追想曼殊沙華秘抄 —遥けき花の庭に結ぶ―

 その場にいた者達全てが、息を飲んだのを感じた。

 男によると、見瀬の者達が玖珂の屋敷に突如侵入し主だった者達を捕らえ、屋敷を制したのだという。
 齎されたあまりの知らせに、迩千花も織黒も、付き添った老女中も返す言葉を失ってしまっていた。
 如何に一度は見瀬の風下に立たされたことはあっても、往時の勢いを取り戻した玖珂がそう容易く膝を屈するとは思えない。
 唇を噛みしめて思案する迩千花に、男はその日あった玖珂にとっての不幸に重なり合った『偶然』について挙げた。

 まず、祭神である織黒が迩千花を連れて屋敷の外に出ていた。
 加えて、大がかりな怪異の討伐の為に、強き力を持つ者達を中心に手練れ達が屋敷を前日から空けていた。
 警護の者のうち主だった者が所用にて里下がりや外出していた為、この日の警護は慣れぬ新人が主となっていた。
 更に、残った人間の中は良くない菜に当たったのか、本調子ではない者が多かった。戦えぬ者達もその対応にかかりきりだった。
 その中を、見瀬は何と隠し通路から精鋭を送りこんできた。
 玖珂の者達が、気がつき応戦する暇も与えず、瞬く間に警護を無力化し要所を抑え、当主達を初めとする主要な者達の身柄を拘束した。
 外に助けを求めて逃れようとした者もいたが、結局は誰も逃れきれずに囚われの身となった。
 玖珂にとっては危機に危機、見瀬にとっては好機に好機が重なった末の、あまりにも鮮やかな制圧だったという。

 迩千花は再び絶句してしまう。あまりに……あまりに見瀬にとって出来過ぎた『好機』だったからだ。もしや、と思ってしまう程の。
 しかし、結果として現在玖珂の中枢にある者達は囚われの身であり、屋敷は見瀬の手に落ちている事に変わりはない。
 迩千花は恐る恐る問いかける。

「お兄様も……?」
「いえ。築様はお屋敷には居なかったようです。ただ、何処にいらっしゃったかは……」

 その言葉を聞いて少しばかり迩千花は胸を撫でおろす。
 少なくとも築は囚われていないらしい。そういえば所用があるから出かけると言っていた気がする。
 もしかしたら今頃異変に気付いて何かしらの行動を起こしているかもしれない。無事であってくれればいいのだが……。
 男は、見瀬が迩千花との交渉を望んでいると告げた。
 迩千花の元へ見瀬の言伝を伝える為に一人だけ束縛を解かれ外に出されたらしい。

 見瀬は、祭神たる織黒が迩千花の言う事しか聞かぬというならば、迩千花ごと貰い受けたい、と望んでいるという。
 応じるならば交渉が終わるまで、囚われた者達の命は保証すると。

 織黒は不愉快さを隠す事なく険しい表情のまま沈黙しているし、老女中は狼狽え迩千花と織黒を交互に見るばかり。
 迩千花もまた内心混乱を極めていた。
 屋敷の片隅に価値なきものとして放られていた立場から、貴人のような立場へ。そして今度は、一族の命運を握る立場へ置かれている。
 交渉に応じるか、否か。
 何処かに助けを求めるか。助けを求めるとすれば何処へ求めるか。
 ここに築が居てくれたなら、と思う。思慮深き兄ならば、どうするのが最善かを導いてくれただろう。
 けれど、今は迩千花が決めなければならない。
 思わず隣に座している織黒を伺い見てしまう。
 恐らく、迩千花が危険に晒されるのを面白く思っていないだろう。本人は無自覚だろうが、低い唸り声すらあげていた。
 答えを求めてしまいそうになるけれど、交差した織黒の眼差しは告げてくれていた――迩千花がどのような答えを選んだとしても、それを支えると。
 ここで玖珂を見捨てる選択をしたとしても、見瀬に下る事を選んだとしても。織黒は変わる事なく迩千花の隣に居てくれると、そう言われた気がした。
 ならば、選ぶのは、決めるのは……自分だ。
 痛い程に重い沈黙の末、迩千花は決意を込めて口を開いた。

