十月の中旬にもなると、すっかり秋が深まった心地になる。


紅葉が始まり、窓の外を見れば赤く色を染めた桜の葉が散っていくのを見るのが、春宮美涼はいっとう好きだった。紅葉して散っていった葉々は何万枚とあるのに、まったく同じ色をした葉が二枚存在することはない。葉一枚一枚の唯一性が、美涼の普段視ている世界とよく似ている。瞬間瞬間に、ひとつひとつの音が色を変え、かたちを変える。

 校門から校舎へ歩いていくにつれ、人の声が増える。ざわめきや喧騒は苦手でも、ささやかな人の声の色を視るのは嫌いじゃなかった。

(彼女は朱色、あの人は檸檬色、あの先生はヴァイオレット、浅葱色……)

 桜紅葉を踏んだローファーがかさりと音を立てた。これは水色。赤い紅葉と黒いローファーの真ん中から空の色が飛び出して苦笑した。……美涼が色を視ているこの音に、彼はきっと音階を当てはめるだろう。生まれつきでも完全でもないというが、彼の耳は絶対音感を宿している。


「春宮」


 ふと呼びかけられて振り向けば、見知った顔が立っていた。制服を着崩している上に目つきが悪い彼は、相変わらず不良そのものという出で立ちだった。

「あら。おはようございます、北条くん」

 ただ、学校ではあまり――謎の呼び出しなどはあったものの――会話をしなかった一学期と違い、二学期が始まってからは学校でもよく話すようになった。
笑顔を返して挨拶をしたが、奏介は不機嫌そうに視線を返してきた。

「……えらく機嫌がいいな。朝から何かうまいものでも食ったのかよ」


「いいえぇ違いますよう」歌うように否定する。「私の機嫌がいいのは昨日からですよ? 何せ私の絵が校内の目立つところに展示されたのは昨日なんですからね」

 すると。
チィッ! と、到底ギフテッドのピアニストとは思えないような鋭い舌打ちをした奏介が、うなるような低い声で言う。「お前……絵にあんなタイトルつけやがって……!」

「なんですか? 作者がどんなタイトルをつけようが作者の自由じゃないですか?」
「てめぇ……」

 すわその筋の男かというような視線で射られても、美涼の上機嫌は変わらなかった。


 ――そう。春宮美涼が全国学生美術コンクール中学生の部最優秀賞を獲得した絵は、昨日から校内に展示され出した。

 そして、その題名を――『ノクターン第二番変ホ長調 二〇二二・八・三』という。








「……これでいいの?」


あの日。

電話で奏介に呼びつけられた怜音が奏介の家まで持ってきたのは、USBメモリだった。目を白黒させる美涼とは裏腹に、奏介は呼びつけた怜音からメモリを受け取って「ああ」とだけ応える。急いできてやった俺に礼とかないわけ、と文句を言う彼に、おざなりに礼を言う奏介に、美涼は思わず聞いた。

「な、なんですか? どうして今、USBメモリなんか……」
「ただのUSBメモリじゃない」

戸惑う美涼に、奏介はあくまで落ち着いた口調で言った。


「ここには、今日俺が弾いた本選の課題曲が入ってる」



――奏介の結婚式とかで流せばいいじゃん。大丈夫、途中で音飛んだりしたら録画止めてあげるから。
怜音はそう言って、第二次予選と同じ録音・録画機材を持ってきていた。ふざけた理由が本心かどうかはともかく、確かに怜音はあの時の奏介の演奏を撮り続けていた。

そしてあの日、奏介は、左の音をかすれさせながらも、一度も演奏を止めたりはしていない。

「生の音の方が迫力がある。高性能ビデオカメラとはいえ所詮録音だ、ホールとは響きも違う。視た音と若干の違いも出るかもしれないが、可能性はあるだろ」
「!」

 ――そうかもしれない。

 息を呑んだ美涼はUSBメモリを受け取り、貸してもらったパソコンに繋いだ。
 奏介は気恥ずかしいのか少し距離を取ってしまったが、逸る気持ちのままに、データを呼び起こし、再生ボタンを押す。

 そして。

「……っ」


 色が溢れた。


 シンプルなインテリアで統一されたリビングが、光の帯に包まれて煌めく。

 幻想的な夢のような光景だった。畏れを抱くうつくしさ。
 たしかに、二曲目のノクターンの後半、左手がひどく弱弱しい。素人の美涼でも、おおいに乱れていると感じる。これではたしかに、コンクールで評価は得られなかったろう。

 ……だが、けして演奏として破綻しているとは感じなかった。
舞台の上で披露する演奏にしては失格もいいところであるはずなのに、どうしてこうまでも甘美に聞こえるのか。心を揺さぶられるのか。

……いや、理由なんてどうでもいい。美涼は画面の中、懸命に鍵盤を叩く奏介を見つめた。
初めて『幻想即興曲』を聴いた時も、『革命』も『悲愴』も――どんな時も変わらず北条奏介の音は素晴らしい。それだけでいいじゃないか。

「……春宮。どうだ」

 どこか気恥ずかしそうな、それでいてこちらを気遣う問いが投げかけられる。
ビデオを閉じ、顔を上げた。
不安はすっかり消えていた。


「――ありがとうございます。これで描ける」


 描くのは二曲目、ショパンのノクターンだ。『亡き王女のためのパヴァーヌ』も素晴らしかったが、恐らく彼がステージの上でもっとも弾きたかったのは二曲目だ。

「大丈夫なのか。あと一日しかねぇんだぞ」
「ええ。もう、平気です」

 否。大丈夫だとか大丈夫でないとか、締め切りもコンクールも今はどうでもよかった。
 ただ目の前にあふれた色を、何かに残したい。その一心だった。


「古今東西、ミューズに愛された芸術家は無敵です。絶対、完成させてみせます」