「ヤマトって実はとっても優しいのね」
ツバメが窓の庇の下に作った巣に帰るついでに、俺の頭に糞を落としていく。それを見て、隣で花冠を作るシーナは、丸みのある頬を上げて淑やかに笑った。
城の花壇に植えられている草花を次々に引っこ抜き、丁寧に編んでいくシーナの様子を忍び見る。美しく飾られた花壇の中が禿げていく原因はこいつです、と庭を巡回する騎士たちに言いふらしたい衝動を押し殺す。
「動物たちがこんなに寄ってくるんだもの。元々人間に友好的だとは言え、ヤマトには特にそう。あなたの本質をちゃんと理解しているのね」
ぶちっ。ぶちっ。
言いながら力強くビオラを摘み取る細い指。
幼い俺には首を刈っていく殺人鬼に見えた。
「言葉ははしたないけど、昔から正義のヒーローみたいだと思っていたの」
頭上が冷たくなって、「雨かな?」と天を見上げると、白黒の液体が頬を掠めて落ちた。ツバメが羽を広げて悠々と飛ぶ。あれは確実にわざとだ。嘲笑う気配がする。
文句の一つでも言ってやろうと腰を浮かすと、横から二の腕を掴まれ、力いっぱい引っ張られた。
体が後ろに倒れ、糞だらけの芝生に背が密着する。目の前に快晴が広がっている。もうどうでもいい。
「ヤマトって本当に優しいのね」
俺を見下ろしながら人のいい笑顔を浮かべるシーナに何も返せず、俺は眩しさに目を細めた。
「聖女様、お祈りをお願いしたいのですが」
城の窓が開く音がして二人で振り返ると、くせ毛の金髪を指先で梳いた騎士が、こちらを見ていた。シーナが足首までの長さの白いチュニックを翻しながら立ち上がり、窓辺に寄る。いくつか言葉を交わした後に、騎士は姿を消し、シーナは振り返って眉尻を下げた。
「お仕事しなくちゃ。またね、ヤマト」
シーナは寝転がったままの俺を置いて、城の裏口の方へ足早に消えて行った。軽やかな足音が遠退いていく。心の底から安らぎを感じ、大きく息を吸い込んだ。
いまだにツバメが、俺を狙って糞を落としていく。顔の横に置かれたままの花冠も汚れていた。随分と豪華な冠だ。顔の上に乗せて匂いを嗅ぐと、マリーゴールドの香りとツバメの糞の生々しい匂いが混ざって、具合が悪くなりそうだった。
シーナの着ていたサテン地の、軽いチュニックの裾の隙間から見えた薄桃色の下着を思い出す。
温かい風が頬を撫でて駆けて行った。
城の地下には、罪人の処遇を決めるまで留めておく牢獄がある。
薄ら寒く、妙に足音の響く階段を降りていくと、鉄格子に囲まれた牢がいくつも続く廊下に出た。
馬の扱いが下手だった騎士が、廊下の半ばあたりにある牢の前で立ち止まる。そこを塞ぐように立つ鎧姿の騎士が会釈をすると、馬の扱いが下手な騎士が滑らかに喋り始めた。
「ロメリア様のご指示でお連れした、聖女様のご友人の方です。面会の許可は頂きました」
「承知しております。大人しくしていますが、どうか油断なさらぬよう」
鎧の騎士が鉄格子の前から退く。
唯一生き物の気配がする、ほとんど光の届かないその中を覗くと、汚れたチュニックから枝のような足を放り出して横たわる人間がいた。
長い黒髪に覆われているせいで顔は見えないが、小柄な体は子どもでなければ女性のそれだ。妙なのは、伸びている足が一本しか見当たらないこと。
思わず息を呑むと、隣で馬の扱いが下手な騎士が「これは、いなくなった聖女様の寝台に潜り込んでいた不審な生き物です」とやけにはっきりとした口調で言った。広場の隅にいる物乞いを見るような視線をその不審な生き物とやらに向け、すぐに俺の横顔を伺うように覗いた。
「聖女様の行方を聞き出そうとしても黙秘を続けているので、ヤマト様をお呼びしました。この者と意思疎通を図ることは可能でしょうか」
「いや、悪いけど、俺人間とそういうのは無理」
牢の中に声が響く。
「これは人間でしょうか?一国の聖女を攫うものに理性があるとお思いですか?」
「どうみても人間だろ、このかたち」
「あなた様の能力をもってしても状況が変わらないのならば、このものには最高刑が下ることになります。それは聖女様の行方を知るすべが無くなるということ。幼い頃からのご友人を救いたくはないのですか?」
