追想曼殊沙華秘抄 —遥けき花の庭に結ぶ―

 もう一度会いたかった。
 もう一度笑って欲しかった。
 彼はもう分かっている、もう戻れないのだと。
 彼は止まれない。歩み続けてきた道を無かったことにする事も、自ら止まる事も叶わない。それは、今の彼を否定するもの。
 彼が、心の深奥に真に願う事は……。



 青天の霹靂、その言葉の通り。
 不穏は音もなく忍び寄り、そして『その時』は唐突に訪れた――。


 その日、迩千花は織黒と連れ立って出かけた。
 元々はその日に三人で迩千花の新しい着物を誂えに行く事になっていた。しかし、築に急な所用が出来たという。
 築は付き添えないのだから日を改めろと渋い顔をしたが、織黒がそれを押し切った。
 譲歩する条件として使用人の中では比較的迩千花に同情的だった老女中を付き添いにつけるように言い、迩千花はそれを受け入れた。
 二人揃って世に慣れているとは言えない。お上り二人と言っても過言ではない状態であるからそれは有難いと思った。
 織黒は二人きりで無い事を不服な様子だったが、迩千花が受け入れている以上仕方ないと諦めた様子である。

 向った先は、商家が立ち並ぶ界隈でも一際目を引く大店であり、玖珂家が長らく贔屓にしていた呉服屋だった。
 小間物の取り扱いも豊富であり、異国との取引もあるということで舶来の珍しいものも一角に並べられている。
 あまり落ち着かない様子を見せてはいけないと思うけれど、迩千花も年頃の少女である。美しいものや珍しいものを見ればつい目を輝かせてしまう。

 しかし、違う意味で落ち着かない事もあった。
 迩千花は、店の中にいた女性の視線が突き刺さるような感覚を覚えた。
 長身の美丈夫の姿に客であるご婦人方は注意を惹かれて已まぬようである。
 あれはどなたかしら、と熱の籠った眼差しはついでにその隣にいる迩千花にも向けられる。
 視線に羨望であったり素性を問う疑問であったりの他に、嘲りの色が交ざっているの。
 無理もない。織黒程の美しく威厳ある男性の隣に並ぶには、自分はあまりに貧相で華がない。それは自分がよく分かっている。
 しかし、迩千花に向けられる眼差しに交じる負の感情に織黒が気付かぬ筈がない。
 目に見えて不機嫌になりかけ迩千花が蒼褪めたところに、調度番頭がやってきて声をかける。
 どうやら築が先駆けて言伝をしていたようで、奥座敷に通される事になった。
 迩千花が密かに胸を撫でおろしたのは言うまでもない。

 座敷には、予め用意されていた反物の他に、小物類も色々と並べられている。
 番頭が今の流行りの柄や色味について触れながら見せてくれる品々は、どれも溜息が出る程に美しいものばかりである。
 同じ意匠であっても当世風のモダンなものもあり、古典柄もあり、目移りしてしまう程。

 築によると迩千花に似合うものは全部買っても構わないという事らしい。
 織黒が珍しく意見が合うなと言っていたがとんでもない。そんなところで意見の合致をしないで欲しい。
 これだけの高級品の数々である。確かに玖珂は勢いを取り戻し潤いつつあるとはいえ、そのような贅沢には抵抗がありすぎる。

「沢山あるに越したことはなかろう?」
「……私の身体は一つしかないの。そんなにあっても困るもの……」

 織黒が当然のように言った言葉に、迩千花は溜息と共に返す。
 真結は美しい着物を季節ごとに誂えては事あるごとに着飾り人目を引く事に余念がなかった。
 迩千花の着物がより一層みすぼらしくなった事を憐れんで見せながら、見る度に違うのではと思う程に沢山の着物で美しく装っていた。
 かつては羨みもしたけれど直に心が擦り切れ何も感じなくなった。羨ましいと思ったのも昔の話である。
 長らく着るものがあるだけ有難いという状態だったのだ。着物や身の回りのものに不自由しない事に漸く戸惑いが薄れつつある程なのに。
 築がいたら多分、並べられた品の中から迩千花に似合うものと思うものを選び勧めてくれただろう。
 勧められたものに躊躇いを覚える事はまずない。迩千花は概ねそれをそのまま受け入れる、それが何時もの事。
 しかし、織黒はまず迩千花に問いかけた。どの意匠が好きか、色味が好きか。どの反物が気に入ったか、と。
 問われた迩千花は一生懸命考える。自分が選んでいいのかと戸惑いが大きく答えをなかなか口にできない。
 自分には、分不相応な気がすると躊躇うこころはあるけれど。でも、それでも。

「私はこの柄が、好きです」

 逡巡を滲ませながらも、迩千花は淡い色味の古典的な花模様の反物を手に取った。
 ただそれだけの事なのに、随分と時間がかかってしまった気がする。でも、迩千花にとってはかなり勇気を必要とする言葉だった。
 とても、久しぶりな気がする。胸の鼓動が些か早い。
 迩千花の言葉を聞いた織黒は、それは嬉しそうな笑みを見せた。
 迩千花にはそれが似合うだろう、と頷きながら言う声音は迩千花がくすぐったく感じる程の優しさに喜びに満ちていた……。

