「あはははっ」
現れたのは、どこかいたずらな声で笑う桜乃の姿だった。彼女は自身の長い髪を掻き上げると、そこから海水が滴っている。
完全に海に沈んでずぶぬれになった真っ白なワンピースは、すっかりと濡れ透けて彼女の肌と肌着を明らかにしていた。だけど彼女は全く何も気にしていない様子で、ただ仔猫のような笑顔を僕へと投げかけてくるだけだった。
何のつもりだかはわからなかったけれど、どうやら僕をからかっていたらしい。
「何なんだよ、いったい」
「貴方も一緒に海に入りたいのかな、と思って」
「そんな訳ないだろ、水着じゃないんだし。君だってせっかくの服がずぶぬれじゃないか。冗談ならもう少し可愛い事にして欲しい」
呆れて息を吐き出す。
彼女の事が何もわからなかった。何がしたいのか、何を思っているのかわからなかった。僕達はそもそもこんな風にいたずらをするような関係でもないはずだ。
だけど彼女はまるでつきあいの長い友達と一緒にいるかのように、僕に笑顔を振りまいていた。
「おかげでびしょ濡れだよ」
「夏だからすぐに乾きますよ。それに、たまには馬鹿馬鹿しい事をするのもいいと思いませんか」
「僕はごめんだね。無駄な事はしたくな」
僕がそうつぶやいた。つぶやこうとした瞬間だった。
突然、未来が降りてきていた。急に視界が奪われて、こことは違う場所を映しだしている。
だけどいつもと違い、その映像が見えたのはほんの一瞬だった。
そしてその中で、桜乃が僕にささやくような声で誘いかける。
「私と一緒に死んでくれますか」
あの時と全く同じ風景と全く同じ台詞。
僕の身体が震えていた。今まで一度見た未来と同じ未来が見えた事はなかった。
まるで目の前にいる桜乃が告げたかに思えるほどに、はっきりと、でも刹那の時間で僕の脳裏に未来を焼き付けていた。
だから僕はとっさに声を漏らしていた。
「なんで死ななきゃいけないんだよ」
彼女の問いに対する答え。だけどその言葉は、僕に突然降ってきた未来の桜乃の問いに対しての答えだ。今の彼女がそう告げた訳ではないだけに、目の前の桜乃にしてみれば、あまりに突然の物言いになる。
すぐにその事に気がついたものの、いちど発してしまった言葉は取り返しがつかない。案の定、桜乃はきょとんとした顔で僕を見つめていた。
あまりにも唐突な言葉に、彼女も理解が追いついていないのだろう。
何とか言い訳をしなきゃと思うものの、僕もどう言って良いものかはわからない。少しの間、沈黙が訪れる。
そしてその沈黙は破ったのは、まったく予想もしない桜乃の台詞だった。
「知りすぎてしまった人は、いなくなるしかないのかもしれませんね」
桜乃は本気か冗談かもわからない声で答えると、それから僕へと満ち足りた笑顔を向けてくる。話の内容には全く似つかわしくもない笑みは、しかし夜の中に溶けるかのように僕の中に染み入ってくる。
「そろそろ戻りましょうか。旅館に帰ればタオルと洗濯機くらいは用意できますから」
桜乃はなぜか僕へとその手を差し出していた。
彼女の意図をつかめずに、僕は少し眉を寄せる。彼女の意図はどこかつかみづらいが、たぶん体を起こすのを手伝ってほしいという事なのだろう。
とにかくその手をとると力をいれて引き起こす。桜乃はそれに応じるようにして立ち上がるが、どこか力が入らないかのような緩慢な動きだった。もしかしたらずぶ濡れになったワンピースが重たいのかもしれない。
「ありがとうございます」
桜乃は礼を告げると、それから不思議そうな顔を僕へと向けていた。
「そうですか。やっぱり勘違いではなかったのですね」
彼女は急に何かを告げるが、何の話をしているのかはよくわからない。どうにも不思議な子だとは思う。
