「っっぐう、」
「いった……、え、そ……奏介!?」
妹の下敷きになるような形で、踊り場に落下した。
腰の辺りに鈍い衝撃と痛み。しかし、左手で手すりを掴んでいたために一瞬勢いが殺され、さらに二階から踊り場まで大した段数もなかったことで、受け身を取ることに成功した。
俺の上にいる響も、どうやら怪我はないようだ。
「どうして……」
「どうして、はこっちのセリフだよ。何を揉めてンだ、あいつらはお前の何だよ」
「それは……学校の子が私にコンクールで結果を残されたら不都合だからって、それで彼氏に頼んで私を脅して辞退させようって――そうじゃない、奏介、怪我は、手は!?」
「いいから、とりあえず降りろ」
響は真っ青な顔のまま、慌てて俺の上から降りる。ふと身体が軽くなったので上体を起こすが、腰にも背中にもしたたかに打ち付けた以上の痛みはなかった。痣にはなるかもしれないが、骨に異常はない。痛みも少しすれば引いていくだろう。
売られた喧嘩を片っ端から買っていたことが、受け身(こんなところ)で役に立つとは。
「んで?」
ゆっくりと立ち上がり、こちらを呆然と見下ろす三人を睨み上げた。
「……てめぇらは一体、うちの妹に何をしてくれてんだ?」
怜音の言っていた森二の奴らの標的というのは俺ではなく響だったというわけだ。
裕福な家庭の子供が多く通う私立中学の女子生徒が、まさかこれほど柄の悪い男と付き合っているのは意外ではあるが、そんなことはどうでもいい。
「俺のところにマスコミが来たのも、俺を踏み台にするためだかなんだかって宝生響を貶めるようなゴシップ記事が書かれたのも、お前らのカノジョとやらの仕業か? 不良の兄貴がいるって情報を週刊誌に売れば、響の評判も落とせるしな」
あの学校に通っているなら親が大物である可能性も十分にある。その場合、学生コンクールの出場者を把握することなどわけないだろう。響の同級生なら俺の名字が北条になっていることも知っているかもしれない。
(そういえば、あの駅ピアノのある駅で会った二人組)
たとえば彼女らならば、俺が宝生奏介であるということに、当たりをつけられただろう。もちろん証拠はないが――まあ、それに関しては今はいい。
「お前まさか、北条……北条奏介か?」
「宝生響が北条の妹? 聞いてねえんだけど……!」
「まずいじゃねぇか、おい、早く行くぞ」
「っ、ちょっとあなたたち……!」
他の階段に向かって一目散に駆けていった三人組を見て、響がすぐさま後を追おうとしたので「やめろ」と止める。ドレスで行って追いつくわけがない。「どうせ顔は覚えた。ほっとけ」
響は悔しげに唇を噛んだが逆らうことはなかった。わかった、と頷いて、それから俺を見る。
「……奏介、意外と知られてるの? あいつらみたいなやつに。有名な不良?」
「別に、不良名乗った覚えはねぇよ。喧嘩売ってくる奴をのしてただけだ」
「喧嘩、強いんだ……。ってちょっと、手で殴ったりしてたの? もしかして」
「蹴ってた、主にな」
「……そう」
何の会話だ、と思いながら受け答えをしていると、響がそこでぴたりと黙り込む。
それから何かを言いたげに口をもごもごさせているので、待っていてやると――響はややあってから口を開いた。
「その……助けてくれて、ありがとう。あのままだったらまずいことになっていたかも」
「別にいい。無傷でよかったな」
「……奏介は? 奏介はどうなのよ。落ちてきた私を受け止めたのよ、指や手に怪我は?」
「大したことは――」
ない、と左手を持ち上げた時、手首に鈍い痛みが走った。受け身は取ったと思ったが、捻ってしまっていたらしい。
