追想曼殊沙華秘抄 —遥けき花の庭に結ぶ―

 やがて花の季節は終り、紅葉の時期が過ぎ、白き雪の季節が巡る。

 火鉢の墨が小さく爆ぜる音がする中、寿々弥はその日床についていた。
 枕辺には織黒と久黎が居る。二人は言葉のないまま悲痛な面持ちで伏す長を見つめている。
 それに気付いて薄く目を開いた寿々弥は、申し訳なさげにわらった。

 寿々弥は先だって、災いを祓う為の大きな儀を行った。儀式は成功したものの、力を使いすぎた寿々弥は倒れ、伏せる事となってしまった。
 二人は止めたのだ。祭神の力を借りたとしても、あまりに寿々弥の身体に負担が大きすぎる儀だったから。
 しかし、寿々弥は意思を曲げなかった。それが自分の務めであると。

 寿々弥は一族の為に己を酷使し続けた。
 この世ならざる脅威に怯える人々を守る為。そして一族をより強く結束させる為。
 己を長と仰ぐ者達の為、持てる力以上を費やし、尽くし続けてきた。
 だというのに、人々の称賛も栄誉も表舞台に立つ事の多い妹がさらっていくのだ。
 寿々弥のものであるべきはずの功績は、何時の間にか高慢に笑う女のものとして語られている。
 おかげで、異能の力は強くとも長としては……と陰口を叩く者達まで出る始末である。
 二柱の真神がそれに異を唱え、抗議しようとしても寿々弥が止めた。
 私は目立つのは好きでは無いからと。あの子はその分頑張っているから、責めないで欲しいと。
 妹が姉を疎ましく思い、風下に立つ事を快く思っていない事はきっと寿々弥も気付いていただろう。
 悪意を以て貶められている事に、聡い彼女が気付かないはずがない。
 けれども、寿々弥は全てを飲み込み微笑むのだ。
 何も言ってくれるなと言葉に依らず訴える愛しい女の哀しい微笑に、織黒も久黎も唇を噛みしめるより無かった。

 二柱の真神は、寿々弥を愛していた。
 それは始め、家族に向ける情のようでもあり、友に向けるものにも似ていた。
 しかし、時を重ねるごとに想いは募り形を変え、何時しか織黒も久黎も確かに寿々弥を一人の女性として愛していた。
 愛するが故に、寿々弥が自ら擦り減っていくのが辛くてならない。
 久黎はある時、寿々弥に想いを告げた。長を誰かに引き継いで、一人の女に戻り共に生きて欲しいと。
 けれども、それを受け入れる事はできぬと寿々弥は表情を曇らせた。
 自分は一族の為にある存在。誰かのものになるわけにはいかない。長として後継を為さねばならない以上、伴侶を定めるのは自分の意思ではないと。
 寿々弥にとって一族以上の存在になり得ない哀しみを押し隠し、久黎は沈黙した。断ち切れぬ想いを抱えながら、変わらず祭神としてあり続けた。
 しかし、久黎は気付いていた。
 寿々弥が時折切ない眼差しで見つめる先に、弟の姿がある事を。そして、弟もまた彼女を見つめている事を……。
 けれども、織黒が想いを告げる事はない。寿々弥が長である事の責務を投げ出す事が出来ないと知っているから、己の心を抑え、共にある。
 お互いを想う故に言葉とせず寄り添う二人の姿が、白き真神の心にひどく苦く映った。
 それは、何時しか薄様に一滴落ちた墨のように久黎の心の裡に拡がり行き、生じた『何か』は密やかに育ちつつあった。



 その日は、殊更に寒さの堪える日だった。
 外は激しい雪で彼方を見通す事は叶わぬ程。今暫くすれば春という頃合いの予期せぬ嵐に人々は震えていた。

「このままでは、寿々弥はもたない……」

 久黎が悲痛な面持ちで呟いた時、寿々弥はその月に入って三度目の昏倒により床に就いていた。
 顔からは血の気は消え失せ、伏せた目が開かれる事はない。余程深く眠っているのだろう。
 二人とも、倒れる度に弱くなる寿々弥の命の灯火に気付いていた。
 恐らく、それがそう遠くないうちに消え去ってしまうかもしれないことにも……。
 一族のものたちも沈みかけた船には用はないとばかりに、寿々弥の妹に有力者の婿を迎え後継を為させるように水面下で動き始めている。
 けれど、寿々弥はそれを知っても長としての責を全うしようとする。
 織黒と久黎が力を分け与え、少しでも負担が少ないように心を砕いたとしても限界はある。
 このままでは、何れ寿々弥の命は間違いなく限界を迎えてしまう。
 長く満ちる沈黙を破ったのは、久黎の低い呟きだった。

「新しい…‥健康で、長き命を得て耐えられる器を与えてやりたい」

 彼らは力ある者。眷属に迎える事で長き命を与える事は出来る。
 しかし今のままでは元の器があまりに脆弱すぎる。それでは人ならざる命となったとて、左程長くは生きられない。
 だからこそ、耐えうる新しき身体をと呟きかけた久黎を、織黒の言葉が遮った。

「……寿々弥は恐らくそれを望むまい」

 織黒の表情には苦渋の色が濃い。唇を噛みしめながら目を伏せる。
 寿々弥を人の子から彼らに近しい存在へと迎え入れる事。
 それは、再三彼らが申し出てきた事だった。人の子の命を捨て、彼らの眷属として生きるようにと。
 しかし、寿々弥はその度に哀しげに笑い首を左右に振った。自分は人として生まれた以上、人としての生命を全うすると。

「……俺は最期の時まで傍に居る。そして……来世を望む」

 このまま寿々弥が逝くのを見送る事。それを織黒とて辛く耐え難いと思っている事は久黎にも分かっていた。
 しかし。

「輪廻の浄化を経てしまえば、記憶も失われ、寿々弥ではなくなってしまうのにか!?」

 床を叩く激しい音がその場の空気を切り裂いた。
 久黎が拳で床板を打ったのだ。破砕の音と共に、怒りと苛立ちに満ちた久黎の叫び声が響く。
 未だかつて見せた事のない程の激情を平素温和である兄が見せた事に、織黒は驚愕し、凝視してしまう。
 ああ、分かっていると久黎は裡に呟いた。この弟もまた同じように葛藤に苦しんでいる。
 祭神と尊ばれようと、打つ手のない自分に対する無力感に苛まれているのは同じなのだ。
 人の子は輪廻の輪を巡るにあたり先の世の記憶は浄化の炎にさらされ失われる。再び生を得たとしても、それを取り戻せるとは限らない。
 織黒はそれでも待ち続けると言うのだろう。例え記憶が戻らずとも、寿々弥が再び生を受けたなら、それを見守る事を選ぶと。

 けれど、けれども……。
 寿々弥は消えてしまう。
 彼の愛したものが、消えてしまう。
 いや。
 彼の愛する女は、元から彼のものにはならない。
 それは――。

 久黎は無言のまま立ち上がり織黒を一瞥すると、そのままその場から姿を消した。

 ――白き真神の内に生じた『何か』は、今やその形を確かなものに変えて彼の裡を満たしつつあった。