「浩一さん」

 聞こえてきた声に、僕は顔を上げていた。
 病院のリノリウムの床が夏場だというのに、どこか冷たく感じる。

 いつの間にか楠木がすぐそばにたっていた。
 今は病院の長椅子に一人腰掛けていた。

 幸い麗奈の刺し傷は浅く、命に別状はないとのことだった。ただあの後、気を失ってしまったようで、それから意識を取り戻してはいない。

 警察からはいろいろと事情を聴取されて、指紋をとられたりもした。ナイフからは僕の指紋しか検出されなかったようだ。

 残念ながらあの旅館には防犯カメラのような類いがほとんどなく、犯人の姿も確認されていない。どうやら僕達が入ってきた裏口から逃げたようだけれど、他に目撃情報もないようだった。

 事情聴取の中では警察は僕の事も疑っているようにも思えたけれど、正直なところどうでもよかった。ただ麗奈が無事でいてくれさえすれば、それでよかった。でも麗奈はまだ意識を取り戻していないから、本当に無事なのかわからなかった。

 不安ばかりが僕の中に渦巻いていく。
 このまま麗奈がいなくなってしまったら、僕はどうすればいいのかわからなかった。

「なんだか大変な事になってしまいましたね」

 楠木の声は、いつも通りのどこか間の抜けた声でぜんぜん大変そうには思えなかった。ただそれが少しだけ僕の不安を取り除いてくれた。

「そうだな」

 少し苦笑を浮かべながらも僕はうなずく。

 こんな時ではあるけれど、楠木のいつも通りのふわふわとした雰囲気が、どこか僕をとらえる切迫感を消してくれる。楠木が意識してそうしているのかはわからなかったけれど、それは正直ありがたいと思えた。

「警察の人は浩一さんを疑っているような口ぶりでしたけど、失礼ですよね。浩一さんがそんなことするはずもないのに」

 楠木は軽い口調で告げて、それから優しげな笑顔を振りまいていた。

「だから真犯人を捜しましょう。浩一さんの為に、そして麗奈さんの為にも」
「そうだな」

 僕はもういちど、でも今度はわずかに憂いを含めた声と共にうなずいていた。
 天井へと顔を向ける。そこにはただの白い壁が見えるだけだ。

 真犯人を捜す。
 もちろん警察も犯人を捜してくれるだろうし、僕達が何をするよりも警察に任せた方が確実だろうとは思う。

 ただどこかで犯人が見つからなければいいと思っている気持ちをごまかせなかった。
 防空壕での事件と今回の事件が同一犯によるものかはわからない。ただその可能性は高いように思える。

 だとすれば犯人はわざわざ麗奈を追いかけてきて、あるいは待ち伏せして犯行に及んだということになる。行きずりの犯人だとすれば、そこまでする意味がわからない。

 もちろんただの狂人の犯行なのかもしれない。だけど初めから麗奈に執着しているのだとすれば話は別になる。

 気がついていなかったけれど、麗奈を救急車に連れて行く時に楠木と大志はそばにいたらしい。だけど今も姿を見せていない身内がいる。

 犯人は響なんじゃないか。正直なところ、僕はそう疑っていた。もちろん何の確証もない。だけどもし犯人が響なのだとしたら。

 捕まって欲しいのか。捕まって欲しくないのか。僕にはよくわからない。

 麗奈をこんな風にした犯人は絶対に許せない。でも響がもし犯人なのだとしたら。

 わからない。わからなかった。考えたくもなかった。だけどその考えが頭の中から消えなかった。

 僕は頭を振るう。どうしていいのかもわからなかった。

「浩一さん、私は信じていますからね。もうこれ以上、誰も傷つかないって。浩一さんがそうしてくれるって、信じていますから」

 楠木のどこかのほほんとした口調。でもその声が震えているのに気がついて、僕は息を飲み込む。ああ。楠木は僕を励まそうとして、普通にしてくれていたんだと思う。

 それだけ僕がふさぎ込んでいるように見えたのかもしれない。
 気を使わせてしまっているなと思う。そしてそれと同時に僕の心もはっきりとしていく。

「何にしてもここにずっといる訳にもいきませんし、いちど旅館に戻りましょうか。ここでじっとしていても埒があきませんし」
「……そうだな」

 僕は三度同じ言葉を口にしていた。しかしもうそこには苦みも憂いも含まれていない。

 正直迷いはある。だけどこのままでいるわけにもいかなかった。
 響が犯人なのか。そうでないのか。はっきりとさせるしかない。

 起きてしまった現在はもう変える事はできない。でもまだ未来は確定していないはずだ。
 麗奈とはまださよならを言わずにすんでいる。未来はまだ変えられるんだ。

 僕が誓うと共に、ふと頭の中に何かが降りてきていた。

 潮騒の音が聞こえてきていた。何か叫ぶ声が聞こえる。だけど何を言っているのかはわからなかった。

『殺してやる……!』

 どこからか聞こえてきた声。
 だけど誰の声かはわからない。

 それと共に再びまた現実に戻る。今のは何だったのだろうか。いつもの未来視だったのだろうか。だけど誰の姿も見えなくて、ただ声だけが響いてきていた。それはいつもの未来を示す白昼夢とは違う。

「誰が殺されてやるものか」

 思わず口の中でつぶやく。

「浩一さん、何かいいました?」

 きょとんとした顔で楠木がたずねる。声にだしてしまっていたのかもしれない。

「なんでもないよ。大志が待っているし、響と矢上もさすがに戻ってきているかもしれない。いこう」

 何が待っているのかはわからなかったけれど、僕は絶対に未来を変える。
 それだけをただ強く誓う。