鳩もカラスも雀も、街中で囀り合っていた鳥たちが、口裏を合わせたように一斉に羽ばたく。
その羽音で目を覚ました俺は、ベッドに糊付けされていた身を離し、寝室の窓を開けた。涼しい風が、布団の中で温められた体を少しずつ冷していく。レンガで舗装された道を挟んだ向かいでは、調剤師のばあさんが俺を見つけて「おーい」と片手を上げた。深く被った黒い頭巾のせいで、目元に影が出来ていた。
応える前に、絵本の中の魔女を引き摺り出したようなばあさんは続けた。
「あんたの女、攫われたようだよ」
道路を挟んだ距離でも、皺の刻まれた口の端を片持ち上げたのが見えた。
ばあさんは呆けたように反応の悪い俺から視線を外し、店先に立っている大樽の蓋を開けた。中に手を入れ、紙袋を探り出しては口を開いて眺め、また違うものを取り出す。まるで魔術に使う子ネズミやトカゲを吟味する悪者の姿と似ている。ばあさんがそうしているうちに聞かなかったふりをして窓を閉めようとも考えたのだが、『あんたの女』という言葉が妙に引っかかった。昨晩は誰も部屋には呼んでいないし、その前もその前も、いやここ最近関わった女なんて数えるほどしかいない。一体誰だ。
言われた言葉をどう分解しても、自分に関係があるとは思えず、返答に困って毛先がはねてばかりの後頭部を掻いた。
近くでカラスが低い声で鳴いた。
樽の中から、いくつかの袋を腕の中に移したばあさんは行儀悪く舌打ちをして眉根を顰めた。
「あんたも勘が悪いねえ。ほら、聖女様だよ。朝になったら居なかったんだってさ」
「聖女、シーナか?」
漸く思い当る言葉が出てきて目を瞠る。ばあさんの指先が袋から伸びる青々とした細い葉先を摘まみ取った。
「そうそう、シーナ。あんたの女なんだろう?早くから城の外で騎士団が探し回っていた。うるさくて敵わないよ」
ばあさんがしわしわの指先を舐めると、捕らわれていた僅かな緑色は口内に含まれていった。味を確かめるように両頬を交互に動かす。その様子を見ていると、剥き出しの上半身に鳥肌が立った。
「ぼけてんのか、ばあさん。城の騎士団の目を掻い潜って誘拐出来る奴なんていねえよ」
「ああ、この国の腑抜け共には無理だろうな」
「じゃあ隣の村の奴だってのか」
窓から乗り出すと、ばあさんは勢いよく唾を吐き出した。赤いレンガの上に唾液に塗れた葉が引っ付く。それを色とりどりの農作物を乗せた荷車のタイヤが轢いて行った。
すかさず教会の尖った屋根の先端を見る。柔らかそうな雲。突いたら波紋が広がりそうな空も。
ばあさんは計画通りに子どもを攫って喜ぶように不敵に笑う。
「いいや、違うね。あたしの予想だと……、おっと。ほら、あんたに客人だ。きたねえチンポくらいは隠しておきな」
「は?誰のがきたねえって?ていうか下は履いてんだよクソババア」
思わず窓枠に素足を上げると、近付いてきていた馬の足音が目の前で止まり、栗毛色の二匹の馬と、騎乗していた騎士が俺を見下ろした。一人の騎士が馬から降りて、俺の姿を上から下まで舐めるように見る。紺色を基調とした軍服の胸に刺繍された雄ライオンの紋章は、間違いなく王家直属の騎士団のものだ。眉根に皺を刻んだ、俺とそう歳の変わらなそうな騎士の腰を見る。ベルトからは真新しそうな鞘がぶら下がっていた。
「聖女シーナ様のご友人、ヤマト様ですね」
騎士が一つも瞬きをせずに俺の顔に視線を固定した。対峙してみると、身長も同じくらいだ。彼の背後で馬が低くいなないた。
