「桜乃さん。どうして君がここに」
桜乃は部屋着だったのか、大きめのTシャツの下にショートパンツという姿だった。確かにもう夜も遅く、ゆったりとしていても不思議はない。
「それは私の台詞です。今日二回目の病院ですか」
桜乃は僕が麗奈をつれて病院に向かった事を当然知っている。しかし僕達が響をつれて病院にきた事は知らなかっただろう。
桜乃はしかしすぐに納得したかのようにうなずく。おそらく僕の心の中が見えてしまったのだろう。
「私が思っていた通りになってしまいましたね。貴方はこれからどんどん悲しい思いをする事になります」
桜乃は思わせぶりに言葉を紡いだ。
ただ響の場合は完全に事故だ。体型的にもまさか大志が犯人という事はないだろうし、もしもそうなら電話中に事件を起こす必要なんてない。しかしこれも桜乃が知った何かに関係しているのだろうか。
「なら、止めてみせる」
そうだとしても桜乃だって、未来そのものを知っている訳ではない。あくまで人の心を読んで推測しただけに過ぎない。僕が望んでいるのは、初めから運命に抗う事だ。桜乃は未来を見せて欲しいといった。それなら僕は運命を止めて、実際に未来を変えてみせるしかない。
桜乃はこれ以上もう何も答えなかった。微笑みと共に覗かせた横顔は、どこか切なさをにじませているようにも思えた。
「そういえば私がここにいた訳を言っていませんでしたね。旅館で怪我人が出て連れ添う人がいなかったので、私が一緒に来たんです」
桜乃はゆっくりとした声で告げていた。あのあと旅館で他に怪我人がでたのだろうか。そうだとすれば、麗奈の事件も含めて悪い事が続いているなと思う。
一瞬それこそ祟りなのだろうかと思うものの、そんな訳はないと首を振るう。
桜乃ははじめ僕の方を見つめていたが、不意にため息を少し漏らして、くるりと背を向けていた。
そしてそこにすぐに女性の看護師の姿が現れる。
「どなたか、こちらにAB型の方はいませんか!? 緊急に輸血が必要な患者さんがいらっしゃるのですが、この台風のせいで血液が足りていないんです」
よほど慌てているのだろう。息を荒くしながら駆け寄ってくるなり、声を張り上げていた。
看護師の言葉に、桜乃は僕に背を向けたまま静かな声で答える。
「私、AB型です」
桜乃の答えに看護師の顔が明るくて変わる。
桜乃はおそらく看護師が血液をもとめてこちらにきているのを知っていたのだろう。だから前もって僕に背を向けて、看護師がくるのを待っていたのだと思う。
「お願いです。協力してください。少しでも血が必要で、それで」
「わかっています。行きましょう」
桜乃は落ち着いた様子で、そのまま歩き始めていた。
強い意志ほどはっきりと感じられる。そんなことを桜乃は言っていたように思う。だから焦って走っていた看護師の心は桜乃には筒抜けだったのだろう。
こうして見るとやっぱり人の心がわかるというのは、あまりいいことではないと思った。
桜乃の中で唐突に叩きつけられる心は、たぶん彼女の心を乱し続けているはずだ。あんな風に落ち着いていられるのは、桜乃が心を閉ざしてしまっている証拠なのだろう。
心は時に刃になる。時に人を傷つけ、過ちを犯させる。だけど普通はそれを態度に表さない限りは感じさせることはない。
なのに桜乃はいつでも無条件にぶつけられて、感じなくてもいい痛みや悲しみを刻みつけられているのだろう。
このまま朝がこなければいいのに。何もなく平穏な時間がきてくれたらいいのに。僕は心の奥で願う。
もうこれ以上に悲しい事がないように、未来なんて見えなければいいのに。
僕は桜乃にどこか自分を重ね合わせてため息をもらした。桜乃のように常時ぶつけられる訳ではないけれど、自分では制御できない想いを垣間見てしまうのは僕も同じだ。