桜乃はスカートの裾をまくりあげると、そのままぎゅっと強く絞る。ワンピースに染みこんだ海水が流れていくが、同時に彼女の素足もあらわになっていて、少し目のやり場に困る。
「私の足が気になります?」
めざとく告げる彼女に、なんと答えてよいものかわからなかった。
「……あのね」
ため息と共にそれだけつぶやきをもらす。わかっていて僕をからかっているのか、それとも天然に気になっているのかもわからない。ただ恐らくは前者なのだろう。
「冗談ですよ。じゃあ、いきましょうか」
桜乃の言葉に僕はもういちどため息を漏らす。
これだけずぶぬれになったなら、もう旅館に戻る以外にはないだろう。今来た道を戻り始める。
桜乃も僕の隣に並んで歩みを寄せたかと思うと、不意に彼女が僕の手をとっていた。
まるで恋人のように絡められた手に、僕は驚いて彼女へと顔を向ける。彼女は曇りない笑顔を僕へと向けてきていた。
突然の事に驚きを隠せなかった。どきどきと胸がはじけるのを感じていた。
これだけの美少女と手をつないで歩くというのは、普段なら楽しい事だろうとは思う。いや今だって胸が高鳴るのは抑えられない。
だけど僕は桜乃に会うためにここにきた。だけどそれは僕が見てしまった未来を変えるため。彼女が告げるはずの言葉をさよならにつなげないために、僕は彼女と出会いにきたんだ。
でもまだ彼女とは近しい間柄になった訳じゃない。手をつなぐくらいのことは特別な事ではないかもしれないけれど、夜の海で綺麗な女の子と二人手をつないで歩くというのは、恋人同士がするものだ。僕と桜乃はそういう関係じゃない。
なのにどうして桜乃は僕の手をとったのだろう。思わず握られた手の方を見つめてしまう。
「駄目でした?」
僕の様子に気がついたのだろう。桜乃は少し上目づかいに僕の顔をのぞき込んでくる。
胸の中で鼓動が早まるのを感じていた。どきどきと鳴り響く心臓の音が、彼女にも伝わっているんじゃないかとすら思う。
矢上、楠木といった女性の友達もいるし、妹の麗奈もいる。女の子になれていないという訳でもないけれど、桜乃はいろんな意味で他の女の子達とは異なっていた。だからこそ僕は彼女を強く意識してしまっている。
手をつなぐ事が駄目かと言われれば、別に嫌ではない。これだけの可愛い女の子とふれあう事に嫌悪感を抱く男は少ないだろう。
「駄目じゃないけど、なんで? 君と僕とはまだ知り合ったばかりだし、手をつなぐほどの仲じゃないだろ。僕は目を見張るほどの美男子でもないし、そうする理由が見あたらない」
純粋に疑問は覚えていた。桜乃の態度はまるで僕の事をよく知っている友達、いや恋人同士のようにしか思えない。
僕には桜乃を意識する理由がある。彼女はこれから起きる未来として見てきたからだ。未来を変えるために、僕は桜乃を気にかけてはいたと思う。
だけど彼女には僕を意識する理由はないはずだった。僕は旅館の客の一人に過ぎなくて、特別に格好いい訳でもないし、何か目立つものがある訳でもない。未来を見る力を持っているものの、それは彼女が知るところではないはずだ。なのに彼女にとって、僕が特別な存在であるかのように、彼女は僕と触れあっていた。
「理由ですか。そうですね、手から想いが伝わってくるからでしょうか」
桜乃ははぐらかすかのように告げると、いたずらな笑みを僕へと差し出していた。
だけどつないだ手にほんの少しだけ力がこもる。
風が舞っていた。僕の元へと海の匂いと共に、どこか甘い香りが僕の鼻腔をくすぐっていく。女の子特有の甘い香り。それが桜乃のものであることは、意識せずとも理解できていた。
つないだままの手からはぬくもりが伝わってくる。
何が言いたいのかは結局はわからなかった。だけど彼女は僕とこうしている事に、楽しそうな笑顔を浮かべていて、これ以上には何も言えなかった。
だから僕は二人、桜乃と夜道を歩いていた。
手をつないだままで。