「今朝方よりシーナ様の姿が見えません。もし居場所に心当たりがあればお教え頂きたい」
「悪いけど知らねえ。心当たりもない」
「そうですか、残念です」
では、と生真面目そうな彼は硬い声で続ける。行儀よくしていた馬の後ろで、調剤師のばあさんが手を振って店に戻って行ったのが見えた。逃げたなクソババアめ。
「あなたに動物との交渉役を請け負って頂きたい。彼らとの意思疎通能力が高いことは、噂で聞いております」
上半身裸の俺を相手にしている彼が、仕事の依頼していると思い当るのに少しだけ時間が必要だった。
いなくなった友人シーナ。動物。交渉。
ばあさんもこの騎士も朝から頭を使わせる。寝起きも相まっていよいよ苛々してきた俺は、見せつけるように重みのある溜息をついた。
「俺、そんなに有能じゃねえけど」
「ご謙遜を。我が軍が誇る知将ロメリア様のご任命です。どうか城へご同行頂けませんか。謝礼の件も含め、詳細をお話をさせて頂きます」
「謝礼……、これから城に行くってのか?」
「はい。ただ、流石にその恰好では困ります」
俺は雷が鳴ったら攫われそうな臍を見下ろした。
そして真上に向かって順調に上る太陽を確認して、そそくさと室内に足を向け、タンスから胸元をボタンで止めるだけの白いシャツを取り出して纏った。玄関扉から表へ出ると、馬が出迎えるように尻尾を揺らして一塊の糞を落とした。
広くない道の真ん中に留まる馬二頭を邪魔くさそうに避けながら歩く買い物客は、皆顔を赤くして汗を垂らしていた。ついでに鼻をつまんで。
「これで文句ねえんだろ?」
両手を広げて騎士へ見せつける。彼は僅かに頷いて、「参りましょう」と馬の腹をそっと撫でた。
脱糞野郎には後々きっちり言い聞かせなければと考えながら、渋々そいつの背に跨った。
その羽音で目を覚ました俺は、ベッドに糊付けされていた身を離し、寝室の窓を開けた。涼しい風が、布団の中で温められた体を少しずつ冷していく。レンガで舗装された道を挟んだ向かいでは、調剤師のばあさんが俺を見つけて「おーい」と片手を上げた。深く被った黒い頭巾のせいで、目元に影が出来ていた。
応える前に、絵本の中の魔女を引き摺り出したようなばあさんは続けた。
「あんたの女、攫われたようだよ」
道路を挟んだ距離でも、皺の刻まれた口の端を片持ち上げたのが見えた。
ばあさんは呆けたように反応の悪い俺から視線を外し、店先に立っている大樽の蓋を開けた。中に手を入れ、紙袋を探り出しては口を開いて眺め、また違うものを取り出す。まるで魔術に使う子ネズミやトカゲを吟味する悪者の姿と似ている。ばあさんがそうしているうちに聞かなかったふりをして窓を閉めようとも考えたのだが、『あんたの女』という言葉が妙に引っかかった。昨晩は誰も部屋には呼んでいないし、その前もその前も、いやここ最近関わった女なんて数えるほどしかいない。一体誰だ。
言われた言葉をどう分解しても、自分に関係があるとは思えず、返答に困って毛先がはねてばかりの後頭部を掻いた。
近くでカラスが低い声で鳴いた。
樽の中から、いくつかの袋を腕の中に移したばあさんは行儀悪く舌打ちをして眉根を顰めた。
「あんたも勘が悪いねえ。ほら、聖女様だよ。朝になったら居なかったんだってさ」
「聖女、シーナか?」
漸く思い当る言葉が出てきて目を瞠る。ばあさんの指先が袋から伸びる青々とした細い葉先を摘まみ取った。
「そうそう、シーナ。あんたの女なんだろう?早くから城の外で騎士団が探し回っていた。うるさくて敵わないよ」