圧力をかけるような言葉に、しばしあみだくじのような思考と、シーナとの思い出をを巡らせて、冷たい鉄格子を両手で握った。
その中で脱力していた体が、微かに身動ぎし、小さな手が拳を作るのを見た。
目を凝らしていると、それがふいに顔を上げた。
影を吸い取ったように黒い一つきりの瞳と視線が合う。
血の気のない幼い顔立ちで、鼻も口も小さい。頬がこけて、とても健康的には見えなかった。
「お前……」
思わず唇から漏れた声に、自分でも驚いた。
死にかけの幼い子どもが、確定してしまった行く末をただ一人知らないような無邪気さで、あるいは無意識に受け入れて、力のなくなる己の灯を見つめているような、そんなあべこべな純粋さを湛える表情が、無遠慮に心臓を締め付けた。
「名前は?」
その深い井戸のようなそれが俺を見ているのか、もっと奥を見ているのか、目を開いたまま時間を止めているようで気味が悪い。
「あの部屋にいた奴はどうした」
返答は無い。しかし俯いて、何かを考えるような仕草を見せた。
「お前はどこから……」
流れ出た筈の言葉は堰き止められた。
それが腕を前に出し、その力で這いながら近付いてくる。
同じく牢の様子を見ていた騎士たちが、腰から剣を抜き出した。
ず、ず、ず。
亀のような速度で前進するそれは、大人の歩幅なら二歩という距離を、何倍もの時間をかけて進んだ。
俺はそれが鉄格子に近付くにつれ、確信した。
左片足が無い。
そして左目のあった場所には、四本の太い爪跡がケロイド状に残り、顔半分の造形を朧気にしていた。
ず、ず、ず。
俺の足元まで辿り着いたそれを見下ろしながら、両隣で鉄の切っ先が不躾に光るのを、横目で確認した。
「……い」
蚊の鳴くような声が、色味のない唇から漏れた。
聞き取れずしゃがみ込むと、肉のない白い頬に擦過傷を見つけた。いや、よく見れば体のあちこち
傷がある。血が固まっているものも、そうでないものもある。
何も見なかったことにして、耳を澄ます。
「る、い」
「るい?」
それは囁いて、俺の復唱に頷いた。
「名前?」
再び頭を縦に振る。
ルイ。言葉の通じることに驚くと共に、情報を引き出せたことに心臓が早鐘を打った。
「……いいよ」
ルイが再び口を開く。
耳を近付けると、ルイはその高さに合わせるように、うつ伏せのまま上体を持ち上げた。
「ころして、いいよ」
鈴虫の鳴き声よりもささやかで、しかし同じような涼やかさを持った声が発した言葉が、胸の中を深く抉っていった。
俺よりも五、六歳は若く見えるルイが、歳不相応に不幸せな状況にいる中でそういったことを言うのは、あまりに理にかなっている。完成したパズルの全貌が予想と大幅に違っていた時のように、顔を顰めた。
「ころしていいよ」
繰り返す声が耳障りで、共感を得ようと騎士たちの様子を見上げると、腰を落としたまま剣を構え、表情を固めていた。何をどう思っているのか。人間の感情は動物よりもずっと難しい。
「ころしてい……」
「うるせえな、分かったよ」
俺の上げた声が牢獄内に響くと、ルイは一瞬肩を揺らして、すぐに口を噤んだ。
「ていうかその目と足、どうしたんだ」
俺の問いに、ルイは壁を作るように目を伏せた。
「それ、クマだろ。何で襲われた?」
俺の声だけが反響する。
「動物は故意に人間を傷付けない。何しでかしてそうなったんだお前」
壁につけてあるランプの炎が揺れていた。ルイの影は動かない。もうだんまりをきめこんでしまったことを確信すると、立ち上がり、馬の扱いが下手な騎士に「今日はもう無理だな」と首を横に振って見せた。騎士が剣を鞘に戻し、俺を階段の方へ促す。
踏み出す前に、牢の中を見た。
「ルイ。名前、教えてくれてありがとな」
ルイは下に向けていた顔をゆっくりと上げた。手入れされていないような長い髪が床に落ちる。
「戻りましょう」
馬の扱いが下手な騎士が待っているので、急いで歩を進めた。足音とともに生き物の気配が遠ざかる。
俺には人間の心のうちなんて分からない。
しかしルイの言葉には、何の飾りも偽りもないことは分かった。
最悪な役割を仰せつかってしまったこともまた、俺は漸く理解した。
