追いかけてくる声を振り切るように、意識して早歩きをした。教室のある廊下の前にいるのが嫌で、人気のない棟へと、意味もなく突っ込んでいく。
日の当たりにくい朝の西棟は薄暗い。しかもあまり使われていないからか、廊下の照明が灯っていない。
東棟が一年生から三年生の教室がお行儀よく並ぶ棟だとすれば、西棟は特別教室がある棟だ。金工木工室、家庭科室、理科室、美術室、そして音楽室。
ホームルームはもう終わっているだろう。怜音は帰ったか、それとも授業を受けるのだろうか。基本、授業を受けるか否かについても、怜音は気まぐれだ。だるいね、サボらない? とそう誘われるまま、俺も授業に出ないことがままあった。だがここには、小学校になる前から腐れ縁の悪友はいない。
「ハー……」
薄暗い階段を上りながら、ボリボリと頭をかく。特に行き先を決めていたわけではなかったが、ただなんとなく一段一段、上っていった。やや冷えた空気の満ちた薄暗い階段に響く、たす、たす、という上履きの足音を聞きながら、一段一段。
そして階段を上りきったところで、最上階――四階に着いたとわかった。屋上は閉鎖されているので、これ以上は上れない。
「……あ?」
視界を、さっと人影が横切った。長い黒髪が一瞬見えて、曲がり角の向こうに消える。
――あれは、もしや。
最後の一段を飛ばして、小走りで後を追う。曲がり角を曲がると、これまた薄暗い廊下の先で、女子がひとつの部屋に入っていくのが見えた。奥の教室。――第二音楽室だ。
(今のって、春宮、だよな……?)
もう授業中だろうに、なんでこんなところに一人で。音楽室に用でもあるのか。美術部のホープが、音楽室に何の用だ。まさかサボり? そういうタイプには見えなかったが――。
生まれては消える取り留めもない疑問を抱え、音楽室へと歩いていく。自然と早足になる。
ポーン。
聞こえてきた音に、ハッとした。息を呑んだ。――Cメジャー。ド、ミ、ソの長三和音。
いや、きちんとした和音と言うにはお粗末な音だった。同じタイミングで鍵盤を押さえられていない。ポーン、というよりは、ジャーン、といった様子。
ガラス窓から中を覗き込む。グランドピアノの椅子に座っているのは、やはり春宮美涼だった。左手をだらんと下げたまま、右手を鍵盤に乗せている。顔は俯けられ、どんな表情が浮かんでいるのか、わからない。
(なんでピアノを……何やってんだ、あいつ。そもそもピアノなんて弾けたのか?)
Cメジャーに続いてCマイナー。レファラの短三和音。レミファ#ソラシド#、ニ長調の音階。意味もなく、脈絡もなく、規則もなく、音が紡がれていく。
何がしたいんだと思っていると――ふと不規則に紡がれていた音が、唐突に意味を持った。
嬰ハ短調。アレグロ・アジタート。……のはずだが全くアレグロではないし、テンポもめちゃくちゃだ。右手だけ、しかも、ひどく拙い。運指を習ったとはとても思えないたどたどしさだが、これは。
「幻想即興曲、の冒頭……?」
即興曲第四番嬰ハ短調・遺作作品六十六番――通称『幻想即興曲』。
ピアノの名手であったフレデリック・ショパンが一八四三年に作曲したピアノ曲であり、四つある即興曲の中でも最もよく知られている曲だ。「幻想即興曲」という呼び名は、ショパンの死後に友人であるユリアン・フォンタナによって名付けられたものだと言われている。
よく知られているのは五小節目から始まるパッセージだ。高速に動く右手の音が印象的だが――しかし左手は六連符、右手は十六分音符と刻むリズムが違うこともあり、左手の音が固まっていないと加速度的にズレていく難しさがある。
(左手は……弾かねぇのか? 片手ずつの練習?)
