音楽室は灯りがついていなかった。昼になる前の白い陽の光が強く横から差し込んでおり、俯いた春宮美涼を照らしている。
蓋の開いていないグランドピアノの上には、スケッチブックが載っていた。そして、幻想即興曲の楽譜。冊子ではなく、楽譜が印刷された紙だ。
「……何が違うんだよ」
次の瞬間、思わず俺はそう口にしていた。
はっと顔を上げてこちらを見た春宮の目が見開かれる。「君はたしか、今朝会った……」
「……あのショーウィンドウに飾られてた絵、あれお前の絵だったんだな」
春宮美涼は、ああ、とつまらなそうな目になった。
「朝礼、いたんですね。意外です。その風貌だから、てっきりいつもはサボっているものかと」
「……偏見だろ」
的を射ているが。
じ、と視線を向ければ、春宮は慌てたようにゴシゴシと目元を拭った。人前で泣くつもりはなかったのかもしれない。
「こんなところで一人で、今、授業中だぜ。お前、二組だったろ? たしか数学じゃなかったか、一時間目。サボりかよ」
「君にだけは言われたくないですよ。君こそ堂々とおサボり中ではありませんか……」
「俺は別にいいんだよ、どうせ初めから内申点なんてないようなモンだし」
「誇って言うようなことですか。三年生なら受験もあるのに、あんまりサボっていると授業についていけなくなりますよ?」
「授業なんて聞かなくても教科書読めばわかる。これでも前回の考査では学年十位だ」
途端、春宮がにわかに大きく目を見開いた。そしてブルブルと震え始めた。
「なんということでしょう……その見た目で……」
「失礼なやつだなお前……」
「いえ、でも、茶髪に着崩した制服なんて、いかにも不良学生という感じなのに……。それを、が、学年十位だなんて……目つきも最悪、まさしくDQNという感じの顔なのに……」
「オイ」
本当に失礼なやつだなこいつ。
――そもそも、とかぶりを振る。順番が逆なのだ。
こうやって見た目も振る舞いも素行も『普通』の『優等生』でないからこそ、テストの結果という武器で武装している。
ゲーセンも街でフラフラするのもカラオケも喧嘩も、新鮮なうちが花でそのうち飽きる。学校をサボり、『遊び』にも気が乗らないで帰ってきたら、することといえば勉強くらいだった。それだけの話でもある。
「今度、勉強教えてください。私実は国語が大の苦手で」
「よく今までの会話の流れでそんなこと頼めるな……」
なんつうメンタルをしているのだこの女は。心臓、鋼鉄製か何かか。
溜息をつき、ピアノの上に置かれた楽譜とスケッチブックを見た。
「……で? なんでわざわざ授業サボってまで音楽室にいるんだよ」
「別にサボってませんもの。具合が悪いので保健室に行きますと行って来ましたもの」
「無断欠席より悪質じゃねぇか」
「……君には関係ないじゃないですか……」
「……」
確かに――それはそうかもしれないが。
正論だったがなんとなくムッとして、俺はピアノの上にあった楽譜を手に取った。春宮があっ、という顔をする。
「……気になるだろうが、普通。サボり先で天才少女画家様が音楽室でひとり泣きながらヘッタクソなピアノ弾いてるのなんか見たら」
「ヘッタクソ……あの、君、言葉をもう少しオブラートに包んで下さいません?」
無視をして続けた。「――幻想即興曲なんて、初心者が弾く曲じゃないだろ」
しかも、こんなタイミングで。
絵で賞を撮り、ほめそやされ、胸を張って誇らしげにしていてもいいようなタイミングで。
どうして弾けないピアノを弾いているのだろう。
「……やっぱり、顔に似合わず教養がおありなんですね、君」
春宮が苦く笑った。
「言われなくたってわかっているんです、そんなこと。私にピアノのセンスなんてないこと、一番自分がよくわかっていますよ。でも……でも、私はこの曲がいいんです。私が覚えているのはこの曲の色だけだから――」
(色……?)
