「私と一緒に死んでくれますか」

 少女は振り返り、長い髪を風になびかせながら告げていた。
 切り立った絶壁の前、白いワンピースをきた少女は麦わら帽子に表情を隠しながら僕へと手を差しのばす。

 崖の向こう側からは打ち付ける波音が、誘うように僕達を呼んでいる。
 ここから飛び降りたら確かに死ねるだろうな、と軽く思う。少女の微笑みは全く現実感を伴わなかった。悪質な冗談。普通に考えればそれ以外には有り得ない台詞だった。

 僕は彼女のことを知らない。年の頃は僕よりも少し歳下の十五、六歳くらいだろうか。高校生くらいだろう。初めて会う見たこともない少女は、どこかにあどけなさを残しながらも、その端正に整った可憐な顔立ちには、思わず目を奪われてしまう。

 そんなとびきりの美少女が手をのばして、一緒に死のうと僕に誘いかける。

 冗談以外ではありえないその台詞は、だけどもしも「はい」と答えればすぐにでも手をとって、そこから飛び降りてしまいそうな冷たい匂いを漂わせていて、僕は思わずその身を震わせていた。

 どこかこの世のものでないような笑顔は、まるでそこにいるのは人ではないかのようにも思えて、僕に現実感を覚えさせなかった。

 僕は海の匂いは嫌いだ。潮の香りは少し鼻について、いつも少し気分を落とす。
 だけど今は鈴蘭がささやくような、爽やかな香りが僕を誘っていた。
 何も答える事が出来ずに、ただ顔を上げてまっすぐに少女を見つめていた。
 響くのは海の歌声だけ。ここへおいでと呼んでいる。







浩一(こういち)。きいてる?」

 眼前で呼ばれた声に、僕は一気に現実に引き戻される。
 見慣れたいつもの教室。もう授業は終わった後のようで、ほとんど人は残っていない。数人の物好き達が必死でホワイトボードを写しているか、あるいは夏休みを前にしてだべりを重ねているだけ。

 声の主の方へと視線を移す。大きくて切れ長の目が何よりも目に止まる。首元で切りそろえられた髪が、彼女が動くと共に揺れていた。

「ああ、麗奈(れな)。悪い。聴いてなかった」

 あまり悪びれた様子もなく答えると、それから少しだけ外へと視線を移す。何の話をしていたんだっけと思いを巡らせていた。
 しかしその答えが出る前に麗奈は、まくし立てるように言葉を紡ぐ。

「ああ、また聞いてなかったのね。どうせ浩一はいつも通り興味がないんでしょうけど、話くらいは真面目にきいてくんない。で、どうなの。くるの、こないの。伊豆旅行」

 麗奈の台詞に、仲間内で旅行に行こうという話をしていた最中だという事をやっと思い出す。

 ただこれは僕がぼぅっとしていたからという訳じゃあない。例えるなら「降ってきた」というべきだろうか。それはいつも僕の頭の中に突然浮かんでくる。それはまるで実際にその場いるかのように思えるほどに鮮明に感じられて、意識を一気に奪われてしまうのだ。

 まるでドラマの中に迷い込んだような色彩は、けっして僕の空想などではない。その風景はこれから先に確かに起こる出来事なんだ。

 僕には未来を視る力がある。

 いま頭の中に浮かんできた海辺の光景。そして「一緒に死んでくれますか」と誘う見知らぬ少女の姿。それはこれから先に起きる未来なんだ。
 そしてどんなに避けようとしても、必ず訪れてしまう光景だった。

 今までも幾度となくあった未来視に、僕は吐き気すらもよおす。
 この力は自分の好きなように未来を視る事はできない。いつも突然に降りてくる。例えるなら、僕の意識だけが未来に飛んでその場を見つめているような、そんな感じだ。
 そして忌々しい事に、この力はただ未来を視るだけの力ではなかった。

