血管の青さが目立つ両手首を見て、馬の糞を見たような気持ちになったのが、きっと顔に出ていた。
 頼りない手首に真っ赤な縄の跡が残っていた。

「これいてーだろ」

 持ち上げていた手を解放すると、ルイは身の置き所がないように、ダイニングテーブルに掴まったまま、室内を見回した。

「ちゃんと拭けよ」

 ルイの肩に掛けてやったままぶら下がってるタオルを指すと、困ったように首を傾げて、片手で髪を拭き始めた。いつまで経っても毛先しか拭かない。まだ全身から雫が滴り、床を濡らしている。
 別にいいんだ。濡れていようが、それで体調を崩そうが、寝台から離れなくなろうが。

 俺はルイの凹凸のない体が寝台に寝転ぶ姿を想像する。しかも裸で。

 瞬時に煩悩を振り払うように激しく頭を振った。そしてちんたら髪を拭いているルイからタオルを引ったくり、頭を掻き混ぜ、首から下を叩くように拭いた。体中の汚れと血液が雨で流れて、小奇麗になったような気がする。しかし、水滴がまだ床に落ちる。

「服、それじゃダメだな」

 俺の呟きに、ルイは「これでこれでいい」というように視線を合わせてきたが、無視を決めた。

「どうせ寝巻だし、俺のでいいよな?」

 ルイは再び首を傾けてから、不安そうな顔をして頷いた。次いでよろよろとその場に座り込む。

「何だよ、大丈夫か?」

 目の前で崩れた体を支えようと伸ばした手が、ルイの背に触れる。骨ばっていてとても女の体とは思えなかった。顔を覗き込むと、ヤギの毛ほど白かった。

「まさか風邪引いたんじゃねえだろうな?」

 慌てる俺を見上げながら、ルイは僅かに微笑んだ。初めて見る表情に目を瞠る。か細い声が耳を擽った。

「疲れた、だけ」

 目を閉じた時に見えたルイの睫毛は長かった。よく見ると整った顔立ちをしている。左目の傷さえ気にしなければ。
 俺は湿ったままの体を横にして寝室に向かい、すぐに戻った。持ってきたものを傍において、ルイの体にタオルを掛け、その中に手を入れる。
 ルイは案の定体を跳ねさせ、俺の手から逃れるように全身を捻った。

「別に何しようってんじゃねえよ。着替え手伝うだけだ」

 ルイの顔を見ないで言って、チュニックから、折れそうな腕を二本抜いた。タオルの下で、裾を首まで持ち上げ、顔を潜らせると、ぼろ雑巾のようなチュニックが姿を現した。大きくないタオルから無防備な腕と足が投げ出されている。これが豊満な体格の女ならば一夜を共にしたいくらいなのに、目の前にあるのは痣と傷だらけのミイラのような体だ。思わず目を逸らしそうになる。

 持ってきたまま床に放っていた前開きのシャツをタオルの中に入れて、片腕を通させる。体を横向きで支え、シャツの残りを背の方に滑り込ませて再び仰向けにすると、ルイは自分でもう片方の腕をシャツの袖に入れた。

「ボタン……できる?」

 ルイは震える両手を持ち上げてしげしげと眺め、首を斜めの方向に揺らした。

「いいかあ、別に。布団入るだけだし」

 ルイの体を覆っているタオルを剥すと、白いシャツの間から、同じくらいの彩度の肌が見えた。
 不整脈を起こしたくらい動揺しながらも、胸のふくらみの有無まで確認してしまった自分を褒め湛える。下着の色も。白だった。

 しかしルイに配慮し、飛びつくように隙間を合わせる。仕方なくボタンに指先を掛けた。俺が上から一つ一つボタン穴に潜らせていく様子を、ルイはまじまじと見つめていた。

「恥ずかしくねえ?」

 退屈しのぎに問う。

「普通、男にこういう恰好見られたら嫌なんじゃねえの?」

 ルイは天井を見て、表情を失くした。

「昨日も、されたから」

「ああ……」

 胸やけがするようだった。
 紅白の筋を思い出す。

 こわいだろう。自分より大きくて、強い男に乱暴されたら。恥ずかしいとか恥ずかしくないとかではない。ルイが震えているのは、疲労とか、寒さではなくて、恐だったのかもしれない。
 ボタンを閉め終えると手持無沙汰になった。何となく一緒にいることが躊躇われて、ルイを横抱きして寝台へ向かった。綿毛が地に落ちるようにそっと下ろして、薄い掛け布団を乗せると、ルイが起き上がろうとしたので、その肩を押した。