ツバメが窓の庇の下に作った巣に帰るついでに、俺の頭に糞を落としていく。それを見て、隣で花冠を作るシーナは、丸みのある頬を上げて淑やかに笑った。
城の花壇に植えられている草花を次々に引っこ抜き、丁寧に編んでいくシーナの様子を忍び見る。美しく飾られた花壇の中が禿げていく原因はこいつです、と庭を巡回する騎士たちに言いふらしたい衝動を押し殺す。
「動物たちがこんなに寄ってくるんだもの。元々人間に友好的だとは言え、ヤマトには特にそう。あなたの本質をちゃんと理解しているのね」
ぶちっ。ぶちっ。
言いながら力強くビオラを摘み取る細い指。
幼い俺には首を刈っていく殺人鬼に見えた。
「言葉ははしたないけど、昔から正義のヒーローみたいだと思っていたの」
頭上が冷たくなって、「雨かな?」と天を見上げると、白黒の液体が頬を掠めて落ちた。ツバメが羽を広げて悠々と飛ぶ。あれは確実にわざとだ。嘲笑う気配がする。
文句の一つでも言ってやろうと腰を浮かすと、横から二の腕を掴まれ、力いっぱい引っ張られた。
体が後ろに倒れ、糞だらけの芝生に背が密着する。目の前に快晴が広がっている。もうどうでもいい。
「ヤマトって本当に優しいのね」
俺を見下ろしながら人のいい笑顔を浮かべるシーナに何も返せず、俺は眩しさに目を細めた。
「聖女様、お祈りをお願いしたいのですが」
城の窓が開く音がして二人で振り返ると、くせ毛の金髪を指先で梳いた騎士が、こちらを見ていた。シーナが足首までの長さの白いチュニックを翻しながら立ち上がり、窓辺に寄る。いくつか言葉を交わした後に、騎士は姿を消し、シーナは振り返って眉尻を下げた。
「お仕事しなくちゃ。またね、ヤマト」
シーナは寝転がったままの俺を置いて、城の裏口の方へ足早に消えて行った。軽やかな足音が遠退いていく。心の底から安らぎを感じ、大きく息を吸い込んだ。
いまだにツバメが、俺を狙って糞を落としていく。顔の横に置かれたままの花冠も汚れていた。随分と豪華な冠だ。顔の上に乗せて匂いを嗅ぐと、マリーゴールドの香りとツバメの糞の生々しい匂いが混ざって、具合が悪くなりそうだった。
シーナの着ていたサテン地の、軽いチュニックの裾の隙間から見えた薄桃色の下着を思い出す。
温かい風が頬を撫でて駆けて行った。
城の地下には、罪人の処遇を決めるまで留めておく牢獄がある。
薄ら寒く、妙に足音の響く階段を降りていくと、鉄格子に囲まれた牢がいくつも続く廊下に出た。
馬の扱いが下手だった騎士が、廊下の半ばあたりにある牢の前で立ち止まる。そこを塞ぐように立つ鎧姿の騎士が会釈をすると、馬の扱いが下手な騎士が滑らかに喋り始めた。
「ロメリア様のご指示でお連れした、聖女様のご友人の方です。面会の許可は頂きました」
「承知しております。大人しくしていますが、どうか油断なさらぬよう」
鎧の騎士が鉄格子の前から退く。
唯一生き物の気配がする、ほとんど光の届かないその中を覗くと、汚れたチュニックから枝のような足を放り出して横たわる人間がいた。
長い黒髪に覆われているせいで顔は見えないが、小柄な体は子どもでなければ女性のそれだ。妙なのは、伸びている足が一本しか見当たらないこと。
思わず息を呑むと、隣で馬の扱いが下手な騎士が「これは、いなくなった聖女様の寝台に潜り込んでいた不審な生き物です」とやけにはっきりとした口調で言った。広場の隅にいる物乞いを見るような視線をその不審な生き物とやらに向け、すぐに俺の横顔を伺うように覗いた。
「聖女様の行方を聞き出そうとしても黙秘を続けているので、ヤマト様をお呼びしました。この者と意思疎通を図ることは可能でしょうか」
「いや、悪いけど、俺人間とそういうのは無理」
牢の中に声が響く。
「これは人間でしょうか?一国の聖女を攫うものに理性があるとお思いですか?」
「どうみても人間だろ、このかたち」
「あなた様の能力をもってしても状況が変わらないのならば、このものには最高刑が下ることになります。それは聖女様の行方を知るすべが無くなるということ。幼い頃からのご友人を救いたくはないのですか?」