「だから、だから私は、あの音を思い出すためにも……っ」
初めは力が篭っていた春宮の声が、明らかに尻すぼみになっていく。こちらを見ていた視線も徐々に下がっていき、ついには唇を一文字に結ぶと完全に俯いてしまった。
涙は流していないが、泣いているような表情。まるで先の見えない暗闇の中で一人迷子になってしまったかのような、心細そうな顔だった。
「……今このタイミングでやらなきゃいけないことだったのか」
「そうですよ」
と、春宮は暗い声で応えた。「あのまま教室にいることなんかできませんよ。あんな目立つショーウィンドウに飾られているんです、きっとクラスメイトの目にも留まっています。あの絵の話題は聞きたくない……」
「……つまりお前は、賞を取ろうがなんだろうが、自分はあの絵の出来に納得がいってないって、そう言いたいのか?」
だから今朝、あんな冷めた目で絵を見ていたのか――?
話が長くなりそうな気配を悟り、俺はグランドピアノのすぐ側に置かれた席に腰掛ける。頬杖をつき、改めて春宮を見れば、彼女は「そのようなものです」と自嘲するように言った。
――今でこそ人気の高い幻想即興曲であるが、ショパン当人はこの曲を気に入っていなかったのだという。死後楽譜を燃やしてくれと友人に頼んだと言う逸話が残っている。
妙に合致するな、と思った。ショパンの幻想即興曲の楽譜が燃やされず、それどころか手直しののち結果世界に広まってしまったのと同様、春宮の絵も作者の気持ちが追いついていないところで絶賛されている。
「……絵を、褒めて貰えるのは嬉しい。評価されたことも、別に嬉しくない訳ではないです。でも、あれは……あんなのは、所詮、とっくに褪せている絵なんです……」
「とっくに褪せてる?」
「はい。あの絵は、描く前から、完成しないことが分かっていた絵なんです。……だけど、描かないわけにはいかなかったんです」
「それは、どうして」
ふと、ばち、と視線がぶつかった。
が――春宮は俺の質問に応えなかった。
そのかわり、今朝、あの絵を眺めていた時のように悲しげで、どこか諦めたような眼差しのまま。
私は、と、彼女は口を開いた。
「私は別に――天才なんかじゃないんですよ」
蓋の開いていないグランドピアノの上には、スケッチブックが載っていた。そして、幻想即興曲の楽譜。冊子ではなく、楽譜が印刷された紙だ。
「……何が違うんだよ」
次の瞬間、思わず俺はそう口にしていた。
はっと顔を上げてこちらを見た春宮の目が見開かれる。「君はたしか、今朝会った……」
「……あのショーウィンドウに飾られてた絵、あれお前の絵だったんだな」
春宮美涼は、ああ、とつまらなそうな目になった。
「朝礼、いたんですね。意外です。その風貌だから、てっきりいつもはサボっているものかと」
「……偏見だろ」
的を射ているが。
じ、と視線を向ければ、春宮は慌てたようにゴシゴシと目元を拭った。人前で泣くつもりはなかったのかもしれない。
「こんなところで一人で、今、授業中だぜ。お前、二組だったろ? たしか数学じゃなかったか、一時間目。サボりかよ」
「君にだけは言われたくないですよ。君こそ堂々とおサボり中ではありませんか……」
「俺は別にいいんだよ、どうせ初めから内申点なんてないようなモンだし」
「誇って言うようなことですか。三年生なら受験もあるのに、あんまりサボっていると授業についていけなくなりますよ?」
「授業なんて聞かなくても教科書読めばわかる。これでも前回の考査では学年十位だ」
途端、春宮がにわかに大きく目を見開いた。そしてブルブルと震え始めた。
「なんということでしょう……その見た目で……」
「失礼なやつだなお前……」
「いえ、でも、茶髪に着崩した制服なんて、いかにも不良学生という感じなのに……。それを、が、学年十位だなんて……目つきも最悪、まさしくDQNという感じの顔なのに……」
「オイ」
本当に失礼なやつだなこいつ。
――そもそも、とかぶりを振る。順番が逆なのだ。
こうやって見た目も振る舞いも素行も『普通』の『優等生』でないからこそ、テストの結果という武器で武装している。