現れたのは、どこかいたずらな声で笑う桜乃の姿だった。彼女は自身の長い髪を掻き上げると、そこから海水が滴っている。
完全に海に沈んでずぶぬれになった真っ白なワンピースは、すっかりと濡れ透けて彼女の肌と肌着を明らかにしていた。だけど彼女は全く何も気にしていない様子で、ただ仔猫のような笑顔を僕へと投げかけてくるだけだった。
何のつもりだかはわからなかったけれど、どうやら僕をからかっていたらしい。
「何なんだよ、いったい」
「貴方も一緒に海に入りたいのかな、と思って」
「そんな訳ないだろ、水着じゃないんだし。君だってせっかくの服がずぶぬれじゃないか。冗談ならもう少し可愛い事にして欲しい」
呆れて息を吐き出す。
彼女の事が何もわからなかった。何がしたいのか、何を思っているのかわからなかった。僕達はそもそもこんな風にいたずらをするような関係でもないはずだ。
だけど彼女はまるでつきあいの長い友達と一緒にいるかのように、僕に笑顔を振りまいていた。
「おかげでびしょ濡れだよ」
「夏だからすぐに乾きますよ。それに、たまには馬鹿馬鹿しい事をするのもいいと思いませんか」
「僕はごめんだね。無駄な事はしたくな」
僕がそうつぶやいた。つぶやこうとした瞬間だった。
突然、未来が降りてきていた。急に視界が奪われて、こことは違う場所を映しだしている。
だけどいつもと違い、その映像が見えたのはほんの一瞬だった。
そしてその中で、桜乃が僕にささやくような声で誘いかける。
「私と一緒に死んでくれますか」
あの時と全く同じ風景と全く同じ台詞。
僕の身体が震えていた。今まで一度見た未来と同じ未来が見えた事はなかった。
まるで目の前にいる桜乃が告げたかに思えるほどに、はっきりと、でも刹那の時間で僕の脳裏に未来を焼き付けていた。
だから僕はとっさに声を漏らしていた。
「なんで死ななきゃいけないんだよ」
彼女の問いに対する答え。だけどその言葉は、僕に突然降ってきた未来の桜乃の問いに対しての答えだ。今の彼女がそう告げた訳ではないだけに、目の前の桜乃にしてみれば、あまりに突然の物言いになる。
すぐにその事に気がついたものの、いちど発してしまった言葉は取り返しがつかない。案の定、桜乃はきょとんとした顔で僕を見つめていた。
あまりにも唐突な言葉に、彼女も理解が追いついていないのだろう。
何とか言い訳をしなきゃと思うものの、僕もどう言って良いものかはわからない。少しの間、沈黙が訪れる。
そしてその沈黙は破ったのは、まったく予想もしない桜乃の台詞だった。
「知りすぎてしまった人は、いなくなるしかないのかもしれませんね」
桜乃は本気か冗談かもわからない声で答えると、それから僕へと満ち足りた笑顔を向けてくる。話の内容には全く似つかわしくもない笑みは、しかし夜の中に溶けるかのように僕の中に染み入ってくる。
「そろそろ戻りましょうか。旅館に帰ればタオルと洗濯機くらいは用意できますから」
桜乃はなぜか僕へとその手を差し出していた。
彼女の意図をつかめずに、僕は少し眉を寄せる。彼女の意図はどこかつかみづらいが、たぶん体を起こすのを手伝ってほしいという事なのだろう。
とにかくその手をとると力をいれて引き起こす。桜乃はそれに応じるようにして立ち上がるが、どこか力が入らないかのような緩慢な動きだった。もしかしたらずぶ濡れになったワンピースが重たいのかもしれない。
「ありがとうございます」
桜乃は礼を告げると、それから不思議そうな顔を僕へと向けていた。
「そうですか。やっぱり勘違いではなかったのですね」
彼女は急に何かを告げるが、何の話をしているのかはよくわからない。どうにも不思議な子だとは思う。
桜乃はスカートの裾をまくりあげると、そのままぎゅっと強く絞る。ワンピースに染みこんだ海水が流れていくが、同時に彼女の素足もあらわになっていて、少し目のやり場に困る。
