「いや誰だよ」
「まじィ? 知らないの?」
伶音がウワーという顔をした。腹の立つ顔だな……。
「春宮美涼。うちの学校のアイドルじゃん。美少女天才画家、有名だろー? くわしくないけど、何度も大きなコンクールで賞を取ってるって話じゃん。まあ俺、別に絵とか興味ないけど、顔が好きなのよ顔が。可愛いよなあ」
「はるみやみすず」
「アハ。赤ちゃんみたいな発音じゃん。……まあ、お前は知らないか、こういうの」
「誰が赤ちゃんだおいコラ」
……いや。
ふと思う。はるみや、みすず。たしか最近どこかでその名前を――。
あ、と不意に伶音が口を開いた。そして、ステージ上を指さす。
「あれが美涼ちゃんだよ」
指につられて、視線を上げた。
いつもは長々と続けられる教師の挨拶は短くまとめられ、いつの間にやら校長が、ステージの中央に置かれたマイクスタンドの前に立っている。朝礼でいつも使うハンドマイクではなく、表彰に使うようなそれに、目を瞬かせた。
(いや、ようなじゃなくて、実際に表彰でも……、
――え?)
ステージ上に一人の生徒が上がった。背筋を伸ばし、艶やかな黒髪を靡かせ、スカートの裾を翻して。その、出色のオーラと美貌にも驚いたが、
何より――絵画の中の女ように整った彼女の横顔に、見覚えがあったことに驚愕した。
「――春宮ってあいつかよ!」
「エッ何お前美涼ちゃんと知り合い?」
思わず発した叫び声に、怜音が目を剥いたのがわかった。いや、それよりも。
(じゃあ、天才少女画家っていうのは……)
「ちょっと無視しないでもらっていい?」
『表彰状。K県美術絵画コンクール自由テーマ部門中学生の部金賞』
伶音の抗議を遮るようにして、校長の声が朗々と響く。『――春宮美涼さん』
「はい」
金色の鈴を振ったような、柔く、涼やかな声。銀ではなく、金色の鈴。ソ、の音。
K県美術絵画コンクール、その名前もまた聞き覚えがあった。脳裏にあの、緑の森と、紫の炎が甦る。
と、ということは。まさか、あの絵を描いたのは――。
(はァ……⁉)
意味がわからない。どうしてだ。
自分がこの絵の作者だとあの場で言わなかったことも割と業腹だが、それはいい。
所詮ぼやけた絵だとあいつは言った。怒りさえこもったような醒めた瞳で、あの絵を見て。
――どういうつもりであんなこと言ったんだ。
凛と背筋を伸ばして賞状を受け取る春宮美涼を、半ば呆然と見上げる。ステージの上に立つ春宮の顔は、ここからではとても見えない。
思わず、グ、と拳を握りこんだ。
(どうして自分の作品を、あんなふうに冷めた目で……)
ステージ上で春宮が賞状を持って一礼する。
瞬間沸き起こった割れんばかりの拍手の中、俺はじっと春宮の背中を見つめていた。
*
「おい」
朝礼が終わり、体育館から帰る途中のことだった。背後から横柄な声がした。無視をして足を進め続けると、今度は幾分か張った声で同じ二文字が繰り返される。「おい」
「……なんスか」
低められた声にうんざりしながら振り返れば、案の定生活指導の山田が仏頂面で仁王立ちしていた。シャツの上にくたびれたジャージを着た山田は、腕を組んだまま苛立たし気に指で自分の腕を叩いている。
「教師が呼びかけてんだから無視をするな。聞こえない振りなんてして、何様のつもりだ」
そっちこそ声をかけてるつもりなら、名前くらい呼んだらどうなんだよ。
口には出さなかったが表情には出たようで、山田は眉間にさらに皺を刻んだ。
「なんだ、その顔は。なんとか言ったらどうなんだ」
