「あれー、浩一くん?」

 そこに立っていたのは大志の姿だった。相変わらずのんびりとした話し方だと思う。

 ただ大志は行方不明になっていた訳ではない事にほっとした部分もあったが、麗奈が大変な目にあった時にのんきな声で話す大志にいらつきを隠せなかった。

「あれじゃないだろ。なんでここにいるんだよ。防空壕の前で待っているはずだったろ」

「え、えーっと、そう。そうだ、お腹がどーしてもすいちゃって。先に帰ったんだよ」

 大志は明らかに目を泳がせながら、思いついた答えを返していた。ただ大志が嘘をついているのはすぐにわかった。もともと大志は嘘をつくのが苦手だから、こういう時にはすぐにはっきりとわかる。

「嘘をつくな。あそこからは一本道なんだから、それなら必ず俺達とすれ違うはずだろ。何を隠しているんだ。言えよ」

 少し口調がいらつきでとげとげしくなっていたとは思う。しかし僕には大志を思う余裕はなかった。そもそも皆があの場から動かずに待っていてくれたなら何も起きなかったはずなのにと怒りが隠せなかった。

 麗奈が襲われたこと、そしてもしかしたら響が犯人かもしれないこと、矢上もいなくなってしまったこと。全てが僕の心に何度もトゲを刺してきて、そのいらだちは目の前の大志へと向けられていた。

「ひっ……!?」

 大志は思わず小さな悲鳴を漏らしていたが、それは僕の心には響かなかった。

「浩一くん、怖いよ。いつもと違うよ」

 大志は後ずさるようにして壁に背をついた。僕の様相におびえているようにも見えたが、僕は気にも留めなかった。

「何を隠してるのか、言え。言わないつもりなら力尽くでも言わせてやる」

「ひっ。わ、わかったよ。いうよ。その……」

 思わず声にした脅しの言葉に、大志は慌てて答えるが、しかしそれでもどこか口ごもっていた。

 その様子にいらだちが最大に増して、思わず僕は拳で壁を殴りつけていた。
 激しい音が響く。

「言えよ」

 僕の目は笑っていなかった。すわった瞳が大志をにらみつけていた。

「わ、わかったよ。い、井坂さんが、その、しばらくの間ふたりきりにしたいっていうから、僕達は響くんが前もって調べておいた裏の小道から帰ったんだ」

 大志は慌てた様子で告げるが、その言葉に僕は何が起きているのかわからなかった。

 裏の小道とは桜乃と通った裏道の事だろう。確かに一見して道のようには見えなかったけれど、そこを通れば近道になっていた。

 ただふたりきりにとはどういう意味だろうか。井坂さん、つまりは麗奈が言っていたということになるが、麗奈が何をしようとしたのかわからなかった。

 響とふたりきりになりたかったのだろうか。麗奈は響を気に入っていたようだったから、それ自体は有り得る。しかしそれなら、もっと違う方法もあっただろう。それに本人ならふたりきりにしたいではなく、ふたりきりになりたいというはずだ。

「二人きりに?」

 僕は眉を寄せてたずねると、大志はややためらいながらもすぐに続けて答えた。

「う、うん。その。浩一くんと、矢上さんを」
「は? 何を言ってる」

 大志の言う事がわからなかった。僕と、矢上を。ふたりきりに。なぜ。頭が混乱して、その意図をつかめない。麗奈は何がしたかったんだ。

 ただいま話すべき事はそれじゃなかった。浮かんでくる疑問はおいておいて、すぐに話を進めていた。

「……大志。詳しい話は後で聴かせてもらうが、一緒に帰ったってことは楠木も帰ってきているのか。響と矢上は見なかったか」

 他の皆の状況を確認しておく必要があった。行方不明になっている訳でなければ、それはそれで構わない。ただ場を混乱させたことについては、後で皆をとっちめてやろうとは思う。

「うんと。響くんと矢上さんは僕は見てないよ。とりあえず部屋には戻ってきてない。愛ちゃんはちょっと下を見に行ってくるっていってたから、お土産かゲームコーナーとかにいるんじゃないかな。でも、あの、浩一くん。麗奈ちゃんに何かあったの? 浩一くんがそんな怖い顔するなんて、その麗奈ちゃんに何かあったのかなって」

 大志に言われて、はっとして平静を取りつくろう。たしかにちょっと興奮してしまっていたかもしれない。

 今はまだ麗奈の事を言う訳にはいなかった。麗奈自身に嫌な気持ちにさせてしまう事もあるけれど、まだ犯人がはっきりしていない以上は誰にも話さない方がいい。大志は体型的にも違うとは思うけれど、絶対に犯人ではないとまでは言い切れない。

 それにもし犯人が響なのだとしたら、ここで話した事が変に伝わってしまう可能性もある。そのときにしらばっくれられてもまずい。

「あとで話す。でも矢上も楠木もいないなら、女部屋は鍵もかかってるよな」

 実際さっきのノックでは誰も出てこなかった。

 着替えをどうするか悩んで、結局自分のシャツとジーンズを持って行く事にする。とりあえず一時的に着替えるだけなら、これでも十分だろう。まさか僕の服じゃ嫌だとは、この状況ではさすがの麗奈も言い出さないと思う。

 部屋に戻って荷物を探る。大志も部屋の中に戻ってきていたが、やはり響の姿はない。がらりとした部屋の中に、どこか誰もいない世界に迷い込んでしまったかのようで、僕の心をざわつかせてた。

