追想曼殊沙華秘抄 —遥けき花の庭に結ぶ―

 処は名家の子女の通う由緒ある女学校の中庭。
 天気は雲などほぼ見えない晴れの日であるというのに、不意に彼女の上には水が降り注いだ。
 顔や身体を伝う悪意しかない水の冷たさを頭から感じていると、くすくすと意地悪い笑いが聞こえてくる。

「あら、迩千花(にちか)様。濡れ鼠ではありませんか、どうなさったの?」
「……不注意で」

 迩千花と呼ばれた少女は、敢えて感情を封じた声で短く呟いた。
 棘のある問いかけにそう答えはしたものの、不注意で窓から水が降ってくるなど有り得るはずがない。
 問いかけてきた女生徒たちは何があったのか知っていて聞いているし、どうせ窓から姿を垣間見せた少女達と示し合わせていただろう。
 更に深くなる嘲笑に無表情のままに裡で嘆息していると、聞き覚えのある声がした。

「あらいやだ、迩千花お姉様ったら。元々みすぼらしかったのに、更にみじめにおなりだこと」
「……真結(まゆ)

 迩千花が見つめる先には、咲き誇る花々を思わせるような華やいだ美貌の少女の姿がある。
 流行りの文様の着物と真新しい袴、手荷物道具は一流の見事な品々。優雅な物腰と併せて、見るからに良家の令嬢然とした佇まい。
 切れ長な瞳に、事態を面白がっている底意地の悪い光を宿した彼女は、迩千花の従妹の真結だ。
 迩千花の家である玖珂(くが)家に対しては分家にあたる、見瀬(みせ)家の長女である。

「まあ、お姉様ったら。我が家あってこそ在学出来ているという事すらお忘れなのかしら」

 真結は大仰に肩を竦めて嘆いてみせる。呼び方も弁えろ、と言いたいらしい。
 言いながら、真結は蔑みを宿した眼差しで令嬢達のように袴ではない、粗末な着物姿の迩千花を一瞥する。
 擦り切れた着物のあちらこちらにはつぎはぎをしているけれど、それも限界がきている事は見て取れる。
 ほつれた箇所は何度も縫い直しているけれど、次に何処か破れたならもうなおせないだろう。
 教科書は卒業したという知人に無理を言ってお古をもらい、筆記具は限界を越えてもなお誤魔化し使い続けている。
 ……それですら、時折無くなり必死で探す事も暫しであるが。
 着物も道具も使い古しというだけではない。
 憂いを帯びた風に見える顔かたちこそ美しいものの、?せこけているし肌にも髪にも艶はない。手は荒れてあかぎれだらけ。
 どう良く見積もっても上流階級の子女の通う学校には相応しくない姿は、真結と、その家族である見瀬家の思惑によるもの。
 三年前のある出来事があってから、父母は迩千花を恥ずべきものとして女学校すら辞めさせようとした。通わせるのに金子を費やすのも惜しいと言って。
 けれども見瀬家がそれを止めたのだ。だが、けして温情などからではない。
 目ざわりな本家の娘をみすぼらしい姿のまま相応しくない場所へと置き続け、辱める為だけに学校に通う事を許されている。いや、強いられている。
 真結の言葉に頷きながら何事か囁く少女達。羽音のような囁きははっきり聞こえないけれど、どうせ真結への追従の言葉か、迩千花を蔑む言葉に決まっている。
 迩千花は知っている、彼女達が真結の尻馬に乗って迩千花に嫌がらせをして面白がっている事を。何か反論したとしても彼女達が嘲笑うだけだと。
 言い返す事すらせず迩千花がその場を後にするべく背を向けると、その背に真結の面白くなさげな言葉が投げつけられる。

「本当に可愛げがない方だわ。だから築お兄様が愛想を尽かしてわたくしの元にいらっしゃったのよ」

 ぴくりと、迩千花の肩が揺れる。
 迩千花の兄は、今では分家で真結の側仕えをしている。
 けれど、兄が迩千花を見捨てて去ったのではない。
 あなたが、わたしから全て奪うから。わたしが好きなもの、大事なもの、全て。
 乾いて干からびた心では、言葉一つとて言い返す事すら最早出来ず。迩千花は嘲笑を背にその場を後にした。

「ただいま帰りました」

 一人で歩き帰宅した迩千花は表玄関ではなく、勝手口から家へと入る。表玄関から入る事を許されていないからだ。
 台所では夕餉の支度やら忙しく働く女中たちがいる。
 その場にて忙しなく立ち回る人々が手を止める事もなければ、視線を向ける事も無い。まるでその場に迩千花が居ないように振舞う。
 それで衝撃を受ける事はない、それが当たり前だからだ。
 例え迩千花が全身ずぶぬれであろうとも気にも留めない。それが迩千花を取り巻く環境の「何時も通り」である。
 いや、留めるものもあった。

「ああ、水を零して歩かないで欲しいわ」
「誰が後始末をすると思っているのよ、全く……」

 声を潜める努力をする気がない、というよりもわざと聞かせようとしているような声音である。
 これでも大分絞ったし拭いたのだけれど、と思うが言い返す事はしない。それは無駄な事と知っているから。
 無言で何かを投げつけられたと思えば、それは雑巾だった。零した雫は自分で始末しろという事なのだろう。
 迩千花が何も言わずにそれを手にして歩き出すと、聞えよがしな溜息や皮肉を含んだ言葉が聞こえる。

「先祖返りとまで言われていたのに見る影もないわね、みっともない」
「ああ、取り入っていて本当に損したわ、あんな役立たず。真結様にお仕えしていれば良かった」

 彼らにとって迩千花は主家のお嬢様ではない、ただの厄介ものである。思惑が外れた八つ当たりも含まれているだろう。
 言葉からすると、元々は迩千花に使えていた女中だったのではないかと思う。
 それに抗う事もなく言葉を返す事もなく、ただ受け入れて迩千花はその場から立ち去っていった。