「私の足が気になります?」
めざとく告げる彼女に、なんと答えてよいものかわからなかった。
「……あのね」
ため息と共にそれだけつぶやきをもらす。わかっていて僕をからかっているのか、それとも天然に気になっているのかもわからない。ただ恐らくは前者なのだろう。
「冗談ですよ。じゃあ、いきましょうか」
桜乃の言葉に僕はもういちどため息を漏らす。
これだけずぶぬれになったなら、もう旅館に戻る以外にはないだろう。今来た道を戻り始める。
桜乃も僕の隣に並んで歩みを寄せたかと思うと、不意に彼女が僕の手をとっていた。
まるで恋人のように絡められた手に、僕は驚いて彼女へと顔を向ける。彼女は曇りない笑顔を僕へと向けてきていた。
突然の事に驚きを隠せなかった。どきどきと胸がはじけるのを感じていた。
これだけの美少女と手をつないで歩くというのは、普段なら楽しい事だろうとは思う。いや今だって胸が高鳴るのは抑えられない。
だけど僕は桜乃に会うためにここにきた。だけどそれは僕が見てしまった未来を変えるため。彼女が告げるはずの言葉をさよならにつなげないために、僕は彼女と出会いにきたんだ。
でもまだ彼女とは近しい間柄になった訳じゃない。手をつなぐくらいのことは特別な事ではないかもしれないけれど、夜の海で綺麗な女の子と二人手をつないで歩くというのは、恋人同士がするものだ。僕と桜乃はそういう関係じゃない。
なのにどうして桜乃は僕の手をとったのだろう。思わず握られた手の方を見つめてしまう。
「駄目でした?」
僕の様子に気がついたのだろう。桜乃は少し上目づかいに僕の顔をのぞき込んでくる。
胸の中で鼓動が早まるのを感じていた。どきどきと鳴り響く心臓の音が、彼女にも伝わっているんじゃないかとすら思う。
矢上、楠木といった女性の友達もいるし、妹の麗奈もいる。女の子になれていないという訳でもないけれど、桜乃はいろんな意味で他の女の子達とは異なっていた。だからこそ僕は彼女を強く意識してしまっている。
手をつなぐ事が駄目かと言われれば、別に嫌ではない。これだけの可愛い女の子とふれあう事に嫌悪感を抱く男は少ないだろう。
「駄目じゃないけど、なんで? 君と僕とはまだ知り合ったばかりだし、手をつなぐほどの仲じゃないだろ。僕は目を見張るほどの美男子でもないし、そうする理由が見あたらない」
純粋に疑問は覚えていた。桜乃の態度はまるで僕の事をよく知っている友達、いや恋人同士のようにしか思えない。
僕には桜乃を意識する理由がある。彼女はこれから起きる未来として見てきたからだ。未来を変えるために、僕は桜乃を気にかけてはいたと思う。
だけど彼女には僕を意識する理由はないはずだった。僕は旅館の客の一人に過ぎなくて、特別に格好いい訳でもないし、何か目立つものがある訳でもない。未来を見る力を持っているものの、それは彼女が知るところではないはずだ。なのに彼女にとって、僕が特別な存在であるかのように、彼女は僕と触れあっていた。
「理由ですか。そうですね、手から想いが伝わってくるからでしょうか」
桜乃ははぐらかすかのように告げると、いたずらな笑みを僕へと差し出していた。
だけどつないだ手にほんの少しだけ力がこもる。
風が舞っていた。僕の元へと海の匂いと共に、どこか甘い香りが僕の鼻腔をくすぐっていく。女の子特有の甘い香り。それが桜乃のものであることは、意識せずとも理解できていた。
つないだままの手からはぬくもりが伝わってくる。
何が言いたいのかは結局はわからなかった。だけど彼女は僕とこうしている事に、楽しそうな笑顔を浮かべていて、これ以上には何も言えなかった。
だから僕は二人、桜乃と夜道を歩いていた。
手をつないだままで。