練習としては理にかなっている。この難度の曲を初めから両手で完璧に弾けるとすれば、それなりの時間ピアノに触れていた者だけだ。だが――春宮の音を聞いていると、まだ、幻想即興曲を練習するようなレベルには至っていないように思えた。
「つうかどうして天才少女画家様が授業中にピアノなんて……」
呟いてみてから、アアア、と思って両手で頭を掻いた。……ああ、くそ。興味津々かよ。
あの絵を描いた少女が、そして自分の作品をぼやけた絵と評した少女が、どうしてピアノを弾いているのか。どう考えてもレベルに合っていないような幻想即興曲を弾こうとしているのか。どうして――。
「はあーーーーッ」
妙な恥ずかしさと後ろめたさ、そして僅かな高揚感を抱いたまま、引き戸に手を掛ける。
そしてなるべく音を立てないようにしながら中に入ろうとして、
「……ちがう」
春宮美涼が、
「ちがう」
鍵盤を見下ろしたまま、
「この音じゃない……!」
泣いていることに気がついた。
日の当たりにくい朝の西棟は薄暗い。しかもあまり使われていないからか、廊下の照明が灯っていない。
東棟が一年生から三年生の教室がお行儀よく並ぶ棟だとすれば、西棟は特別教室がある棟だ。金工木工室、家庭科室、理科室、美術室、そして音楽室。
ホームルームはもう終わっているだろう。怜音は帰ったか、それとも授業を受けるのだろうか。基本、授業を受けるか否かについても、怜音は気まぐれだ。だるいね、サボらない? とそう誘われるまま、俺も授業に出ないことがままあった。だがここには、小学校になる前から腐れ縁の悪友はいない。
「ハー……」
薄暗い階段を上りながら、ボリボリと頭をかく。特に行き先を決めていたわけではなかったが、ただなんとなく一段一段、上っていった。やや冷えた空気の満ちた薄暗い階段に響く、たす、たす、という上履きの足音を聞きながら、一段一段。
そして階段を上りきったところで、最上階――四階に着いたとわかった。屋上は閉鎖されているので、これ以上は上れない。
「……あ?」
視界を、さっと人影が横切った。長い黒髪が一瞬見えて、曲がり角の向こうに消える。
――あれは、もしや。
最後の一段を飛ばして、小走りで後を追う。曲がり角を曲がると、これまた薄暗い廊下の先で、女子がひとつの部屋に入っていくのが見えた。奥の教室。――第二音楽室だ。
(今のって、春宮、だよな……?)
もう授業中だろうに、なんでこんなところに一人で。音楽室に用でもあるのか。美術部のホープが、音楽室に何の用だ。まさかサボり? そういうタイプには見えなかったが――。
生まれては消える取り留めもない疑問を抱え、音楽室へと歩いていく。自然と早足になる。
ポーン。
聞こえてきた音に、ハッとした。息を呑んだ。――Cメジャー。ド、ミ、ソの長三和音。
いや、きちんとした和音と言うにはお粗末な音だった。同じタイミングで鍵盤を押さえられていない。ポーン、というよりは、ジャーン、といった様子。
ガラス窓から中を覗き込む。グランドピアノの椅子に座っているのは、やはり春宮美涼だった。左手をだらんと下げたまま、右手を鍵盤に乗せている。顔は俯けられ、どんな表情が浮かんでいるのか、わからない。
(なんでピアノを……何やってんだ、あいつ。そもそもピアノなんて弾けたのか?)
Cメジャーに続いてCマイナー。レファラの短三和音。レミファ#ソラシド#、ニ長調の音階。意味もなく、脈絡もなく、規則もなく、音が紡がれていく。
何がしたいんだと思っていると――ふと不規則に紡がれていた音が、唐突に意味を持った。
嬰ハ短調。アレグロ・アジタート。……のはずだが全くアレグロではないし、テンポもめちゃくちゃだ。右手だけ、しかも、ひどく拙い。運指を習ったとはとても思えないたどたどしさだが、これは。
「幻想即興曲、の冒頭……?」
即興曲第四番嬰ハ短調・遺作作品六十六番――通称『幻想即興曲』。
ピアノの名手であったフレデリック・ショパンが一八四三年に作曲したピアノ曲であり、四つある即興曲の中でも最もよく知られている曲だ。「幻想即興曲」という呼び名は、ショパンの死後に友人であるユリアン・フォンタナによって名付けられたものだと言われている。
よく知られているのは五小節目から始まるパッセージだ。高速に動く右手の音が印象的だが――しかし左手は六連符、右手は十六分音符と刻むリズムが違うこともあり、左手の音が固まっていないと加速度的にズレていく難しさがある。
(左手は……弾かねぇのか? 片手ずつの練習?)
練習としては理にかなっている。この難度の曲を初めから両手で完璧に弾けるとすれば、それなりの時間ピアノに触れていた者だけだ。だが――春宮の音を聞いていると、まだ、幻想即興曲を練習するようなレベルには至っていないように思えた。
「つうかどうして天才少女画家様が授業中にピアノなんて……」
呟いてみてから、アアア、と思って両手で頭を掻いた。……ああ、くそ。興味津々かよ。
あの絵を描いた少女が、そして自分の作品をぼやけた絵と評した少女が、どうしてピアノを弾いているのか。どう考えてもレベルに合っていないような幻想即興曲を弾こうとしているのか。どうして――。
「はあーーーーッ」
妙な恥ずかしさと後ろめたさ、そして僅かな高揚感を抱いたまま、引き戸に手を掛ける。
そしてなるべく音を立てないようにしながら中に入ろうとして、
「……ちがう」
春宮美涼が、
「ちがう」
鍵盤を見下ろしたまま、
「この音じゃない……!」
泣いていることに気がついた。