追想曼殊沙華秘抄 —遥けき花の庭に結ぶ―

 屋敷の門の前にて、迩千花は思わず息を飲んだ。

 今朝、この門を出た時にはこんな事になるとは夢にも思わなかった。
 織黒との外出に自分は浮かれていたのだろうか。だから、異変の先触れにも気付けなくて……。
 今、玖珂の屋敷は物々しく凍てついた空気と、見瀬の施した護りによる特異な術の気配に満ちている。
 気を抜くと身体が震えてしまいそうになる。必死にそれを抑えて唇を引き結ぶ。
 自分の選択は本当に正しかったのだろうかと不安になる。
 今まで何か自分で決める事などしてこなかったのに、このような重大な決定をして。
 人の命を左右する選択をするのが、自分であって良かったのか。今更と思っても不安は尽きる事なく湧いてくる。
 ふと、手に温かな感触を感じた。
 隣に立つ織黒が迩千花の手に触れ、そっと握ったのだ。
 確かな温もりが伝えてくる。迩千花が一人では無い事。一人で背負いこむな、俺がいるという織黒の想いを。
 その瞬間、不思議な程に心が落ち着いた。そして、ひとつ深呼吸すると一歩進み出て開門を求める声を上げる。 
 迩千花の声に応じるように重々しい音と共に扉が開かれ、姿を見せた見瀬の者により中へと誘われる。
 迩千花は一度織黒の方を見た。見つめ返す黒の真神の眼差しは力強く、優しい。
 ひとつ頷いて歩き出す。
 もう後戻りはできない――。


 屋敷の中は、荒事があったとは思えぬ程に損傷もなく変わりない様子だった。
 時折それらしい傷痕があるものの起きた出来事の規模を考えればあまりに軽微。
 本当に瞬く間の、一方的な制圧だったのだなと迩千花は心の中で苦く呟いた。

 屋敷の者達も皆が皆拘束されているわけではなく、力を持たぬ者達は監視されているだけのようだ。
 迩千花の姿を見て僅かに喜色が滲むけれど、見張りが居ては声に出す事も近づく事も出来ない。
 僅かに微笑んで少しでも安心させようとすると、彼ら彼女らの表情に安堵の色が見える。

 案内してきた男が、奥から歩んできた人影に軽く頭を下げると一歩控え、迩千花はそちらに視線を向ける。
 現れた人間は、見瀬の当主の側近と名乗る壮年の男だった。
 当主達と中枢の者達は彼岸花の奥庭にて拘束されており、見瀬の主はそこで交渉を持つ準備があるという。
 緋那がさぞ嫌な顔をしているだろうと思いながらもそれは口にせず、短く応じる意思を口にする。

「……怪我人もそう居ないようですし、屋敷が荒れていなくて驚きました」
「何れ我らのものとなるのですから。……無用な殺生や破壊は控えました」

 既にそれが定まった事のように語る男に迩千花は思わず渋い顔となる。
 特段この屋敷にも人間にも思い入れはない。けれども、襲撃者である者達がわが物のように語るのは愉快とは言えない。
 破壊された日常を思えば素直に言うと不愉快だ。隣の織黒も不快さを隠そうともせず息を吐いたのを感じる。
 その様な場に織黒を連れ出してしまった事も……それについては迩千花が望んだ事なので、怒りは自身にも向くのだが。
 内心の煩悶を押し隠し、迩千花は努めて冷静な声音で続ける。

「随分と鮮やかな制圧であったと聞きます」
「玖珂にとっては不運が重なったようでございます。まあ、我らにとっては幸運でしたが」

 男は抑えているものの、声に滲む愉快さは隠せない。
 笑いを零したくなるほどに、見瀬の思惑通りに事が運んだのだろう。
 確かに玖珂にとっては一つ一つの不運が重なり決定的な不利となり、それは見瀬にとっては決定的な好機となった。
 屋敷の中だけに隠し通せていたら、このような事にはならなかっただろうと思うけれど……。