圧力をかけるような言葉に、しばしあみだくじのような思考と、シーナとの思い出をを巡らせて、冷たい鉄格子を両手で握った。
その中で脱力していた体が、微かに身動ぎし、小さな手が拳を作るのを見た。
目を凝らしていると、それがふいに顔を上げた。
影を吸い取ったように黒い一つきりの瞳と視線が合う。
血の気のない幼い顔立ちで、鼻も口も小さい。頬がこけて、とても健康的には見えなかった。
「お前……」
思わず唇から漏れた声に、自分でも驚いた。
死にかけの幼い子どもが、確定してしまった行く末をただ一人知らないような無邪気さで、あるいは無意識に受け入れて、力のなくなる己の灯を見つめているような、そんなあべこべな純粋さを湛える表情が、無遠慮に心臓を締め付けた。
「名前は?」
その深い井戸のようなそれが俺を見ているのか、もっと奥を見ているのか、目を開いたまま時間を止めているようで気味が悪い。
「あの部屋にいた奴はどうした」
返答は無い。しかし俯いて、何かを考えるような仕草を見せた。
「お前はどこから……」
流れ出た筈の言葉は堰き止められた。
それが腕を前に出し、その力で這いながら近付いてくる。
同じく牢の様子を見ていた騎士たちが、腰から剣を抜き出した。
ず、ず、ず。
亀のような速度で前進するそれは、大人の歩幅なら二歩という距離を、何倍もの時間をかけて進んだ。
俺はそれが鉄格子に近付くにつれ、確信した。
左片足が無い。
そして左目のあった場所には、四本の太い爪跡がケロイド状に残り、顔半分の造形を朧気にしていた。
ず、ず、ず。
俺の足元まで辿り着いたそれを見下ろしながら、両隣で鉄の切っ先が不躾に光るのを、横目で確認した。
「……い」
蚊の鳴くような声が、色味のない唇から漏れた。
聞き取れずしゃがみ込むと、肉のない白い頬に擦過傷を見つけた。いや、よく見れば体のあちこち
傷がある。血が固まっているものも、そうでないものもある。
何も見なかったことにして、耳を澄ます。
「る、い」
「るい?」
それは囁いて、俺の復唱に頷いた。
「名前?」
再び頭を縦に振る。
ルイ。言葉の通じることに驚くと共に、情報を引き出せたことに心臓が早鐘を打った。
「……いいよ」
ルイが再び口を開く。
耳を近付けると、ルイはその高さに合わせるように、うつ伏せのまま上体を持ち上げた。
「ころして、いいよ」
鈴虫の鳴き声よりもささやかで、しかし同じような涼やかさを持った声が発した言葉が、胸の中を深く抉っていった。
俺よりも五、六歳は若く見えるルイが、歳不相応に不幸せな状況にいる中でそういったことを言うのは、あまりに理にかなっている。完成したパズルの全貌が予想と大幅に違っていた時のように、顔を顰めた。
「ころしていいよ」
繰り返す声が耳障りで、共感を得ようと騎士たちの様子を見上げると、腰を落としたまま剣を構え、表情を固めていた。何をどう思っているのか。人間の感情は動物よりもずっと難しい。
「ころしてい……」
「うるせえな、分かったよ」
俺の上げた声が牢獄内に響くと、ルイは一瞬肩を揺らして、すぐに口を噤んだ。
「ていうかその目と足、どうしたんだ」
俺の問いに、ルイは壁を作るように目を伏せた。
「それ、クマだろ。何で襲われた?」
俺の声だけが反響する。
「動物は故意に人間を傷付けない。何しでかしてそうなったんだお前」
壁につけてあるランプの炎が揺れていた。ルイの影は動かない。もうだんまりをきめこんでしまったことを確信すると、立ち上がり、馬の扱いが下手な騎士に「今日はもう無理だな」と首を横に振って見せた。騎士が剣を鞘に戻し、俺を階段の方へ促す。
踏み出す前に、牢の中を見た。
「ルイ。名前、教えてくれてありがとな」
ルイは下に向けていた顔をゆっくりと上げた。手入れされていないような長い髪が床に落ちる。
「戻りましょう」
馬の扱いが下手な騎士が待っているので、急いで歩を進めた。足音とともに生き物の気配が遠ざかる。
俺には人間の心のうちなんて分からない。
しかしルイの言葉には、何の飾りも偽りもないことは分かった。
最悪な役割を仰せつかってしまったこともまた、俺は漸く理解した。