こちらの顔が引き攣ったのを悟ったのか、響が顔色を変える。
「ちょっと! やっぱり怪我、したんでしょ! 早く医務室に……」
「大げさだな。少し痛んだだけだ。別に骨折してるわけでもなし、すぐに痛みは引く」
「でも、ピアニストの手の怪我なのよ。後で何かあったら……。もう今日は出場を諦めて、」
「少し休めば弾ける。幸い今日引く曲は穏やかなのが二曲だ」
「――お兄ちゃん!」
真っ青な顔でこちらを見る妹に、視線を返す。お兄ちゃんと呼ばれたのは久々だった。
……四年前のあの日、舞台から逃げてから、俺はずっと腐って生きてきた。後悔しているのに後悔していることにも気づかず、負い目を感じながらもピアノを嫌ったという思い込みに雁字搦めになっていた。だが。
「なら、響。お前ならここでやめるのか?」
響が息を呑む。明らかに答えに詰まったのを見て、苦笑した。
そうだろう、やめないよな。だから――俺も逃げないのだ。
……正直、ここでやめれば楽だろう。怪我を理由に辞退。真っ当だ。自分に言い訳もできる。だが、駄目なのだ。俺の心の奥にはいまだ、予選の響の演奏が脅威として染みついている。
だからこそここで本選を避ければ、俺はきっと、また逃げたことになる。
「でもお兄ちゃんは、私のせいで」
「俺は俺の意志で妹のお前を庇った、それだけだろ。ラッキーくらいに思っておけよ。コンクールは勝負の場だ、お前が言ったんだろ。ライバルのことなんて気にしなくていい」
「だけど」
「この捻挫は別に将来に響く怪我じゃない、なら、俺はこのまま弾く。それが俺にとってベストを尽くすってことだ。……最高の演奏をするって約束したからな」
俺は勝利を以て敗北を恐れ、そのまま何もなさずに逃げた宝生奏介ではない。
「だから、お前もお前の戦場で戦え。俺のことを気にして音に揺らぎを出したりするなよ」
「いった……、え、そ……奏介!?」
妹の下敷きになるような形で、踊り場に落下した。
腰の辺りに鈍い衝撃と痛み。しかし、左手で手すりを掴んでいたために一瞬勢いが殺され、さらに二階から踊り場まで大した段数もなかったことで、受け身を取ることに成功した。
俺の上にいる響も、どうやら怪我はないようだ。
「どうして……」
「どうして、はこっちのセリフだよ。何を揉めてンだ、あいつらはお前の何だよ」
「それは……学校の子が私にコンクールで結果を残されたら不都合だからって、それで彼氏に頼んで私を脅して辞退させようって――そうじゃない、奏介、怪我は、手は!?」
「いいから、とりあえず降りろ」
響は真っ青な顔のまま、慌てて俺の上から降りる。ふと身体が軽くなったので上体を起こすが、腰にも背中にもしたたかに打ち付けた以上の痛みはなかった。痣にはなるかもしれないが、骨に異常はない。痛みも少しすれば引いていくだろう。
売られた喧嘩を片っ端から買っていたことが、受け身(こんなところ)で役に立つとは。
「んで?」
ゆっくりと立ち上がり、こちらを呆然と見下ろす三人を睨み上げた。
「……てめぇらは一体、うちの妹に何をしてくれてんだ?」
怜音の言っていた森二の奴らの標的というのは俺ではなく響だったというわけだ。
裕福な家庭の子供が多く通う私立中学の女子生徒が、まさかこれほど柄の悪い男と付き合っているのは意外ではあるが、そんなことはどうでもいい。
「俺のところにマスコミが来たのも、俺を踏み台にするためだかなんだかって宝生響を貶めるようなゴシップ記事が書かれたのも、お前らのカノジョとやらの仕業か? 不良の兄貴がいるって情報を週刊誌に売れば、響の評判も落とせるしな」
