追想曼殊沙華秘抄 —遥けき花の庭に結ぶ―

 それは何時か何処でもない場所だった。不可思議な感覚を覚える空間に、彼は揺蕩っていた。

 ああ、夢かと真神は思った。
 それは、恐らく何時かあったであろう出来事。記憶の彼方にある真実。
 一面が赤く染まり揺れる何処かで、織黒は吼えるように問いを叩きつけていた。

『何故だ……!』

 起きた出来事が信じられない。
 目の前にいる相手がそれを為した事も、腕に力なく抱かれる魂なき躰も、何もかも全てが。
 怒りとも悲しみとも何ともつかぬものが裡を満たし、言葉を奪っていく。

『……もう……は限界だった』

 落ちる夕陽を背に立つ男は事も無げに言い放つ。
 その静かな声音が織黒の更なる怒りを呼ぶ。
 逆光の為表情を見る事は叶わないが、おそらく……微笑んでいるのだろう。静かに、穏やかに。

『……るなど……! …‥が、そのような事を、望むとでも……!』

 激情のままに問いを叩きつけ続けても、相手からの返答は返らない。
 相手がとった行動は、彼に対する、彼女に対する明確な『裏切り』である。
 それなのに、相手は全く悪びれた様子がない。罪の意識を感じている様子もなければ、ただただその心は静寂のまま。

 不意に、胸に衝撃を感じた。
 それから拡がり行く暗いもの。織黒を蝕み喰らおうとする、悪しきもの。
 全身に絡みつき彼を地に引きずり込み、一筋の光すら差さぬ場所へと引きずり降ろそうとする。

『何故だ、――い……!』

 もはや世に留まり続ける事が叶わなくなっていたが、織黒はそれでも叫び続けた。
 問い続けた、斯様な行いに目の前の男が出た理由を。
 信じていた、いつまでも信じていたかった者の行動の真意を問い続けた。
 応えは返らない。
 沈んでいく、堕ちていく、闇しかない呪いの底に。
 届かぬとわかっていても手を伸ばし続けた。穏やかに微笑む男が抱く儚い光を、取り戻そうと。
 何もかもが、闇の隔ての向こう側に消えて行く。
 不気味な程平穏に笑む男の姿が、いつしか見覚えのある姿に転じていた。
 眼鏡をかけた物静かな佇まいは、あれは……。


「……織黒!」

 ――必死に呼びかける声で、瞬時に彼は『現在』に戻り来る。

 何度か目を瞬いた後に少しだけ彷徨って、漆黒の瞳が最後に向けられた先には心配そうな迩千花の顔があった。
 迩千花は織黒が目覚めた事のを見ると安堵し、その肩から力が抜ける。
 どうやら何時の間にか眠ってようだが、随分と魘されていたのだという。
 迩千花が心配して呼びかけても中々目覚めず、どうしたらいいのかと途方に暮れかけていたとの事だ。
 心配させてしまった事を詫びて、迩千花を抱き寄せる。
 少しばかり戸惑いの声はあがったが、やがて迩千花は恥じらいの中に安堵を滲ませながら苦笑した。
 腕の中に感じる温もり。儚いまでの身体は命の鼓動を打っている事が確かに感じられる。

 ああ、生きている。ここに、彼女はいきている……。

 記憶はまだ靄がかかったように輪郭は曖昧であり、取り戻しつつある事もあるけれど、真実の大部分は阻む霧の向こう側。
 何を憤り吼えたのか、何を問いただしていたのか。そして、あれは誰だったのか。
 分からない事ばかりの中、腕の中の存在だけが唯一つ彼にとって確かなものだった。