「呼んだのはあんたの方だろ。何の用なんだよ」
「なんだその口の利き方はッ」
早く本題に入れよ。
そう思ったが、実際に口にすれば、また余計な説教がここに加わるのだろうと思うと反論する気にもなれない。
「大体、久々に朝礼に出席したかと思えば体育館シューズはどうした? スリッパでペタペタ、しかもきちんと列にも並ばず、お前三年生として恥ずかしくないのか?」
「忘れただけです。ンなミス、俺だけじゃなくて普通にあるだろ」
「ほうら反省した態度もない。そもそも人の話を聞くときにポケットに手を突っ込むな!」
横を通りすぎようとする二年生の数人組が、恐る恐るというように、しかしその奥に好奇心の光を隠さないまま、こちらにちらちらと視線を寄越す。制服を着崩した柄の悪い上級生が教師に怒鳴られているのが恐ろしいのか、一年生の女子があからさまに視線を背けて足早に去っていく。
「だいたい何なんだ、学校を好き勝手サボって。まさかこの国に義務教育とう制度があるということすら知らないわけじゃないだろう? お前はなんといっても成績だけはいいからな。それともまさかカンニングでもしていたのか」
「してねえよ」
「だらしない恰好して、昔の不良気取りか? ふん、痛々しい。大人に反抗することがかっこいいとでも思ってるんなら、恥ずかしい誤解だから今すぐにやめるんだな。それに成績がいいからってなんでもしていいと思っていたら大間違いだ。お前、このままじゃあろくな大人にならないぞ」
お前のために言ってやってるんだ、と、お決まりのセリフがくっつく。
ふん、と鼻で息をついた。――このままじゃろくな大人にならない。そんなこと、言われなくたって知っている。「そうかもな。あんたが正しいよ先生」
学校をサボること、校則の範疇を逸脱して制服を着崩すこと、外で喧嘩をすること、補導されること。ひと昔前の不良気取りで痛々しい、確かにその通りだ。成績がいいから何をしてもいいわけではないというのも正論だ。正しい。普遍的な理想。大多数の当たり前。
自分で理由もわからないのに、ただなんとなく『普通』に、『いい子』に過ごすのが嫌で、三年以上もぼんやりしている。自分が何をしたいのかわからないままずっと。
そんなことは、誰かに指摘されるまでもなくわかっているのだ。
「じゃーもう行くから」
「おい、話はまだ終わってないぞ北条! 待て!」
だが今は、自分が何をしたいのか、これから何になりたいのか、考えるだけで億劫だった。
「まじィ? 知らないの?」
伶音がウワーという顔をした。腹の立つ顔だな……。
「春宮美涼。うちの学校のアイドルじゃん。美少女天才画家、有名だろー? くわしくないけど、何度も大きなコンクールで賞を取ってるって話じゃん。まあ俺、別に絵とか興味ないけど、顔が好きなのよ顔が。可愛いよなあ」
「はるみやみすず」
「アハ。赤ちゃんみたいな発音じゃん。……まあ、お前は知らないか、こういうの」
「誰が赤ちゃんだおいコラ」
……いや。
ふと思う。はるみや、みすず。たしか最近どこかでその名前を――。
あ、と不意に伶音が口を開いた。そして、ステージ上を指さす。
「あれが美涼ちゃんだよ」
指につられて、視線を上げた。
いつもは長々と続けられる教師の挨拶は短くまとめられ、いつの間にやら校長が、ステージの中央に置かれたマイクスタンドの前に立っている。朝礼でいつも使うハンドマイクではなく、表彰に使うようなそれに、目を瞬かせた。
(いや、ようなじゃなくて、実際に表彰でも……、
――え?)