あの学校に通っているなら親が大物である可能性も十分にある。その場合、学生コンクールの出場者を把握することなどわけないだろう。響の同級生なら俺の名字が北条になっていることも知っているかもしれない。
(そういえば、あの駅ピアノのある駅で会った二人組)
たとえば彼女らならば、俺が宝生奏介であるということに、当たりをつけられただろう。もちろん証拠はないが――まあ、それに関しては今はいい。
「お前まさか、北条……北条奏介か?」
「宝生響が北条の妹? 聞いてねえんだけど……!」
「まずいじゃねぇか、おい、早く行くぞ」
「っ、ちょっとあなたたち……!」
他の階段に向かって一目散に駆けていった三人組を見て、響がすぐさま後を追おうとしたので「やめろ」と止める。ドレスで行って追いつくわけがない。「どうせ顔は覚えた。ほっとけ」
響は悔しげに唇を噛んだが逆らうことはなかった。わかった、と頷いて、それから俺を見る。
「……奏介、意外と知られてるの? あいつらみたいなやつに。有名な不良?」
「別に、不良名乗った覚えはねぇよ。喧嘩売ってくる奴をのしてただけだ」
「喧嘩、強いんだ……。ってちょっと、手で殴ったりしてたの? もしかして」
「蹴ってた、主にな」
「……そう」
何の会話だ、と思いながら受け答えをしていると、響がそこでぴたりと黙り込む。
それから何かを言いたげに口をもごもごさせているので、待っていてやると――響はややあってから口を開いた。
「その……助けてくれて、ありがとう。あのままだったらまずいことになっていたかも」
「別にいい。無傷でよかったな」
「……奏介は? 奏介はどうなのよ。落ちてきた私を受け止めたのよ、指や手に怪我は?」
「大したことは――」
ない、と左手を持ち上げた時、手首に鈍い痛みが走った。受け身は取ったと思ったが、捻ってしまっていたらしい。
こちらの顔が引き攣ったのを悟ったのか、響が顔色を変える。
「ちょっと! やっぱり怪我、したんでしょ! 早く医務室に……」
「大げさだな。少し痛んだだけだ。別に骨折してるわけでもなし、すぐに痛みは引く」
「でも、ピアニストの手の怪我なのよ。後で何かあったら……。もう今日は出場を諦めて、」
「少し休めば弾ける。幸い今日引く曲は穏やかなのが二曲だ」
「――お兄ちゃん!」
真っ青な顔でこちらを見る妹に、視線を返す。お兄ちゃんと呼ばれたのは久々だった。
……四年前のあの日、舞台から逃げてから、俺はずっと腐って生きてきた。後悔しているのに後悔していることにも気づかず、負い目を感じながらもピアノを嫌ったという思い込みに雁字搦めになっていた。だが。
「なら、響。お前ならここでやめるのか?」
響が息を呑む。明らかに答えに詰まったのを見て、苦笑した。
そうだろう、やめないよな。だから――俺も逃げないのだ。
……正直、ここでやめれば楽だろう。怪我を理由に辞退。真っ当だ。自分に言い訳もできる。だが、駄目なのだ。俺の心の奥にはいまだ、予選の響の演奏が脅威として染みついている。
だからこそここで本選を避ければ、俺はきっと、また逃げたことになる。
「でもお兄ちゃんは、私のせいで」
「俺は俺の意志で妹のお前を庇った、それだけだろ。ラッキーくらいに思っておけよ。コンクールは勝負の場だ、お前が言ったんだろ。ライバルのことなんて気にしなくていい」
「だけど」
「この捻挫は別に将来に響く怪我じゃない、なら、俺はこのまま弾く。それが俺にとってベストを尽くすってことだ。……最高の演奏をするって約束したからな」
俺は勝利を以て敗北を恐れ、そのまま何もなさずに逃げた宝生奏介ではない。
「だから、お前もお前の戦場で戦え。俺のことを気にして音に揺らぎを出したりするなよ」