「はあ? 本番直前に捻挫したぁ? だから左手庇って弾いてたのか! バカじゃん!」
「仕方ねぇだろ、響が絡まれてんのを庇ったんだよ」
「よくやった!」
「オイ……」


 本選の結果発表後。

演奏中の異変について説明を請われるまま成り行きを話せばと、怜音は一瞬で手のひらを返した。こいつは昔から響に甘いところがある。

「野郎の手より将来性抜群の女子の手の方が大事でしょ。尾を引きそうな怪我でもなし」
「いやまあそれはそうなんだがお前に言われると死ぬほど腹が立つな」
「だから、そんなんになってまで弾いたお前が普通に馬鹿」
「うるせえ馬鹿。これから病院に行くんだからいいんだよ」

 ふんと鼻を鳴らして顔を背ければ、怜音が本当かなあと眉根を寄せた。しつこい。
 でも、と母が僅かに微笑む。

「母さんは亡き王女もノクターン九の二もよかったと思うわよ。左手が途切れても、あなたの演奏は他とは違ったわ」


「――お母さんの言う通りね」


「怪我がなければ、きっといいセンまでいっていたわ……あら?」

 突如割り込んできた声に、あまり表情を変えない母が目を丸くして振り返る。怜音も大きく見開いて、俺たちのすぐ背後に立つその人物を唖然と見つめた。

「響……!」
「久しぶりね、お母さん。……お父さんがなかなか会わせてくれないから、会えて嬉しい」

 響がはにかんだように笑う。娘に話しかけられることは母にとっても意外だったのか、あまり表情を変えない母が、驚きで何も言えないでいた。

 母は響に敢えて話しかけないようにしているということを、俺はもちろん怜音も知っていた。今や父の第一の弟子である響は、父の掌中の珠であり研磨すべき石だ。自分が会いに行くのはよくないと、母はそう考えて響に声をかけないでいたのだ。
 けれど、響からこちらに来た。驚くのは当然だろう。

「お母さん。私の演奏、どうだった?」
「……素晴らしかったわ。間違いなく、あなたが本選の白眉だったと思う」
「うん。ありがとう、お母さん。でも、ちゃんと優勝を取れたわけではないと思ってるの、私」
「え……?」

 響が目を瞬かせる母から、こちらに目を向ける。じっと見つめられ眉を寄せれば、妹はどこか悔しそうに言った。「――怪我がなかったら、お兄ちゃんには負けてたかもしれないから」
「は……?」

 目を剥く。まさか、響がそんなふうに考えていたとは、全く考えていなかった。。

「ノクターン第二番。左手に満足に力が入っていないのわかってたのに、すごくきれいに聞こえたわ。もしもお兄ちゃんが万全の状態だったら……」
「響」
「……わかってる。こういうたらればは無意味だわ。でも、だからもう一度言っておく。今度会う時は、絶対に私の音で『北条奏介』の音をねじ伏せてやるから」

 響が笑顔を浮かべた。冷ややかでもなく嘲りも怒りも含まれない、晴れやかな笑顔だった。
 そうだ。

クマのキャラクターを好んだ明るい少女だった妹は、よくこういうふうに明るく笑っていた。
かつてのことを思い出し、自然と笑みが浮かぶ。「……そうかよ。やってみろ」

「ええ、もちろ…………」

 すると。言葉の途中で、突如響がフリーズした。

「……どうした、響」

何ごとだ一体。固まったままの妹に困惑しながらその視線の先を追えば、


「あ! あれ、もしかして響ちゃん⁉ おひさ~――」


「じゃっ、じゃあ! 私はもう行くから! それじゃまた!」

 怜音がいた……のだが。
響は怜音と言葉を交わす前に、ものすごい勢いで彼方へとダッシュしていってしまった。なんだったんだ、一体……。

「あれー、逃げられちゃったなー」
「……お前、あいつに何したんだ。あからさまにお前の顔見て逃げたぞ」
「なんもしてないしできるわけなくない? 俺、四年間響ちゃんと会ってないんだけど。……追いかけちゃお!」
「オイ……」

 やめてやれよと言う前に、意気揚々と駆け出す怜音。
逃げられておいて、どういう神経をしてるんだこいつは。

「嫌われるぞ……」
「……それはないんじゃないかしら」
「は?」

 呟きに返答があったので眉を寄せる。
すると、声の主――母はなんてこともないように「あら、知らなかったの」と続けた。

「昔から、響、怜音くんのこと大好きじゃないの。あのクマのキャラクターだって、子どものころ怜音くんがくれたキーホルダーがきっかけで好きになったのよ」
「うそだろ」

 なんだそれは。初耳なんだが。







外ではしとしとと雨が降り続いている。

もう八月だというのに、そのさまは夕立の土砂降りというよりは鬱々とした気分を誘う梅雨の雨のようだったが、気分はどこか清々しいままだ。

気になることといえば左手の捻挫くらいだったが、あのあとすぐに病院に行って治療を受けたので、その件に関しても人心地ついている。幼い頃からの顔見知りの医者には呆れられてしまったが――「うーん派手に捻ったね。え? この状態でピアノ弾いた? イヤー相当痛んだでしょ。君変なところ頑固でお馬鹿だよなあ」云々。

物言いには文句を言ってやりたい部分もあったが、とりあえずは後に引かないようである。

「さ、降りて。お疲れ様」
「ああ、うん」

 母の運転する車で帰宅すると――怜音とは病院に行く前に別れている――ふと降車したところ、うちの扉の前に突っ立っている人影があるのに気づいた。
雨が降っているにも関わらず、傘も差していない。

 一体何者か、と訝しみながら近づき、「誰だ、あんた」と声を掛けようとして――絶句する。

「……春宮? なんで」
「北条くん……」

――なんと。
雨の中、ずぶ濡れになってうちの前に突っ立っていたのは、春宮美涼だった。