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「……タイトルはタイトルで腹に据えかねるモンがあるが」

 二人でそのまま昇降口まで赴き、下駄箱で靴を上靴へと履き替える。早い時間の学校は無人というわけでもなく、朝練のある音楽系部活の部員たちが慌ただしく動いている。時折聞こえてくるのはトランペットの音か。赤、象牙、ピンク。
 下駄箱の蓋を閉め、さあ教室へ向かおうとなる場所で、はァ……と奏介がため息をついた。苦虫を噛み潰したような、という言葉はまさに彼の今の顔のためにあるようである。

「そもそも、なんっでこんな目立つ場所に……。これのおかげでこの絵のピアニストは俺じゃないのかみたいな話が出回ることになったんだぞ」

そう。昇降口、下駄箱の群れを抜けてすぐ目の前の壁。『ノクターン第二番変ホ長調』は、そこに飾ってあった。端的に言って生徒全員の目に留まる場所である。

奏介が大きなピアノコンクールで本選に残ったことは、興味本位で見に来た生徒によって細々と囁かれていたものの、この絵のせいで火がついたような騒ぎになった。
あの北条奏介がピアノを、という噂には、あのマスコミの件からもともと火種が撒かれていた。それがこの絵で盛大に燃え上がったのだ。

 ふふんと美涼が鼻を鳴らした。

「目立つからいいんでしょう。聴いてもらってこその音楽、見てもらってこその絵ですよ」

 通常、美涼は視えた色を、音楽そのものを聴いて湧いてきたイメージを元に選んだモチーフに落とし込んで描いている。そのため抽象画というよりは写実画のような画面となっている。無論実態としては、想像画が正しいのであるが。

 ――しかし今回の『ノクターン』は、ほとんど視たままをそこに描いた。
 画面いっぱいのオーロラ。
 夜空に浮かぶ光の帯は、実際のオーロラのそれより遥かにさまざまな色をしている。絶えず形と色を変え、濃藍の天球を彩る。

 そしてその広大なオーロラの下で、一人の男がピアノを弾いていた。頭は俯けているので、どういう顔をしているかはよく見えない。しかしどうしてだか、恋人に囁くような甘やかな表情をしているように思える。
 揺れる光の帯はまさしく奏介のノクターンを聴いて、視たものだった。たった一日、それでも、納得の行く出来になったと思っていた。

「……それでお前、勉強と推薦の準備は進んでるのか」
「ええ」苦々しげな声ながらも気遣うように問われ、頷く。「大丈夫。必ずやり遂げて見せます、これは、私が決めたことですから」

 美涼は、母親と交わした会話を思い出す。


 
 ――寝る間も惜しんで死ぬ気で絵を完成させ、なんとかコンクール事務局に郵送が間に合った、八月五日の夕方。

三日から『うちに泊まっていっていいわよ』という奏介の母親の言葉に甘えて、美涼はほとんど家出の気持ちで奏介の家で絵を描いていた。置かせてもらって回収し損ねていた画材諸々が奏介の家にあったため、そして母のあの勢いならば学校の美術室にいて絵を描いていても乗り込んでくるかもしれないと危惧したためだ。

 一日二日とはいえ家に帰らず、『しばらく帰りません』以外に連絡も取ろうとしなかった美涼に、当然と言えば当然だが母親は激怒した。『一体今まで何をしていたの』『親を心配させて何がそんなに楽しいのよ』『あなたのために言っているのに』『どうして言うことを聞かないの』

この後の夏休みは自由時間がほとんどなかった。母親が、受験生がふらふらと遊びに行くなと命じた故だ。

 絵を捨てられたこともあり、美涼と母親はこの間ずっと険悪だった――だが。
 変化があった。美涼の絵が全国規模のコンクールで最優秀を取ったためだ。
 母はさぞかし驚いたろう、と美涼は思う。

提出締切の時期からも、母は自分が破いた絵がこのコンクールに出そうとしていた絵であった、ということは察したはずだ。
実際に、母に聞かれた。なぜ、最優秀を取ることができたのか。あれからたった一日しかなかったはずなのに、どうして――と。

答えは一つしかない。


『そのたった一日で、死ぬ気で完成させたんですよ。私はどうしてもこのコンクールで最優秀を取って、お母さんに認めてもらいたかった……遊びで絵をやっているわけじゃないんだと示したかったんです』
『……遊びじゃない、ですって? 芸術の世界で生きていこうと言うの? 足元の覚束ない芸術の世界で?』
『厳しいことはわかっています。ですが、私は本気なんです。私はこのまま絵の道を進みたい。今回のコンクールで、推薦を貰うのに十分すぎる実績を得ました。

だから私は、ここの……徽音芸術の推薦入試を受けたいと考えています』