 もちろん大志がすぐそばにいるし、この旅館の中には少ないとはいえ他のお客もいる。麗奈や桜乃、あるいは他の従業員だっているだろう。それでも僕の胸の中には何か空虚なもので満たされていた。

 そんなことではいけない。とにかく今は麗奈に服を持って行かないと。

 とりあえずシャツとジーンズを取り出して、部屋の外に向かう。大志は少し僕についてくるか悩んだようだったけれど、結局は部屋の中にいる事にしたようでついてはこなかった。

 階段を降りて浴場の前まで向かう。ただそこには桜乃は立っていなかった。

 はっきりと言葉を交わした訳でも無いし、大志と話していたせいで少し遅くなったのもある。考えてみれば彼女にもそれなりに仕事があるだろうし、ずっとこちらにつきっきりという訳にはいかないのは当然だ。

 とりあえず誰かが通りかかるのを待つか、あるいは誰か旅館の人を探して届けてもらうかするしかないだろうか。

 少し辺りを見回してみる。その瞬間だった。

 風呂場ののれんの向こうから勢いよく誰かが飛び出してくる。僕は他をみていたため避けられず、誰かとぶつかった衝撃で倒れ込んでいた。

 ただ相手も僕がいる事は予想外だったのか、よろめいて手にしていた何かを落としたようで鈍い音が響いた。

 深くかぶった野球帽に長袖のトレーナー。下はごく普通のジーンズ。顔はよく見えなかったが、身長は僕と同じくらいでさほど高くはない。すらりとした細めの男だ。

 ただ僕が起き上がる前に、その男はすぐに駆けだしていた。

「くそ……なんだよ……。ぶつかったら謝れよな」

 愚痴をもらしながらも立ち上がる。

 そして男が落とした何かに視線に送る。その瞬間、僕の身が強く震えだしていた。

 そこにあったのは赤い何かのついた、銀色に鈍く輝く、ナイフだった。

「な!?」

 思わず僕は逃げていった男の方へと顔を向ける。しかしもう男の姿は見えなかった。
 ぶつかった瞬間にはおかしいと気がつかなかった。でもそもそも女風呂から男性が出てくる事自体が変だ。
 何かがおかしい。何かが起きている。

 そうだ。これは。これは。僕は何も考えないままナイフを手にとっていた。

 何が起きているのか、わからなかった。
 何が起きているのか、気がついていた。
 そうだ。これは。これは。

「麗奈!? 麗奈!?」

 麗奈の名前を呼びながら、僕はここが女風呂である事も忘れて飛び込んでいた。他の何も考えられなかった。麗奈が無事でいてくれることだけを願っていた。

 

 脱衣所には他の誰の姿もない。ただそこに素肌にバスタオルだけに包まれた状態で倒れている麗奈の姿以外には、何も。

 バスタオルの白いはずの布地は、今は真っ赤に染まっていた。

「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 僕は思わず悲痛な声をあげずにはいられなかった。
 あの時みた白昼夢と同じように、麗奈が倒れていた。

 僕は手にしていたナイフを落とす。からんと鈍い音が響く。だけどその音は僕の耳には聞こえていない。ただ目の前の麗奈の事しか見えていなかった。

「あ……う……おにい……ちゃん……」

 麗奈の口から小さな声が漏れる。
 まだ麗奈は意識がある。生きている。生きていた。生きてる!!

「麗奈、しっかり、しっかりしろ!! いま救急車を呼ぶからな!? くそ。スマホは置いてきてしまった。誰か、誰かきてくれ!!」

 手元に連絡手段はない。大声で助けを呼ぶ。
 その声とほぼ同時に背中からその声は聞こえてきていた。

「どうされましたか!?」

 現れたのは桜乃だった。そして彼女も何が起きているのか、理解が出来ていないようで目を開いていた。

「救急車、救急車を呼んでくれ!? 誰かに刺されたんだ」

「わかりました。私が呼んできます!」

 桜乃は僕の声に正気を取り戻したのか、電話をかけにいったようだった。

「麗奈! もう大丈夫だ。麗奈!!」

「……おにい……ちゃん……」

 うわごとのように僕の事を呼んでいた。

「ここにいる! 僕ならここにいる。大丈夫だ。麗奈!」

「えへへ……よかった……」

 震える麗奈の声が、まだ麗奈との別れを迎えた訳ではない事を確かに伝えてくる。

 そうだ。こんなことで。こんなことで麗奈と別れてなんかたまるものか。

 僕は強く誓う。

 僕の見る未来はいつでも別れも伴ってしまう。
 でも変えてやる。絶対に変えてやるんだ。僕は。

 麗奈を助ける。助けるんだ。
 麗奈を。麗奈を。助ける。助けるんだ。なぁ、そうだろ。そうするんだ。

 僕の頭の中は混乱して、誰に話しかけているのかもわからずに、ただ心の中で言葉を漏らし続けていた。

 だけどその反面、麗奈の血は少しずつバスタオルをさらに赤く染めていく。

 一瞬とも永遠ともつかない時間が流れていた。僕にはどれだけの時間が経ったのかもわからない。

 救急車のサイレンの音が響き渡る。

 未来なんていらない。だから今を失わせないでくれ。僕は強く目をつむる。

 現実となってしまった未来は、変えようともがいていた未来は、ここに訪れてしまった。でもせめて。せめてさよならは告げさせないでくれ。

 僕は誰にとも知れずに祈り続けていた。

 麗奈が助かることを。少しでも血を失わせないように、僕はただ傷口を抑え続けることしか出来なかった。