ゲーセンも街でフラフラするのもカラオケも喧嘩も、新鮮なうちが花でそのうち飽きる。学校をサボり、『遊び』にも気が乗らないで帰ってきたら、することといえば勉強くらいだった。それだけの話でもある。
「今度、勉強教えてください。私実は国語が大の苦手で」
「よく今までの会話の流れでそんなこと頼めるな……」
なんつうメンタルをしているのだこの女は。心臓、鋼鉄製か何かか。
溜息をつき、ピアノの上に置かれた楽譜とスケッチブックを見た。
「……で? なんでわざわざ授業サボってまで音楽室にいるんだよ」
「別にサボってませんもの。具合が悪いので保健室に行きますと行って来ましたもの」
「無断欠席より悪質じゃねぇか」
「……君には関係ないじゃないですか……」
「……」
確かに――それはそうかもしれないが。
正論だったがなんとなくムッとして、俺はピアノの上にあった楽譜を手に取った。春宮があっ、という顔をする。
「……気になるだろうが、普通。サボり先で天才少女画家様が音楽室でひとり泣きながらヘッタクソなピアノ弾いてるのなんか見たら」
「ヘッタクソ……あの、君、言葉をもう少しオブラートに包んで下さいません?」
無視をして続けた。「――幻想即興曲なんて、初心者が弾く曲じゃないだろ」
しかも、こんなタイミングで。
絵で賞を撮り、ほめそやされ、胸を張って誇らしげにしていてもいいようなタイミングで。
どうして弾けないピアノを弾いているのだろう。
「……やっぱり、顔に似合わず教養がおありなんですね、君」
春宮が苦く笑った。
「言われなくたってわかっているんです、そんなこと。私にピアノのセンスなんてないこと、一番自分がよくわかっていますよ。でも……でも、私はこの曲がいいんです。私が覚えているのはこの曲の色だけだから――」
(色……?)
「だから、だから私は、あの音を思い出すためにも……っ」
初めは力が篭っていた春宮の声が、明らかに尻すぼみになっていく。こちらを見ていた視線も徐々に下がっていき、ついには唇を一文字に結ぶと完全に俯いてしまった。
涙は流していないが、泣いているような表情。まるで先の見えない暗闇の中で一人迷子になってしまったかのような、心細そうな顔だった。
「……今このタイミングでやらなきゃいけないことだったのか」
「そうですよ」
と、春宮は暗い声で応えた。「あのまま教室にいることなんかできませんよ。あんな目立つショーウィンドウに飾られているんです、きっとクラスメイトの目にも留まっています。あの絵の話題は聞きたくない……」
「……つまりお前は、賞を取ろうがなんだろうが、自分はあの絵の出来に納得がいってないって、そう言いたいのか?」
だから今朝、あんな冷めた目で絵を見ていたのか――?
話が長くなりそうな気配を悟り、俺はグランドピアノのすぐ側に置かれた席に腰掛ける。頬杖をつき、改めて春宮を見れば、彼女は「そのようなものです」と自嘲するように言った。
――今でこそ人気の高い幻想即興曲であるが、ショパン当人はこの曲を気に入っていなかったのだという。死後楽譜を燃やしてくれと友人に頼んだと言う逸話が残っている。
妙に合致するな、と思った。ショパンの幻想即興曲の楽譜が燃やされず、それどころか手直しののち結果世界に広まってしまったのと同様、春宮の絵も作者の気持ちが追いついていないところで絶賛されている。
「……絵を、褒めて貰えるのは嬉しい。評価されたことも、別に嬉しくない訳ではないです。でも、あれは……あんなのは、所詮、とっくに褪せている絵なんです……」
「とっくに褪せてる?」
「はい。あの絵は、描く前から、完成しないことが分かっていた絵なんです。……だけど、描かないわけにはいかなかったんです」
「それは、どうして」
ふと、ばち、と視線がぶつかった。
が――春宮は俺の質問に応えなかった。
そのかわり、今朝、あの絵を眺めていた時のように悲しげで、どこか諦めたような眼差しのまま。
私は、と、彼女は口を開いた。
「私は別に――天才なんかじゃないんですよ」