 その後、幾つかの反物を選び仕立ててもらうように頼んで店内へと戻って来る。
 並ぶ品々にも興味を引かれたものの、あまり長く番頭の時間を割かせてはいけないと思い今日の処は帰ろうかと口を開こうとした時。

「迩千花様……?」

 恐る恐ると言った風な、控えめな女の声がした。
 見れば、そこには温和な雰囲気を持つ中年の女性が一人立っている。
 務めの長い老女中は彼女の顔を見て破顔すると、親しげに語りかけた。
 老女中によると、彼女の名は楓。かつて迩千花付の女中の一人だったらしい。
 迩千花が幼い頃から仕えていたが、五年ほど前に結婚を機に勤めを辞して田舎に退いたのだという。数日前から親類の元を訪れる為に帝都にやってきたそうだ。
 申し訳ないことではあるが、迩千花は彼女を覚えていなかった。記憶が定かなのは三年前から。それよりも昔に別れたのであれば仕方ない。
 楓もそれについてはある程度承知してくれていたらしい。老女中と二言三言言葉を交わしてはいたが、その後過去には触れずにいてくれた。
 織黒の妻となった事を知らせると、楓は幸せそうでよかったと涙ぐみつつも微笑んでくれた。
 覚えていないけれど、迩千花は嬉しいと感じた。時の向こうに置き去りにされ忘れられた過去の自分に心を向けてくれた人が此処にもいたのだと。
 織黒は言葉こそないけれど、良かったと思ってくれているらしい事が伝わってくる。
 二人の様子を微笑ましく見つめていた老女中が、少しだけ残念そうに言う。

「本当なら築様もいらっしゃる筈だったけれど、ご用事で。残念だったわね」
「築様……ですか……?」

 ふと、楓が目を瞬いた。
 そして、目を伏せ記憶を手繰るような表情で押し黙ってしまう。
 暫く考え込んでいた様子だったが、やがて少し躊躇いながらも老女中に向けて楓は問いを紡いだ。

「あの……。築様、とは一体どなたでしょうか……?」
「え………?」

 今度は迩千花が目を瞬く番だった。
 老女中も同様に驚いて目を見開いており、織黒はあまり表情に現れていないが、視線は真っすぐ楓に据えられている。
 迩千花に仕えていた女中であるはずだ、この女性は。
 それが、迩千花の兄である築を……如何に迩千花の影に隠れていたとはいえ本家の長男である存在を『誰』と問うなど。
 築は迩千花が跡取りであった頃は迩千花に仕える立場だった。ならば迩千花付の女中だった楓とは接する事も多かっただろうに。
 最初は、迩千花は彼女が冗談を言っているのかと思った。
 しかし、その心からの戸惑いが浮かぶ表情を見れば、楓の言葉に揶揄いなどの意図はないと知れる。

 彼女は本心で問いかけているのだ『築とは誰か』と。

 どう答えて良いか分からない。築は迩千花の兄であるとしか答えようがない。けれどそれならば、彼女が知らぬ筈がない。
 むしろ問いかけたい、何故あなたは築を知らないのかと。
 楓が実はその素性を偽っている可能性もある。老女中がよく似た別人をそうと勘違いしている事だって。
 なら、何故そうする必要がある?
 悪い意図を以て迩千花に近づこうとするとしても、少し調べれば迩千花に兄が居る事など分かるというもの。
 築は表の当主を継ぐ存在、対外的な跡取りとされている人だ。
 わざわざ、それを知らぬ振りをして疑念を抱かせる利などない。
 迩千花は目に見えて蒼褪めていた。老女中や楓の心配そうな眼差しが自分に向いているのが分かる。
 織黒が、怪訝そうにしているのも感じ取れる。
 何故、こんなにも胸が騒めくのかが分からない。
 築は兄だ、貴方は忘れてしまったのかと問えばいい。きっと彼女はそれで思い出すだろう。そうすればいい、そう、それで……。
 それだけなのに、何故自分は言葉を紡げない?
 人のざわめきの中、その場にだけ重い沈黙が満ちる。
 織黒が何か口を開きかけたその時、店外からの悲痛なまでの叫び声が響き渡った。

「迩千花様! 織黒様!」

 転がるように店の中へと駆けこんできたのは、玖珂に仕える男だった。
 一瞬にして店内にいた人間全ての注意が迩千花達に集まる。
 尋常ではない様子ではあるが、徒にこの場に騒動を呼びたいわけではない。迩千花は老女中に男を任せると人々に頭を下げる。
 男の様子からして只事ではないと察したのか、一先ずは、と番頭が再び奥座敷へと一同を案内する。
 玖珂家の事情を知った上での長い贔屓である店である。采配は驚く程に早い。
 人目の在る所で騒ぎになれば店の営業の触りにもなると、ありがたくその好意を受け入れることにした。

 息も絶え絶え、肩で息をする有様だった男は出された水を呷った事で少しは落ち着いたようである。
 申し訳ありません、と一同に頭を下げた後、呼吸を整える為に数度息を吸う事と吐く事を繰り返し、告げた。
 迩千花が凍り着く程の、まさに青天の霹靂としか言いようのない驚愕の出来事を。

「見瀬が……! 見瀬が、玖珂に反旗を翻しました……!」