(本格的に痛くなってきたな……)

 控え室のドアがノックされ、ソフィアコンの運営スタッフに案内されながらステージ袖まで足を運ぶ。顔を顰めながら待機場所までたどり着くと、音響を確認するために袖に常駐しているスタッフがぎょっとした顔でこちらを見た。……そんなにきつい顔をしていただろうか。

 ずきずきと時間が経つにつれ痛んでくる手首が熱を持つ。すぐにひどく腫れていないということはやはり折れてはいないようだが、軽いテーピング程度ではやはり痛みが消せない。

 前の演奏者の演奏が終わったのか、大きな拍手が降り注ぐ。はっと顔を上げた。――出番だ。


『エントリーナンバー二十九、北条奏介』


 名を呼ばれ、息を整えピアノに向かって歩いていく。
大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。最後まで全霊で弾き通す。俺がすべきことはそれだけだ。

 ――本選で演奏する曲は二曲。一曲目は共通課題、ラヴェル『亡き王女のためのパヴァーヌ』。そして二曲目は、現在出版されている曲の中から演奏者が任意の曲を選んで弾く。

コンクールを有利に戦うためには、この二曲目の選曲が重要な要素となる。課題曲と自由課題の二曲で、自分の技術と表現力を審査員にアピール必要があるからだ。今回は一曲目がゆったりとした曲であるため、二曲目が華やかで技巧を見せられる選曲をしている出場者が多い。

 だが俺は、ショパンのノクターン第二番変ホ長調を選んだ。

 夜に想うという楽曲の和名がこれ以上ないほど似合う、甘美な調べが特徴的なこの曲は――俺があの四年前の舞台で、演奏しなかった曲だったから。


「フゥ――――」


 深く呼吸。そして、鍵盤に指を置く。

まずは一曲目、ラヴェル『亡き王女のためのパヴァーヌ』。感傷的で繊細な冒頭から始まり、淡いタッチで主題が繰り返される。

 パヴァーヌとは十六世紀頃のヨーロッパで普及した舞踏を指すが、舞踏とはいっても軽快なダンスではなく、宮廷を思わせるゆっくりとしたものだ。一説によれば、ラヴェルはスペインの画家ベラスケスの描いたマルガリータ王女の肖像画から作曲の着想を得たとされており、この曲はよく誤解されるように、『亡くなった王女』に捧げられる哀歌ではないという。

 そのためイメージするのは、ベラスケスの王女のように小さな姫君が、宮廷で踊っている光景。悲しげに聞こえるメロディも、悲しげな印象を与えすぎず――絵画のような儚げなタッチを心掛ける。

 しかし、後半の、フォルテからフォルテシモにかかるクレシェンドでずきりと左手が痛んだ。
そして、間をおかずスフォルツァンド。

 疼痛に顔を歪める。


(ぐ……)
 

 だが、まだいける。

 歯を食いしばり、何度か登場するクレシェンドとフォルテに苦戦しながらも、なんとか弾き果せる。
 
 ほっと息をつく。二の腕の辺りで、額に滲んだ脂汗を拭った。

(本選の前で、まだよかった。第二次予選の『革命』なんかの前に捻挫なんかしてたら、)

 さすがに、出場を辞退していたかもしれない。


 ――そしてさらに十秒おいて、自由課題。フレデリック・ショパン作曲、夜想曲第二番変ホ長調作品9―2。

 ショパンのノクターンの中でも最もよく知られるこの曲は、しっとりとした切なげな曲調が特徴だ。変ロ長調、アンダンテ。技術的には『月光』第一楽章同様、決して高くない。しかし、表現力を込みで考えれば、難易度が大幅に引き上がる。ある種シンプルな構造ゆえに、アナリーゼ不足はじかに演奏に出るのだ――表現力が乏しければこの曲は、変奏もほぼなく緩急も少ない、眠たい曲になってしまう。

 クラシック音楽をよく知らない者でも一度は耳にしたことのある主部から始まる。ここから、ほんのわずかでも気を抜くことはできない。ワンフレーズ聴けば、ある程度弾き手の実力の底が見えてしまうような曲なのだ。しかし、肩に力を入れすぎてはならない。ルバートに気を遣い、表情豊かに歌いながらも酔いすぎないように。

 甘く切ないメロディーラインを、音の一粒一粒を煌めかせるように弾く。華美にではなく、月光に光る夜露のように繊細な輝きを意識するのだ。

 ――決して速くも、技術が必要ではない曲だ。左手は緻密な和音を描きながらも、難しい動きは要求されない。

 だが。


(想像以上に痛んできた……)


 後半を経て、コーダ。切なく美しい最後の見せ場まで来ると、本格的に左手そのものを動かすことが辛くなってきた。打鍵が弱まり、音がほとんど響かなくなる。

 ホール中が戸惑いで満ちたのがわかった。ざわめきはないが、困惑がステージまで届く。
 ついに左手が途切れ、右手だけの演奏になる。それでも、音が出なくとも、鍵盤の上は追い続ける。

(最後の二フレーズ……!)

 気力を引き絞り、左手も鍵盤を叩く。痛みが走り、音は頼りなげだったが、それでも形にはなった。そして、最後の最後の和音が、ホールに静かに響いた。

 鍵盤から指を離し、立ち上がる。拍手が響いたが、明らかに戸惑ったような、あるいはおざなりなぱらぱらとした拍手だった。『悲愴』の時とは比べるべくもないが、それでも。

 やり切った、と思った。音が出なくても、それでも、かつての自分を超えたと思った。

「……」

 清々しい気持ちで、ステージ袖へ歩いていくと、すぐ次の出番であるらしい響と目が合った。
 戦場に臨む強い眼差しだった。その目には哀れみも、気遣いもなかった。……それでいい。


「手加減しない」
「上等だよ」


 行ってこいという代わりに笑ってみせた。響は頷き、スポットライトの照らすステージ中央へと、迷いない足取りで歩いていく。


『エントリーナンバー三十、宝生響』



 ――その後の響の演奏については、わざわざ語るまでもないだろう。
 ただ、審査員の評価で他の出場者に大差をつけ、最優秀をかっさらったとだけ言っておく。