ばあさんがしわしわの指先を舐めると、捕らわれていた僅かな緑色は口内に含まれていった。味を確かめるように両頬を交互に動かす。その様子を見ていると、剥き出しの上半身に鳥肌が立った。
「ぼけてんのか、ばあさん。城の騎士団の目を掻い潜って誘拐出来る奴なんていねえよ」
「ああ、この国の腑抜け共には無理だろうな」
「じゃあ隣の村の奴だってのか」
窓から乗り出すと、ばあさんは勢いよく唾を吐き出した。赤いレンガの上に唾液に塗れた葉が引っ付く。それを色とりどりの農作物を乗せた荷車のタイヤが轢いて行った。
すかさず教会の尖った屋根の先端を見る。柔らかそうな雲。突いたら波紋が広がりそうな空も。
ばあさんは計画通りに子どもを攫って喜ぶように不敵に笑う。
「いいや、違うね。あたしの予想だと……、おっと。ほら、あんたに客人だ。きたねえチンポくらいは隠しておきな」
「は?誰のがきたねえって?ていうか下は履いてんだよクソババア」
思わず窓枠に素足を上げると、近付いてきていた馬の足音が目の前で止まり、栗毛色の二匹の馬と、騎乗していた騎士が俺を見下ろした。一人の騎士が馬から降りて、俺の姿を上から下まで舐めるように見る。紺色を基調とした軍服の胸に刺繍された雄ライオンの紋章は、間違いなく王家直属の騎士団のものだ。眉根に皺を刻んだ、俺とそう歳の変わらなそうな騎士の腰を見る。ベルトからは真新しそうな鞘がぶら下がっていた。
「聖女シーナ様のご友人、ヤマト様ですね」
騎士が一つも瞬きをせずに俺の顔に視線を固定した。対峙してみると、身長も同じくらいだ。彼の背後で馬が低くいなないた。
「今朝方よりシーナ様の姿が見えません。もし居場所に心当たりがあればお教え頂きたい」
「悪いけど知らねえ。心当たりもない」
「そうですか、残念です」
では、と生真面目そうな彼は硬い声で続ける。行儀よくしていた馬の後ろで、調剤師のばあさんが手を振って店に戻って行ったのが見えた。逃げたなクソババアめ。
「あなたに動物との交渉役を請け負って頂きたい。彼らとの意思疎通能力が高いことは、噂で聞いております」
上半身裸の俺を相手にしている彼が、仕事の依頼していると思い当るのに少しだけ時間が必要だった。
いなくなった友人シーナ。動物。交渉。
ばあさんもこの騎士も朝から頭を使わせる。寝起きも相まっていよいよ苛々してきた俺は、見せつけるように重みのある溜息をついた。
「俺、そんなに有能じゃねえけど」
「ご謙遜を。我が軍が誇る知将ロメリア様のご任命です。どうか城へご同行頂けませんか。謝礼の件も含め、詳細をお話をさせて頂きます」
「謝礼……、これから城に行くってのか?」
「はい。ただ、流石にその恰好では困ります」
俺は雷が鳴ったら攫われそうな臍を見下ろした。
そして真上に向かって順調に上る太陽を確認して、そそくさと室内に足を向け、タンスから胸元をボタンで止めるだけの白いシャツを取り出して纏った。玄関扉から表へ出ると、馬が出迎えるように尻尾を揺らして一塊の糞を落とした。
広くない道の真ん中に留まる馬二頭を邪魔くさそうに避けながら歩く買い物客は、皆顔を赤くして汗を垂らしていた。ついでに鼻をつまんで。
「これで文句ねえんだろ?」
両手を広げて騎士へ見せつける。彼は僅かに頷いて、「参りましょう」と馬の腹をそっと撫でた。
脱糞野郎には後々きっちり言い聞かせなければと考えながら、渋々そいつの背に跨った。