「……すみません、シャワーまでお借りしてしまって」
母親の服を借り、リビングのソファに座る春宮が顔を俯けて言う。
こんな様子の春宮を、今まで見たことがなかった。
俺はお茶を出してやりながら、春宮の正面のソファに座る。
「それは別にいいけど……お前、なんであんなとこに突っ立ってたんだよ」
「すみません……」
やはり、受け答えする声も暗い。
本選前はたしかに話していなかったが、それでも前に会った時は、あれほど生き生きしていたというのに。「マジでなんかあったのか」
ほんの数秒、間が空いた。そして、
「描きかけの作品を、捨てられたんです」
「……は?」
一瞬、聞き間違えたのかと思った。しかし、春宮はすぐに言葉を次いだ。
「ちょうど、塾の模試の結果が返ってきて、それが想像以上に酷かったものだから……母にそれを見られてしまって」
『美涼。これはいったい、何なの?』
『こんなのを描いていたから成績が落ちたの? どうして言うことが聞けないのよ?』
――激高した母が、そのまま、完成間近の絵を。
そう呟き、肩を落とす春宮に絶句する。捨てられた? 描いていた絵を? どうして。
(そんなまさか……いや)
そういえば俺にスケッチブックを見せた日、春宮は、家に作品を持ち帰ってこっそり描いていた、というようなことを言っていた。それがあの時に限らず、あのあとも家出こっそり作業をしていたなら。
それがバレた上に、さらに成績の悪かった模試が時機悪く返ってきて、母親に見られたのか。……最悪に最悪が重なった形だ。
「どうすればいいんでしょう。……これが、母を説得する中学最後のチャンスだったのに」
春宮はショックのあまり、衝動的に家を飛び出してきてしまったらしい。そして気がついたらここにいた、と。
無理もないとは思ったが、『捨てられた』というのは今だ信じられなかった。
あの絵は誰が見ても目を奪われる冷たいうつくしさがあった。それなのに。
「本当に捨てられたのか? 隠されたとかじゃなくて? まだやり直せる可能性は……」
「だめなんです」春宮が力なく首を振る。「破かれてしまったので」
「……っ」
破かれた。そんなことが。
何より、それならもう修正は不可能だ。
改めて飲み込んだ現状に血の気が引く。――確か締め切りまではあと一日と少ししかなかったはずだ。春宮がこんなに憔悴するのも当たり前だ。
「あと一日。それでも……死ぬ気でやれば完成させることかもしれません。ただ……それは、描くべき題材がある場合です。もう私には、描ける音がないんです」
「『悲愴』をもう一度描くのは駄目なのか。お前は視た音の色はなかなか忘れないんだろ?」
「それも、ダメなんです」
みたび否定する春宮の声は暗い。
私にとっては、あの曇天の夜こそが『悲愴』の理想形だったのだ、と彼女は言う。北条奏介の『悲愴』にあの空と、その向こうにある慟哭を視たのだと。
「たしかに、描いていた絵をそのまま再現することは出来るでしょう。でもそれでは、ただの過去の絵のコピーになってしまいます」
評価はされるかもしれない。
しかし、自分が納得できるものには到底ならない。春宮はそう言った。
――わかる気がした。音楽だろうと絵画だろうと文学だろうと、少しでも芸術をかじったものにとって、自分の作品が何かの『コピー』とされることほど、屈辱的なことはない。
自分で納得していないものを母親に認めてもらう気にはなれないのだろう。
だとして、どうすれば……いや。
「コピーでなければいいんだな?」
俺の言葉に、はっとしたように春宮が顔を上げる。
「なら、今、俺がもう一度ピアノを弾く。そうすれば、もう一度新しい絵が描けるだろ」
死ぬ気でやればできると春宮が言うなら、一日使わずに完成させられるのだろう。
試行錯誤の段階は踏めないだろうが、それでも。
「――ダメです」
しかし、春宮は言下に断った。「多くの人に聴かれるステージの上で、君が全霊を賭した演奏であるからこそのあの絵だったんです」
「けど、」
「それに」
春宮が、強い声で遮る。
……次いで、苦しげな視線が、真っ直ぐ俺の手に向けられた。
病院で、やや大袈裟に包帯が巻かれた左手に。
「その手で、どうピアノを弾くって言うんですか」
「……やろうと思えば弾ける。どんな環境でもベストを尽くすのが音楽家だ。本選も弾き切ったんだ、一曲ぐらいどうにかする。俺はお前のミューズなんだろ」
「ダメです。あなたの手も指も、これから無限大の価値を秘めている宝です。怪我の悪化で二度と演奏ができなくなったらどうするんですか」
「……ッ」
絶望に塗れてなお、強い眼差しに怯んだ。
……たしかに、そうかもしれない。ただの捻挫でも、これ以上やれば後に響くかもしれない。だが。
――だからといって。
「じゃあ、どうするってんだよ。このまま諦めるのか? お前はそれで本当にいいのか?」
諦めるのか。
好きなものだからこそ諦めたくないはずだと言ったのは、お前だっただろう。
「それは、だって、もうどうしようもないじゃないですか。あの『悲愴』以上に描くべきものが見つからない。君がステージに上がる機会はもうなく、怪我までしている。詰みなんですよ」
「それはっ……」
反論しようとして――はた、と気がついた。
いや、待て。本当に詰みか?
ステージに上がる機会はもうない、それはそうだろう。
だが春宮には、まだ聴いていない俺の音があるじゃないか。
不完全で不格好、それでも、全身全霊を賭けて臨んだステージで、この指が奏でた音を。
「……北条くん?」
突然動きを止めた俺を不思議に思ったのか、春宮が機嫌そうな声を漏らした。
俺は近くにあったスマホを掴んだ。メッセージアプリを呼び出し、電話機能をタップする。
――見つけた。盤面をひっくり返す一手を。
「なあ」
プルルル、と、小さな振動を伴うコール音。繰り返される音を聴きながら、俺は春宮を見た。
「……なんですか?」
「お前、確か――」
プツン。
コール音が途切れ、奏介? と困惑交じりにこちらを呼ぶ声が、スマホ越しに聞こえてきた。
春宮は、戸惑いの表情を浮かべたまま、視線を返してくる。その彼女に問うた。
「確か、絵の題材は――生演奏でなくてもよかったんだよな?」