「――考えるだにキツそうだけどな」
「いいんです。少しでも認められたと思えば、この程度の努力なんてことありません。何より私のミューズは秀才なので、助けになってくれますし」
「おいコラ何俺を当然のように使おうとしてんだお前は」
「ダメなんですか?」
「断られる想定を一ミリもしてないような目だな、おい……」
他愛もない会話を交わしながら三年生のフロアへと階段を上がっていく。
途中、生活指導の山田、という教師に行き会ったが――何故か彼は美涼と奏介の組み合わせを見ると顔を歪め、そそくさとどこかへ行ってしまった。
「どうしたんでしょう、今の先生。逃げるように行ってしまいましたね」
「さあな、舐め腐ってた不良がそこそこピアノを弾けたってことが気に食わないんじゃないのか」
「なるほど。そういえばソフィアコンの本選、新聞とかにも取り上げられていましたもんね」
本選での奏介の演奏は、いつだったかのとびきり失礼な水原とかいう記者の雑誌などには『酷い演奏』だの『妹の踏み台となった』などと酷評されていた。
しかし一方で一部の新聞や音楽雑誌では、『妹を庇って怪我をしながらも最後まで弾き切った』『一曲目はもちろん、二曲目の途中までは間違いなく宝生響の演奏に劣らない出来』『かつての神童の面目躍如』などと持ち上げられてもいたのだ。
奏介自身は『響がインタビュー記者に余計なことを言った』と不本意そうにしていたが――それでも、こういった新聞やら雑誌やらの記事によって、生徒らの奏介を見る目が変わったのも間違いなかった。それが美涼には嬉しいようで、寂しいようでもあった。
「そういえば徽音芸術はもう少しで学校説明会と学内見学があったな」
三年のフロアに辿り着いたところで、奏介が思い出したようにぽつりと呟いた。
「はい。来月、行くつもりです」
「なるほど。じゃ、もしかしたら向こうで会うかもしれねぇな」
「ええ、そうですね………………え?」
思わず、立ち止まる。
あまりにも自然に言うものだから、あやうく聞き流すところだった。「ま、待ってください。む……『向こうで会う』と、今?」
「ああ」
奏介も、足を止める。
そして、立ち尽くす美涼を振り返って言った。
「そういえば言ってなかったな。
――俺も受けることにしたんだよ。徽音芸術の音楽科」
頭を殴られたような衝撃があった。
「は」何かを言おうとして、美涼の口からは想像以上に間抜けな声が出た。「初耳なのですが……」
「そりゃ今言ったからな」
「で、でもどうしてまた……そんな素振りなかったじゃありませんか」
須臾の沈黙。そして、ややあってから奏介は口を開いた。――そんなの、
「もっと上手くなりたいと思ったからに決まってる」
「……!」
「徽音芸術は公立には珍しく音楽留学の制度が充実してるんだよ。俺はもう有名なピアニストにコネもないし、外国に行くことも視野に入れるなら、進学先はあそこしかねぇ」
「留学……」
予想だにしなかった言葉に美涼が半ば呆然としていると、ああ、と頷いた奏介が窓の方を向いた。秋晴れの空はきんと青く澄んでいる。……クラシックの本場、ヨーロッパに繋がる空。
「日本はまだまだクラシック後進国って言われてる。本気で成長したいと思うなら、外国を目指さなきゃいけない。
俺は親父の意志とは全く関係なく、上を目指すよ。お前の言う通り、俺は根っからのピアニストだ。それがわかった。多くの人に聴いてもらうピアニストになるには、上に行かなきゃな」
――俺は天才じゃないから、と奏介は言う。たとえ俺を天才だと言う奴がいたとして、あくまでそれは『クラシック界に掃いて捨てるほどいる天才』に過ぎない、と。
才能だけでは勝負ができない世界なのだ。
できるだけのことは、やらなければならないと思うから――。
「君は……遠くを見てるんですね」
壮大な話だと思った。どこに向かうべきか迷っていたのは彼だって同じはずなのに、いつの間にかひどく差をつけららたような気分だった。
だが。
「なに、他人事みたいな顔してんだよ」
「……え?」
「芸術家の創作意欲に最高の刺激を与えるのがミューズの役目だ。――俺に、私のために弾け、って言ったのはお前だろうが、春宮美涼」
奏介が美涼を見た。美涼は視線を返した。
スラックスのポケットに手を突っ込んだ、『いつも通り』の態度の彼は、静かな、しかし決然とした瞳をしていた。
「俺が、春宮美涼を世界一の画家にする」
刹那。
彼の言葉とともに、紫が弾けた。
それは、初めて聴いた『幻想即興曲』に視た炎と同じ色だった。
――そうだ。
これは、私が言い出した約束だ。
奏介のピアノが美涼を救った。そして初めて出会い、美涼が奏介を舞台まで引き上げた。
何もかも、そこから始まったのだ。
「……何やら、少し思い違いをしているようですね」
「あ?」
美涼は笑った。笑って、言った。
「逆ですよ。
――私が、君というピアニストを世界中に知らしめるんです」
秋晴れの日差しが、まるでスポットライトのように美涼と奏介、二人を照らす。
奏介は驚いたように、しばらくの間美涼を見ていたが――やがて不敵に笑ってこう言った。
「上等だ」
――音描く君のミューズ。
これは、ワケありの二人の『天才』が、
互いで互いの芸術を、世界に魅せるための物語。