「……いいでしょう」
「迩千花様!?」

 老女中の悲鳴のような声が響いたが、迩千花は言葉を止める事なく、更に続けた。

「見瀬の者達が私と交渉を持つ意思を見せたというなら、私はそれに応じます」

 如何にかつて虐げられていたとしても、ここで見捨てると即答できる程に迩千花は非情になり切れない。
 細い糸に縋るような辛く寂しい日々。それを思い出せば自分の甘さに苦いものを感じる。
 けれど、迩千花はそれ以外を選ぶ事はできないし、選ぶ心算もなかった。
 織黒がこちらを見つめているのを感じ、視線を再び彼へと向ける。
 呆れているかもしれないと思いつつ、少しばかり苦笑いを浮かべながら静かに迩千花は問いかけた。

「……ついてきてくれる?」
「お前が望むなら、何処へでも」

 低く優しい声音で呟かれた確かな言葉は、迩千花に落ち着きと自信を与えてくれる。
 織黒の手が、迩千花の膝上の手を静かに握る。
 温かい、と思った。
 この先に待ち受けるものが何だったとしても、茨の道になるとしても、この温かさだけはけして失われない。
 そんな思いが、迩千花に確かな力をくれるのだった。



 玖珂の屋敷は物々しい雰囲気に包まれていた。
 立ち回りの後らしきものは所々に見られるものの、大がかりな戦いがあったとは思えぬ程の屋敷や調度の損害は無かった。
 武装を解かぬ見瀬者たちが歩き回る中、下働きの女中や下男たちは震えながらそれを遠巻きに見つめている。
 戒められてはいないものの、異能を持たない、あるいは弱き力しか有しない者達は歯向かえばどのような目に合うかを感じ取って居る。
 玖珂の主だった者達は戒められ、奥へ奥へと追い立てられていった。
 現在屋敷の中を闊歩する事を許されているのは、見瀬の者達だけである。

「何だか、思った以上に呆気なかったわね」

 空気にそぐ合わない朗らかさで言葉を紡ぎながら、踊るような足取りで屋敷を見て回るのは真結である。
 屋敷の庵で生涯禁足を命じられていた筈であるが、それを反故にして久々の外界を満喫しているような雰囲気である。
 玖珂の屋敷を制圧するにあたり、大きな働きをした一人が真結であった。
 伊達に次なる長と目されていたわけではない。
 自由を与えられて活き活きとした真結は、思う存分に力を振るい、結果として長達夫婦を始めとした玖珂の主軸を無力化した。
 結果として、ほぼ無益な血を流さずに玖珂は見瀬に屈する事となったのである。
 真結は緊迫した空気とは相反するのんびりとした足取りで屋敷を見て回ると、鈴を転がすような笑い声をあげながら傍らの人影に語り掛ける。

「これでよく本家だなんて言っていられたものだわ。やっぱりこれからは見瀬の時代ね」

 答えはないものの、相手が苦笑している雰囲気を感じ取り、真結は気分を良くして笑みを深めた。
 くるくると、踊るように回ってみせてから、相手を覗き込むようにして更に口を開く。

「貴方も、賢い選択をなさったわ。もう玖珂には未練はないの?」

 人形のような華やかな少女の顔に浮かぶ、艶やかな笑み。
 かつては自分のものと思ったものが手の内に戻ってきた事を喜びながら、真結は問いかける。
 確かに自分のものにした筈だった。それなのに思わぬ出来事のせいで奪い返され、更には屈辱を受ける羽目になり……。
 けれど、それももう昔の事なのだ。今、玖珂は見瀬に下り、真結は自由の身となり明るい場所に返り咲いた。
 相手から答えはない。
 確かに答えにくいでしょうねと心の中で呟きながら、真結は相手の顔を覗き込む。

 その瞬間に異変が起きた。

 相手の瞳を覗き込んでいた少女が、自分を見つめ返す眼差しを感じ取った瞬間、頭を抑えて蹲ったのだ。
 倒れる事こそなかったが、表情には苦痛の色が濃い。小さく呻いてすらいる。
 慌てて駆け寄りかけた周囲の者達を手で制した。
 やや何かを確かめるように沈黙していたものの、やがて真結は自分を見下ろすように立つ人影を見上げる。
 何処か呆然とした様子で、乾いた声で絞り出すように切れ切れの言葉を口にする。

「……ねえ」

 見上げる先には、少女を見つめる穏やかな眼差しがある。
 それは見知ったものの筈だった。
 けれども、何故かそれと交差する真結の眼差しに満ちるのは疑念であり、恐怖。

 震える声音で、少女はその問いを呟いた。

「あなた、誰……?」

 ――問われた相手の口元は、緩やかな弧を描いた。