「今日は休め。別に取って食ったりしねえよ」

「あなたは、どこで、寝るの?」

 たどたどしいが、言葉が通じるのは何故だろう。唐突にそんな疑問が浮かんだが、特に気に留めず、枕の横に置いていたマッチと葉巻の束を手に取った。

「床でもどこでも寝れる。じゃ、ごゆっくり」

 ひらひらと手を振ると、ルイは視線を泳がせながら頭を縦に振った。
 夕方のくせに窓の外は真っ暗だ。雨音を聞きながらダイニングテーブルの上にある灰皿を引き寄せると、椅子に腰掛け、マッチを擦った。葉巻を咥える。煙が肺を汚して、溜息のように口から出ていく。

 柄にもなく後悔していた。

 体見られたり触られたら、誰だって気持ち悪いよなあ。
 自分と関係のある女が皆、そういうことを気にしないから、感覚がおかしくなっているのかもしれない。煙を吐く。やってしまったことがこの紫煙のようにどこかに流れて行けばいいのに。
 テーブルに額を落とすと、思いのほか大きな音がした。

『世話焼いてる子、勝手にいじめられてすごく怒ってるのに、知らないふりしてるもん』

 勝手にいじめられてすごく怒ってるのに。最近聞いた女の甘い声が蘇る。
 怒ってた、確かに。なのにさっき同じことをした、身勝手に。
 テーブルに額を打ち付ける。それで忘れられるわけでもないのに、気休めにしかならないのに。

「あの……」

 突然寝室に繋がるドアが開いて、起き上がりこぼしのように顔を上げた。
 ドアの隙間からルイが半身を出していた。

「やっぱり、私が……床で、寝ます」

 煙の向こうにいるルイは、迷子の子どもみたいな目で俺を見た。葉巻を灰皿の上で潰し、腰を上げてドアの前に立つ。ルイは一瞬肩を揺らしたが、その場に留まり、俺を見上げた。
 俺は黒い目に懺悔をするように、口を開いた。

「もうお前が嫌なこと、しねえから」

 空白が生まれる。雨音が妙に主張する。
 ルイが何度か瞬きをして、俺は瞬きも出来ずに見つめ合った。
 ルイの小さな唇が動く。

「嫌なこと、されましたか?私」

「ほら、俺、体触ったりとか」

「服を、替えてもらったこと、ですか?」

「うん」

「それは、嫌では、ないですよ」

 ドアの向こうでルイが顔をほころばせた。心臓が締め付けられて痛くてゲロ吐きそう。

「ありがとう、ございます。もう、寒くない」

 ルイはゆとりのある袖を俺に見せた。心臓は痛いのに、頭の中は猫じゃらしで擦られているようにくすぐったい。ルイの表情につられて、俺も口の端が上がった。

「今日は、布団貸すから。ちゃんと寝ろ」

 出来るだけ雨音に馴染むような声で言って、速やかにドアを閉めようとすると、ルイは弱い力で抵抗を見せて、「あの」と滑り込ませるように声を発した。

「明日も、いますか?」

「俺?」

「あなたも、……私も」

 質問の真意は分からなかったが、「おう」と答えた。ルイは目を細めて、「さよなら」と言った。

 さよなら。

 彼女は力なく手を振る。

「……ルイ。多分それ『おやすみ』だと思うぞ」

「おやすみ?」

「そう、おやすみ」

 ルイは考えるように俺の頭の上の辺りを見てから、今度は「おやすみ」と言って、壁伝いに暗い寝室へ消えていった。

 閉じたドアを背にして腰を落とした俺は、大きく息を吐いた。胸に溜まっていた靄が晴れていく。
 毎日、飽きずに同じ友達と遊んでいた子ども時代。明日も会えるという安心感。
 その懐かしい感覚を久しぶりに味わって、誰にも見せられないくらい口元が緩んでしまった。
 ああ、そういえば晩酌用の酒がないんだった。こういう時は決まって居酒屋に行くのに、今日は家に居たいと思った。

 明日、ルイから「おはよう」と言われるのだろうか。
 俺は気障にならないくらいの「おはよう」の返し方を模索し始めた。