ステージ上に一人の生徒が上がった。背筋を伸ばし、艶やかな黒髪を靡かせ、スカートの裾を翻して。その、出色のオーラと美貌にも驚いたが、
何より――絵画の中の女ように整った彼女の横顔に、見覚えがあったことに驚愕した。
「――春宮ってあいつかよ!」
「エッ何お前美涼ちゃんと知り合い?」
思わず発した叫び声に、怜音が目を剥いたのがわかった。いや、それよりも。
(じゃあ、天才少女画家っていうのは……)
「ちょっと無視しないでもらっていい?」
『表彰状。K県美術絵画コンクール自由テーマ部門中学生の部金賞』
伶音の抗議を遮るようにして、校長の声が朗々と響く。『――春宮美涼さん』
「はい」
金色の鈴を振ったような、柔く、涼やかな声。銀ではなく、金色の鈴。ソ、の音。
K県美術絵画コンクール、その名前もまた聞き覚えがあった。脳裏にあの、緑の森と、紫の炎が甦る。
と、ということは。まさか、あの絵を描いたのは――。
(はァ……⁉)
意味がわからない。どうしてだ。
自分がこの絵の作者だとあの場で言わなかったことも割と業腹だが、それはいい。
所詮ぼやけた絵だとあいつは言った。怒りさえこもったような醒めた瞳で、あの絵を見て。
――どういうつもりであんなこと言ったんだ。
凛と背筋を伸ばして賞状を受け取る春宮美涼を、半ば呆然と見上げる。ステージの上に立つ春宮の顔は、ここからではとても見えない。
思わず、グ、と拳を握りこんだ。
(どうして自分の作品を、あんなふうに冷めた目で……)
ステージ上で春宮が賞状を持って一礼する。
瞬間沸き起こった割れんばかりの拍手の中、俺はじっと春宮の背中を見つめていた。
*
「おい」
朝礼が終わり、体育館から帰る途中のことだった。背後から横柄な声がした。無視をして足を進め続けると、今度は幾分か張った声で同じ二文字が繰り返される。「おい」
「……なんスか」
低められた声にうんざりしながら振り返れば、案の定生活指導の山田が仏頂面で仁王立ちしていた。シャツの上にくたびれたジャージを着た山田は、腕を組んだまま苛立たし気に指で自分の腕を叩いている。
「教師が呼びかけてんだから無視をするな。聞こえない振りなんてして、何様のつもりだ」
そっちこそ声をかけてるつもりなら、名前くらい呼んだらどうなんだよ。
口には出さなかったが表情には出たようで、山田は眉間にさらに皺を刻んだ。
「なんだ、その顔は。なんとか言ったらどうなんだ」
「呼んだのはあんたの方だろ。何の用なんだよ」
「なんだその口の利き方はッ」
早く本題に入れよ。
そう思ったが、実際に口にすれば、また余計な説教がここに加わるのだろうと思うと反論する気にもなれない。
「大体、久々に朝礼に出席したかと思えば体育館シューズはどうした? スリッパでペタペタ、しかもきちんと列にも並ばず、お前三年生として恥ずかしくないのか?」
「忘れただけです。ンなミス、俺だけじゃなくて普通にあるだろ」
「ほうら反省した態度もない。そもそも人の話を聞くときにポケットに手を突っ込むな!」
横を通りすぎようとする二年生の数人組が、恐る恐るというように、しかしその奥に好奇心の光を隠さないまま、こちらにちらちらと視線を寄越す。制服を着崩した柄の悪い上級生が教師に怒鳴られているのが恐ろしいのか、一年生の女子があからさまに視線を背けて足早に去っていく。
「だいたい何なんだ、学校を好き勝手サボって。まさかこの国に義務教育とう制度があるということすら知らないわけじゃないだろう? お前はなんといっても成績だけはいいからな。それともまさかカンニングでもしていたのか」
「してねえよ」
「だらしない恰好して、昔の不良気取りか? ふん、痛々しい。大人に反抗することがかっこいいとでも思ってるんなら、恥ずかしい誤解だから今すぐにやめるんだな。それに成績がいいからってなんでもしていいと思っていたら大間違いだ。お前、このままじゃあろくな大人にならないぞ」
お前のために言ってやってるんだ、と、お決まりのセリフがくっつく。
ふん、と鼻で息をついた。――このままじゃろくな大人にならない。そんなこと、言われなくたって知っている。「そうかもな。あんたが正しいよ先生」
学校をサボること、校則の範疇を逸脱して制服を着崩すこと、外で喧嘩をすること、補導されること。ひと昔前の不良気取りで痛々しい、確かにその通りだ。成績がいいから何をしてもいいわけではないというのも正論だ。正しい。普遍的な理想。大多数の当たり前。
自分で理由もわからないのに、ただなんとなく『普通』に、『いい子』に過ごすのが嫌で、三年以上もぼんやりしている。自分が何をしたいのかわからないままずっと。
そんなことは、誰かに指摘されるまでもなくわかっているのだ。
「じゃーもう行くから」
「おい、話はまだ終わってないぞ北条! 待て!」
だが今は、自分が何をしたいのか、これから何になりたいのか、考えるだけで億劫だった。