桜乃の気持ちがわかるのは、そういう意味でもしかしたら僕だけなのかもしれない。同じような力を持つ、僕だけが桜乃を支えられるのかもしれない。
そして僕を支えてくれるのも、もしかしたら彼女だけなのかもしれない。
天を見上げる。もちろん病院の天井が見えるだけだ。だけど僕はこの時、理解してしまっていたのだろう。
僕はたぶん桜乃に惹かれてしまっている。彼女を助けてあげたいと。彼女を救いたいと。いつの間にか感じてしまっている。
僕は彼女を救えるのだろうか。未来を変えられるのだろうか。
僕が未来を変えない限り、彼女は救われないのだろう。そして僕の力が示す通り、さよならを連れてきてしまう。
さよならはいつも角張っていて、僕達を傷つけていく。
僕は君にそれを感じさせずにいられるだろうか。
麗奈とはいまだ別れを告げずに済んでいる。幸い怪我は軽い。たぶん病院内で何かが起きる事もないだろうし、医者からの話の限りでは急激に悪化する事も考えにくい。そう思えば未来を変えられたのかもしれない。
でも桜乃との別れはまだ来ていない。見えた未来からすれば、僕が一緒に彼女と死ぬのか。いや誘いには僕は断った。もう見てしまった未来は訪れた。なら別れもないはず。
そこまで考えてから、僕はある一つの結論にたどり着いていた。
麗奈が怪我をするから、麗奈との別れがあると考えていた。
桜乃が僕を死に誘うから、桜乃との別れがあると考えていた。
でも麗奈や桜乃が死ぬ事がなかったとしても、まだ二人と別れる可能性があるじゃないか。
僕が死ぬ。僕がいなくなれば、二人との別れは必然的に訪れる。
そうか。そうだったのか。
未来には僕自身の姿も見えていた。自分と別れるというのは、僕自身の死しかありえない。僕がいなくなるなら、他に誰が見えていたとしても全員と別れる事になるのが自然だ。
もういちど天井を見上げていた。
もしも未来を変えられないのなら、せめて。
僕は心の中で強く誓う。
消えてしまうのは僕だけでいいんだ。
桜乃は部屋着だったのか、大きめのTシャツの下にショートパンツという姿だった。確かにもう夜も遅く、ゆったりとしていても不思議はない。
「それは私の台詞です。今日二回目の病院ですか」
桜乃は僕が麗奈をつれて病院に向かった事を当然知っている。しかし僕達が響をつれて病院にきた事は知らなかっただろう。
桜乃はしかしすぐに納得したかのようにうなずく。おそらく僕の心の中が見えてしまったのだろう。
「私が思っていた通りになってしまいましたね。貴方はこれからどんどん悲しい思いをする事になります」
桜乃は思わせぶりに言葉を紡いだ。
ただ響の場合は完全に事故だ。体型的にもまさか大志が犯人という事はないだろうし、もしもそうなら電話中に事件を起こす必要なんてない。しかしこれも桜乃が知った何かに関係しているのだろうか。
「なら、止めてみせる」
そうだとしても桜乃だって、未来そのものを知っている訳ではない。あくまで人の心を読んで推測しただけに過ぎない。僕が望んでいるのは、初めから運命に抗う事だ。桜乃は未来を見せて欲しいといった。それなら僕は運命を止めて、実際に未来を変えてみせるしかない。
桜乃はこれ以上もう何も答えなかった。微笑みと共に覗かせた横顔は、どこか切なさをにじませているようにも思えた。
「そういえば私がここにいた訳を言っていませんでしたね。旅館で怪我人が出て連れ添う人がいなかったので、私が一緒に来たんです」
桜乃はゆっくりとした声で告げていた。あのあと旅館で他に怪我人がでたのだろうか。そうだとすれば、麗奈の事件も含めて悪い事が続いているなと思う。
一瞬それこそ祟りなのだろうかと思うものの、そんな訳はないと首を振るう。
桜乃ははじめ僕の方を見つめていたが、不意にため息を少し漏らして、くるりと背を向けていた。
そしてそこにすぐに女性の看護師の姿が現れる。
