「は……」
ド、と、心臓がひとつ、嫌な音を立てた。
妙に悟ったような、老成したような、乾いた凪の眼差しが、真っ直ぐこちらに向けられていた。春宮の色素の薄い瞳が、俺の心の柔い部分をそのかたちのまま抉り取ったような錯覚がした。
自惚れるな、と、叫ぶ声が耳の奥で蘇る。――天才も神童もこれからいくらでも現れる。新しい波に飲まれないために必要なのは確かな結果と実績だ。お前はそれを何と心得ている――。
「どういう……意味だよ」
こめかみを一筋汗が伝った。
春宮がぱちりと一度瞬きをする。そして、ゆっくりと桜桃色の唇が動いた――「言葉の通りの意味ですよ」、と。
「今まで賞をもらった絵も、描いてきた絵も、私一人の力で描いたものじゃない。私には天才と呼ばれるような才能なんかないんです」
今回金賞をいただいた絵にも、と続けられる。
「――モデルがあるんです。私がずっと、描いてきたモデルが。私は、それしか描けない……それがないと……」
「モデル……? あの絵に?」
緑の森。ぼやけた輪郭と、森の奥で燃える紫の炎。幻想的で、儚げで、どこか痛いほど懐かしい絵。あれは抽象画と風景画が合わさったような――空想画というべき作品だった。実際にモデルになる風景があるようには思えないが。
「私にはもう絵は描けません」
「……、どうしてそんな話になるんだよ。絵を描くことがモデルの問題なら、そのモデルになった風景やら絵やらをさっさと見に行けばいいだろ? ……いや、わざわざ見に行かなくても、写真とかねぇのかよ」
暗い目をした春宮が、いつかの誰かと重なる。
白いスポットライトが照らすステージの上、指が動かなくなったかつての自分。
「ありません。写真なんて。そもそも写真を残せるようなものじゃないんです」
「撮影禁止されてるってことか?」
「違います。目に見えないんですよ。
だって、私がずっと題材に、モデルにして描いてきたのは――とある少年が弾いていた『幻想即興曲』なんですから」
「……ピアノ」
そうか――だからか、と思った。腑に落ちた。
だから彼女はさっきから一人で、『幻想即興曲』を弾こうとしていたのだろう。そして恐らく、かつて聞いた音楽をテーマに、イメージを膨らませて絵を描いている。
好きな音楽からイメージを膨らませてものを描く絵描きは、恐らくさして珍しくはないだろう。
とはいえ――。
「『幻想即興曲』を弾いてるピアニストなんてそれこそ星の数ほどいるだろ。CDなんて聞かなくてもYouTubeで有名ピアニストの演奏がいくらでも聞ける」
「それじゃダメなんです。彼のピアノじゃないと」
「何でだよ。アマの子供の演奏なんかよりプロの演奏の方がいいに決まってる」
「私だって、そう思ってプロの演奏を聴いてみたことはありますよ。でも、ダメだったんです。どんな演奏を聞いても、さまざまな色が飛び交って混ざって目眩がするんです」
「演奏を聞いて、色が……?」
何を言っているんだ。一体何の話だ。色が飛び交って混ざる? 音を聞いて、それで、何がどうなったらそんな光景が――。
そこまで考えて、ハッと思い当たることがあった。
「まさか……共感覚か」
春宮が、みたび目を見開いた。
「……驚きました。君、本当に物知りなんですね。実は相当真面目で勉強熱心な人なのではないですか? なんで不良やってるんです?」
「うるっせぇ」
いや、でも、そうか。共感覚を持った人間になんて初めて会ったな。
共感覚――とは、とある刺激を受けたとき、他の感覚を得る知覚現象のことを言う。中でも、共感覚の中で最も知られている、音に色がついて見える知覚を「色聴」と呼ぶのだ。絶対音感を持つ音楽家の中には持っているという人物が一定数いると耳にしたことがある。
おそらくだが、彼女はこの色聴の持ち主なのだ。
そして、どこぞの『少年』が弾いた『幻想即興曲』の発した色を、絵に描いている――。
「どんなプロのどんな演奏でも、きれいな色を視ることはなかったんです。『幻想即興曲』なんて、凄まじい勢いで音が並んでいくでしょう? だから視える色が多すぎて、チカチカして、まったくきれいだと思えなかった……でも」
その少年が弾いたものだけは、ただ、美しかったと。
「色とりどりの色が視えたのは彼のピアノも他のそれと同じでした。でも、見え方は他とはまったく違っていたんです。……ピアノを弾く喜び、苦しみ……彼の持つ汚い感情さえもが、音を通じて伝わってきて、ただただ美しかった。あの時の光景はまるで、無数の色の光が、コンサートホールに降ってきたような――ううん、少し違うか。言語化するのは難しいですね」
苦笑する春宮に、黙って視線を返す。
あのシャボン玉に包まれたような森も、あわい紫色も。その子供のピアノを聞いて描いたものだったというのか。
ふ、と鼻で息を吐きだした。
……『天才』を生んだ演奏か。さぞかし素晴らしい音だったのだろう。ピアノをやめた俺には、もう気にする理由もないけれど。
「だったら、むしろ話は早いだろ。もう絵は描けないなんて言ってないで、そいつのピアノをもう一回聞けばスランプ脱却だ。コンサートホールで聞いたんだったか? だったらそこそこピアノ弾いてるやつだろ。名前を調べれば今もコンクールに出てるかもしれない」
春宮が首を振った。「ダメなんです」
「なんで」
「彼は……、もう、ピアノをやめてしまったみたいですから」
――瞬間。どくん、と、心臓が高鳴った。
短く息を呑み、頬杖をしていた手が顔から離れた。意図しないままに、背筋が伸びる。
「……彼のピアノを聞いたのは、四、五年前くらいの、かなり大きなコンクールの県予選か何かで、でした。当時私はピアノに興味なんてなかったですし、むしろ音楽なんて色もごちゃごちゃしていて嫌いなくらいで……行くのも割とイヤイヤで」
「……」
「でも、小学校時代の親友が聞いてほしいと言うから、我慢して聴きに行ったんです。その子は私が共感覚なのを知っても気味悪がったりしなかった、大切な友達だったから……」
上履きを脱いだ春宮が、椅子の上で膝を抱えた。――他の子のピアノなんて興味もなかった。友達のためとはいえ、ひたすらに憂鬱な時間だった。
「けれど」
春宮が、ぎゅ、と自分の膝を抱きしめる。
「彼のピアノに。……私の神様に、出会った」
どくん、と。
また、鼓動。
「彼はその、コンクールの県予選で最優秀を取り、全国……本選に行ったそうです。でも、それから一切、ピアノを弾いていないと聞きました。優勝候補だったのに、本選で、なぜかピアノを弾かずに舞台を降りてしまって、それ以来ずっと」
視界の端に、かつてのステージライトがちらつく。ぐらぐらと揺れる頭。耳鳴りと怖気。
失望の視線と、奥の席に座った父の視線。
「だからもう、私は彼のピアノを聞くことはできない」
「……そいつの、」
聞くな、と頭の中で誰かが言った。それは恐らく、小学五年生の頃の俺の声だった。
だが、止められなかった。彼女にあの絵を描かせたピアノが、もしかしたら――。
「そいつの名前は」
「宝生奏介。忘れるはずがありません」