「賢明なる導きがあったとだけ申し上げましょう」

 男の得意げな言葉に、迩千花は思わず唇を噛みしめた。
 その言葉は、内通者がいたという事を示しているのではないかと感じたのだ。
 それについては事態を知った時から感じていた。
 あまりに玖珂にとって不利が重なった時機を狙いすました襲撃だったからだ。
 内情について詳しく知る人間が情報を流さなければ外の人間は知り得ない事まで含まれていて。
 良くない菜に当たったというのも、もしかしてと思わないでもない。
 それに、迩千花に内通者を疑わせた決定打は、隠し通路を通ってきたという点だった。
 その事について聞いた時、迩千花は何故と思った。
 迩千花も勿論知っていた。とはいっても、三年前にほぼ全ての記憶を失った迩千花は、築に改めて教わったのだが。
 いざという時の逃走路である隠し通路については、一族の中でもごく限られた中枢の人間しか知り得ない。
 通路は幾つかある。古いものを通ってきたというならば、母の兄である見瀬の主が知っていたとしてもおかしくない。それならばいい。
 けれど、内通者予防にある程度の年ごとに新しくするという。そしてその時の一族の中枢に伝えられる。
 もし、そちらを通って見瀬が入り込んだというならば内通者の存在は確かとなり、それも正体は限られてくる。
 ただ、知りうる中枢の人間は、今は皆囚われの身だ。利を約束され裏切ったものの、約を違えられてしまったのだろうか。
 それとも……。
 胸が騒めく。何かを見逃している気がする。否、見ない振りをしている……?
 棘のように刺さった一つの可能性。有り得ないと心の中で呟く。だって、理由がない。ただの偶然だ、そうに違いない。

 見知らぬ建物のように感じる慣れた場所を通り過ぎると、やがて視界に紅が飛び込んでくる。
 彼岸花が咲き誇る奥庭には異能封じの戒めを受けた父母達、そしてそれを見張り取り囲む見瀬の者達があった。
 迩千花の目には、もう一人。
 厳しい顔で彼らを見据えていた彼岸花の花精の姿がある。表情は庭へ不愉快な闖入者に険しいもののそれ以外に何か障りがある様子はない。
 迩千花と織黒がその場に現れた事を知ると、緋那は瞳を輝かせ安堵したような表情を浮かべた。

 何時もは忘れられた雰囲気の庭に人影がある、それは迩千花にあの日を思い出させた。
 禁忌を犯せと強いられ逃げ出した先、終りを望んだ叫びに呼応するように解けた封印に、目覚めた優しい祟り神。
 あの日とは兄に縄を打っていた者達が、今自身が戒められている。あの日は居なかった者達が、険しい顔をして此方を見ている。
 囚われの者達は身動きこそ取れるようだが、異能を封じられている以上包囲から逃げ出す事は叶うまい。
 如何にしたものかと織黒と視線を交わしたその時、低く落ち着いた男の声がその場に響いた。

「よく来たな、迩千花」

 思わず囚われた者達を庇うように立ち、迩千花はその人影へと向き直る。

「……伯父様……」

 顔を合わせるのは真結の一件の時以来である、迩千花にとっては伯父である見瀬の当主だった。
 母の兄であり、本来は玖珂の対外的な当主になる筈だった人だ。
 夫をその役割につかせたい母の意向で本人の意思に反して見瀬に婿入りする事になったと聞いている。
 玖珂と見瀬の確執が更に深くなった原因の一つである存在である。

「このような親でも見捨てられないということか。情が深い事だ」
「……交渉を望んでおられると言うので参りました。……私と、織黒をお望みであると聞いております」

 迩千花は伯父を見据え、絞り出すようにして言葉を紡ぐ。
 隣の織黒は何も語る事はないが、迩千花に向う敵意に全ての注意を払い、何かあらば動けるようにと身構えている。
 伯父は大仰に肩を竦め、溜息交じりに応える。

「ああ、確かにそのように伝えたな。……まあ、建前なのだが」
「それは、どういう……」
『迩千花! 後ろ……!』

 その瞬間だった。
 緋那の叫びが聞こえ、織黒が苦悶の叫びを上げたのは。
 弾かれたように迩千花は織黒の方を向き、そんな迩千花の耳に伯父が冷酷な声音で告げる。

「そうでも言わねば、お前はその祟り神を連れて逃げただろうからな」
「織黒……!」

 織黒は地に膝をついていた。呻き声をあげる織黒の背には、黒く鈍い色を放つ杭が突き立っている。
 それは負の力……かつて迩千花に襲い掛かった扇の呪いや、織黒が帯びていた呪いに近いものを帯びていた。
 そして、血走った目で荒い息をする、戒められていた筈の父母の姿。恐ろしい形相の父母の手は血に塗れている。

 ――それは、紛れもない織黒の血だった。