて欲しいと願った。それはまだ未来を信じているからだ。自分の力を打ち消してくれることを、僕が見せてくれると信じているからだ。未来には絶望以外もあるのだと、僕が証明してくれる事を願っているはずだ。
もういちど桜乃は死を願おうとしているのだろうか。それとも僕が未来を諦めそうになっていることを受け入れてしまおうというのだろうか。
だめだ。僕はその言葉を受け入れる訳にはいかない。桜乃に未来を見て欲しいんだ。ただ死んで欲しくないんだ。
わかっている。これは僕のエゴだ。僕は未来を変えられないと悟りつつも、未来を見せられないと約束を破りそうになっているのに。僕はそれでも桜乃に生きて欲しかった。
僕は。桜乃が好きなんだ。
同じような力をもっていて、同じように苦しんできた。だからなのかもしれないけど。それでも僕は桜乃に生きていて欲しかった。
こんな気持ちも全て桜乃には伝わってしまっているだろう。
でも本当はこんなことを伝えたくはなかった。それは桜乃にこれからも続く苦しみを味わせようとしていることだ。
でも好きな人に生きていて欲しい。そう思う気持ちはごまかせなかった。
桜乃はいつの間にか僕の隣に立っていた。そしてささやくような笑顔をむけて、そして静かな声で告げる。
「もしも二人ががりでも、未来を変える事が出来なかった時には」
桜乃はまだ信じてくれているのだろうか。なかば諦めそうになっている僕を信じてくれているのだろうか。二人ならきっと変えられると、僕を励まそうとしてくれているのだろうか。
なら僕自身も諦める訳にはいかなかった。
未来を変えよう。未来をまるいかたちにしてみたいんだ。
もしも未来が変えられないのなら、僕はきっと死ぬ事になる。だけど桜乃はその時は自分も一緒に死ぬと告げているのだろう。
だから死なないで、と。
違うかもしれない。僕の勝手な思い込みかもしれない。でも僕は桜乃を救いたいと心から思う。
桜乃はこれ以上には何も言わず、ただ僕に笑みを向けていた。僕の心は全て伝わっているはずだけれど、否定も肯定もする事はなく、ただ口元に静かな微笑みを浮かべている。
本当に桜乃がそう思っているかは僕にはわからない。だけどそれでいいんだ。僕がそう感じたのだから、それが全てなんだ。桜乃はきっとそう願っているはずだ。
桜乃のうかべるどこかいたずらで不可思議で、だけど優しい微笑み。僕はこの笑顔がいつの間にか何よりも大切に思っていた。だから僕は桜乃を守る。
「もう、やめろっ」
矢上は突然叫びだしていた。
何か抑えられないかのように、僕へと向かって飛び込んでくる。
僕はなんとか矢上の動きを読んで、すんでのところで避ける。それから手を伸ばすが、矢上を捕らえることは出来なかった。
僕の身体の動きは思っているよりも鈍い。そうとう疲れているなとも思う。考えてみれば昨日から駆け回り続けていたし、まともに睡眠もとっていない。病院で疲れ果てて、いすの上で眠ってしまっていただけだ。
矢上はそのまま桜乃の方へと向かっていく。
桜乃はそこから動かない。避けようとする意思すら感じなかった。゜
「桜乃さんっ」
思わず彼女の名前を呼ぶ。
矢上のナイフが桜乃へと伸びるが、しかし桜乃はすんでのところで身を翻して、矢上の突進を躱していた。そしてその手をつかんで押さえ込んだ。
桜乃は心を読む事が出来る。だから矢上がどう動こうとしているかはわかっていたのだろう。
しかしその瞬間、桜乃はまるで嗚咽のような小さな声を漏らした。
「あ、ぁ」
桜乃の顔が激しく歪んでいく。
そう、か。
桜乃は矢上を取り押さようと手を掴んだ。しかしそれは桜乃にとっては同時に矢上の記憶を読み取る行為でもある。
たぶん僕と手をつないだ時のように、少し触れた程度では何という事はない。桜乃もそう思っていたのだろう。
だけど矢上の中にある心は、矢上一人のものではなかった。矢上をとらえている残留思念までもがきっと桜乃の中に流れ込んだんだ。
桜乃は矢上の手を離して、そのままその場にうずくまっていた。思っていたよりも衝撃が強かったのだろう。
怒号のような声が辺りを包んだ。
「わぁぁぁっ」
その声をあげたのか、桜乃なのか、矢上なのか。それとも僕自身だったのかすらもわからなくなっていた。
それはスローモーションのようにも思えた。
矢上の手が再び桜乃へとさしかかっていた。僕は慌ててその手を止めようと身体を向ける。
桜乃は苦痛に耐えるかのように両手で頭を抱え込んでいる。
させない。絶対に桜乃だけは傷つけさせない。
僕は叫んだ。いや叫んだつもりだったけれど、声にはならなかった。
ただ身体だけが動いて、桜乃をかばうようにして僕は覆い被さる。
強い衝撃を感じた。感じたと思う。
でもよくわからなかった。
腹部が熱く迫ってくる。
その瞬間、ああ僕は刺されたんだ、と理解していた。
痛みは感じなかった。いやわからなかった。ただ僕の耳に何かが響いた。
「浩一さんっ!」
桜乃の声だっただろうか。よくわからない。桜乃らしくない強く大きな声。
矢上が自分の手を見つめていた。
「浩一? なぜ、浩一が。……私は、なに、を、浩一。浩一っ」
矢上の声がしたような気がする。正気を取り戻したのだろうか。ナイフを放して、僕へと向かって何かを叫んでいる。
僕を刺した事が矢上にとって、強い衝撃を与えて残留思念をふりほどいたのかもしれない。それなら一つ何かを救えたのかもしれない。
二人はまだ何かを叫んでいた。
だけどその後の声はもうほとんど聞こえなかった。
未来は、変えられなかった。
人がどんなに抗おうとも、未来を変えるなんて大それた事は出来ないのだろうか。決められたレールの上を走るしかないのだろうか。
いや、違う。違うはずだ。
未来は確かに訪れてしまった。だけど全てが同じだった訳ではない。
桜乃は僕に一緒に死のうと誘いかけた時には白いワンピースを着ていなかったし、この日も本当は雨のはずだった。未来は変わったはずだ。
だから矢上の様子からすれば、きっとこれ以上は何もしないはず。だから桜乃は助かるはずだ。桜乃が助かるならそれでいい。僕だけが別れを告げるのであれば、それでもいいんだ。
桜乃は無事で、矢上も元に戻った。それなら僕が望んだまるいかたちかもしれない。
僕は笑う。笑ってみせた。
まだ僕の想いが聞こえているのなら、桜乃には生きていてもらいたい。だから僕は君と一緒には死ねないんだ。
この気持ちは伝わっているだろうか。
ああ、なんだか意識が遠い場所に向かっている気がする。
これが死というものだろうか。
闇が世界を満たしていた。僕の中にそれが入ってくる。
青い空も白い雲も。夏の風も潮の匂いも。少しずつ感じられなくなっていく。
矢上の顔が見えた。桜乃の姿も見える。
でも泣いているのか笑っているのか、それももうわからなかった。
最後に願うなら、もういちど桜乃の笑顔をみていたかった。
いや、違う。
たった一度だけでいい。本当に、心から、心の底から笑っている桜乃を。
見たかった。
僕の心は深い闇の中に消えていく。