「麗奈、どこにいく旅行だって」

 僕は麗奈へと向き直って、少しいらつきそうになるのを抑えながら訊ねる。
 いぶかしげに見つめる麗奈はため息と共に答えていた。

「だから、伊豆だっていってるでしょ。何で浩一は人の話をきかないのかしら」

 わざとらしくもらした息は、僕の鼻先をかすめていく。
 相変わらず整った顔をしているよな、と心の中でつぶやく。十人が見れば十人とも美人だと答えるだろう。ほっそりとして折れそうな腰つきも、その上にある確かな膨らみも、男なら触れたいと思うものかも知れない。

 だけど僕は麗奈に触れたい、抱きしめたいとは思えない。もちろん女性に興味がないからという訳ではなくて、僕にとっての麗奈は恋愛の対象外だというだけの話だ。

 麗奈は双子の妹だ。家族としてずっと一緒に暮らしてきた見飽きた顔で、それだけにそういう感情を抱くことはない。

 だけど今は麗奈の言葉をきいて、僕の胸の中は激しく揺れていた。

 このタイミングでの伊豆旅行。それはまさにいま見えた未来が確実に訪れるだろう証拠だった。海辺の景色はおそらくは伊豆の風景なのだろう。

「うるさいな。人の勝手だろ」

 見えた未来はどうやっても避ける事が出来なかった。なんど避けようとしても、どうしても訪れる。だからいらつきが隠せなかった。

 そしてただ未来が訪れるだけでなくて、その未来には必ず別れがつきまとう。

 別れの形はさまざまだ。引っ越して転校していくだけのこともあった。大げんかして友達つきあいが無くなった事もあった。
 だけど時には死という別れがふりかかることもあった。そんな別れをともなう未来が、いま僕の脳裏に浮かび上がってきた。

 私と一緒に死んでくれますかだって。冗談じゃない。死んでたまるか。死ぬなんてあり得ない。声には出さずに心の中で叫び声を漏らす。

 麗奈はため息をもらすと、それから少し早口でもういちど訊ねる。

「勝手じゃないわよ。もう。とにかく、くるの。こないの。はっきりして。どーせいつも通りこないんでしょうけど」

 麗奈はいらつきを隠せない様子で顔を背ける。だけどそれでも気になるのか、横目で僕の顔を見つめていた。
 そんな麗奈の様子にため息をもらす。こんなこと言っているけれど、こいつブラコン気味なんだよなと口の中でつぶやいていた。

 なんだかんだいっても麗奈はいつも僕の近くにきて、一緒に何かをしようとする。いくら双子の妹だとはいっても、少しまとわりつきすぎじゃないかと思う。ただ決して言葉にはしない。もしもそんな事を口にしようものなら、百倍になって返ってくるのは目に見えていたし、余計な言い合いをして体力を消耗する事になる。

「いくよ」

 僕はあえて誰へとでもないように告げていた。
 見えた未来は誰とも知れない少女との風景。もしも別れが彼女との別れなのだとすれば、一緒につきあう理由はない。今度こそ、今度こそ未来を変えてやる。強く心に誓う。

 そのまま麗奈へは目をやらずに、立ち上がって教室を後にする。もう頭の中は、さきほど見えた幻の事だけで占められていた。

 目の前の麗奈の事も、伊豆旅行の事も全て頭の片隅においやっていて、ただ未来を変えてやるんだと、その事だけを強く思う。
 未来が押しかけてくるから、むしろ自分から行ってやる。未来なんてぶちこわしてやる。強く意思を固めると、そのまますたすたと歩き始める。

 何事もなかったかのように歩き出していく僕に、麗奈は始め何が起こったのかわからずに立ち尽くしていた。しかしすぐに慌ててその背中を追いかける。

「ちょ、ちょっと。浩一、いくってどういうこと。ねぇ、何があったの、こーいち」

 麗奈は後ろから大声を張り上げながら、早足で後ろをついてくる。しかし僕は気にもとめずに、ただ帰路を歩んでいく。