追想曼殊沙華秘抄 —遥けき花の庭に結ぶ―

 辿り着いた先は古ぼけた蔵だった。そこが迩千花の住まいである。
 埃っぽいかびた臭いのする蔵は薄暗く差し込む陽の光は僅かばかり。
 けれども、それが迩千花はありがたいとすら思う。
 光はこの身には眩しすぎる。みじめな我が身を照らす日の光は些か厭わしく感じる事すらある。

 濡れた着物は辛うじて差し込む陽の光に当てる。明日までに乾いてくれると良いと願いながら。
 着替えた着物は人前には到底出られぬ程に擦り切れ色褪せた襤褸であるが、それでも濡れ鼠のままでいなくていいだけありがたい。
 あまり褒められた姿ではないが、誰が訪れるわけでもない場所である。替えに余裕が有る訳ではないのだから。

 干している通学用の着物と今纏っているもの。薄い布団に乏しい灯り、最低限の品物。それが迩千花の生活を支える全てだった。
 着替えたものの、さてどうするかと思案する。無聊を慰めるものとてないこの場所にいるよりは、迩千花にとって唯一の友である『彼女』の元にて語らいたい。
 けれども、このまま外を歩く訳にはいかないし、濡れ髪のままではまた心配されるかもしれない。もう少ししてからにしようか。

 ああ、それよりももう食べる物がないから、もう一度台所に行って仕事を手伝わせて下さいと頭を下げなければ。
 迩千花には家族のように食事が供される事はない。
 食事が欲しければ下女中達のきつい作業の手伝い……という名の肩代わりをして、何とか残り物を貰ってきて、それで数日凌ぐのが何時もだった。
 食べる物も着るものも、使用人達に嘲笑われながら床に額をこすりつけ、顎で使われて漸く手に入れる事が出来る。それが迩千花の日々の暮らしである。

 そこで、迩千花は深い溜息をひとつ。
 三年前までは、こうではなかったと聞く。
 玖珂家は代々強き異能を持つ者を排出してきた異能者の家系である。大いなる真神を祀り、力を振るう。
 その威容は不思議に生きる者達の世界に轟く程であり、古くから影より国政にすら関与してきたという。
 強き異能は女に受け継がれる為、玖珂家は女系の一族である。
 表向きの当主には直系長男が就くが、祭祀などを執り行う真の当主には直系長女が就く。
 それに倣い先の当主は伯父であったが、迩千花の母が父を夫に迎えるに至り分家である見瀬に婿に出された。
 現在の表の当主は迩千花の父である。故に、現在の玖珂と見瀬の確執が生じたというが、迩千花は何も分からない。
 迩千花はその玖珂家の直系長女である。本来であれば現在その座にある母の跡を継ぐものとして尊ばれ暮らす筈の身であった。
 かつては、間違いなくその座に相応しい扱いをされ、不足なく与えられ、不自由など何もない暮らしをしていたらしい。

 何故今この境遇にあるのか。それは三年前に起きたある出来事が切欠だという。
 そしてそれ故に、今この身体には一かけらの不思議も備わっていない。
 今の迩千花は異能を持たない。それが何故かはわからない。何が起きたのかも、それまでの自分も、何も――。
 でもそれでいいと迩千花は思う。か細い現在を繋ぐだけで精一杯である。
 過ぎた時は戻らない、そして取り戻せないものに価値を見出すだけ虚しい。今の迩千花には何もないのだから、受け入れ諦めるだけ。
 物思いに沈みかけた迩千花を、扉の外からかけられた控えめな声が現に引き戻した。

「迩千花、帰っていたか」
「お兄様……?」

 迩千花は軽く目を瞬く。思いもよらぬ人の声であったからだ。
 声の主は迩千花が応えたのを聞くと、鈍い音を響かせながら扉を開き、顔を覗かせた。
 眼鏡をかけた整った理知的な雰囲気を漂わせる整った顔立ちの青年である。温和な性質であるのが向ける視線から感じられる。
 それは、間違いなく迩千花の兄である(きずく)だった。
 築は迩千花の髪が濡れていることや纏う着物、乾かしてある着物を目にすると軽く顔を顰める。迩千花は見られたくないところを見られたと顔を背けた。
 それに気付かぬ振りをして、また恥ずかしい心のうちを押し隠して、迩千花は敢えて感情を感じさせぬ声音で問いかける。

「お兄様、戻っていらしたの?」
「ああ、母上と父上に呼ばれた」

 築は現在玖珂家の屋敷で暮らしていない。
 見瀬家の長女である真結の近侍として特別に取り立てられて、見瀬の屋敷に住まう身である。
 出来損ないになった挙句に可愛げまでなくした妹に愛想を尽かしたと嘲笑っている者もあるらしいが、実際の理由は他にある。
 あながち間違っていないかもしれないけれど、と心の裡にて皮肉に呟く迩千花に気づかず、築は続ける

「なんでも、大事な話があるので戻るようにと言われ先程。迩千花を連れてくるようにと言われた」

 両親が呼んでいると聞いて、迩千花は顔を顰めかけた。
 日頃、顔を見せただけで嫌悪に顔をしかめて去れと追い払われるというのに、わざわざ呼びつけるとは何の用事だろうか。
 母の機嫌がまた良くないのだろうか、それで憂さ晴らしが必要というのだろうか。
 けれど、それなら敢えて築を呼び戻すというのも可笑しな話で……見瀬とまた何かあったのかもしれないが。
 ひとつ溜息をつくと、迩千花は口を開いた。

「それで帰宅して早々、見たくもない顔を見る為にこんなところに足を運ぶ羽目になったのですね」
 迩千花の声には、皮肉げでどこか突き放すような響きがあった。その表情には何の感情の色もない。情も親しみも慕わしさも、全て押し隠して。

 妹の言葉に一瞬顔哀し気に築が顔を歪めたけれどそれにも気付かぬ振りをして。
 築が何か言いかけたのを遮り、可愛げがないと称されてもおかしくない素っ気ない様子で兄に向き直り告げる。
 触れるなという棘を纏いながら、他人のような他所他所しさで。

「ならば参りましょう、お兄様」