「どなたか、こちらにAB型の方はいませんか!? 緊急に輸血が必要な患者さんがいらっしゃるのですが、この台風のせいで血液が足りていないんです」
よほど慌てているのだろう。息を荒くしながら駆け寄ってくるなり、声を張り上げていた。
看護師の言葉に、桜乃は僕に背を向けたまま静かな声で答える。
「私、AB型です」
桜乃の答えに看護師の顔が明るくて変わる。
桜乃はおそらく看護師が血液をもとめてこちらにきているのを知っていたのだろう。だから前もって僕に背を向けて、看護師がくるのを待っていたのだと思う。
「お願いです。協力してください。少しでも血が必要で、それで」
「わかっています。行きましょう」
桜乃は落ち着いた様子で、そのまま歩き始めていた。
強い意志ほどはっきりと感じられる。そんなことを桜乃は言っていたように思う。だから焦って走っていた看護師の心は桜乃には筒抜けだったのだろう。
こうして見るとやっぱり人の心がわかるというのは、あまりいいことではないと思った。
桜乃の中で唐突に叩きつけられる心は、たぶん彼女の心を乱し続けているはずだ。あんな風に落ち着いていられるのは、桜乃が心を閉ざしてしまっている証拠なのだろう。
心は時に刃になる。時に人を傷つけ、過ちを犯させる。だけど普通はそれを態度に表さない限りは感じさせることはない。
なのに桜乃はいつでも無条件にぶつけられて、感じなくてもいい痛みや悲しみを刻みつけられているのだろう。
このまま朝がこなければいいのに。何もなく平穏な時間がきてくれたらいいのに。僕は心の奥で願う。
もうこれ以上に悲しい事がないように、未来なんて見えなければいいのに。
僕は桜乃にどこか自分を重ね合わせてため息をもらした。桜乃のように常時ぶつけられる訳ではないけれど、自分では制御できない想いを垣間見てしまうのは僕も同じだ。
桜乃の気持ちがわかるのは、そういう意味でもしかしたら僕だけなのかもしれない。同じような力を持つ、僕だけが桜乃を支えられるのかもしれない。
そして僕を支えてくれるのも、もしかしたら彼女だけなのかもしれない。
天を見上げる。もちろん病院の天井が見えるだけだ。だけど僕はこの時、理解してしまっていたのだろう。
僕はたぶん桜乃に惹かれてしまっている。彼女を助けてあげたいと。彼女を救いたいと。いつの間にか感じてしまっている。
僕は彼女を救えるのだろうか。未来を変えられるのだろうか。
僕が未来を変えない限り、彼女は救われないのだろう。そして僕の力が示す通り、さよならを連れてきてしまう。
さよならはいつも角張っていて、僕達を傷つけていく。
僕は君にそれを感じさせずにいられるだろうか。
麗奈とはいまだ別れを告げずに済んでいる。幸い怪我は軽い。たぶん病院内で何かが起きる事もないだろうし、医者からの話の限りでは急激に悪化する事も考えにくい。そう思えば未来を変えられたのかもしれない。
でも桜乃との別れはまだ来ていない。見えた未来からすれば、僕が一緒に彼女と死ぬのか。いや誘いには僕は断った。もう見てしまった未来は訪れた。なら別れもないはず。
そこまで考えてから、僕はある一つの結論にたどり着いていた。
麗奈が怪我をするから、麗奈との別れがあると考えていた。
桜乃が僕を死に誘うから、桜乃との別れがあると考えていた。
でも麗奈や桜乃が死ぬ事がなかったとしても、まだ二人と別れる可能性があるじゃないか。
僕が死ぬ。僕がいなくなれば、二人との別れは必然的に訪れる。
そうか。そうだったのか。
未来には僕自身の姿も見えていた。自分と別れるというのは、僕自身の死しかありえない。僕がいなくなるなら、他に誰が見えていたとしても全員と別れる事になるのが自然だ。
もういちど天井を見上げていた。
もしも未来を変えられないのなら、せめて。
僕は心の中で強く誓う。
消えてしまうのは僕だけでいいんだ。