――八月三日、ソフィアピアノコンクール本選当日。

 予選とは違い、外は雨模様だった。土砂降りというわけでもないが、熱気と水気のせいでなんともじめじめと蒸し暑い空気が漂う。
第二次予選の時とは違い、会場には春宮の姿はない。彼女は今、自分の戦場で戦っているところだろう。締め切りはたった二日後、試行錯誤ののち仕上げに入ると言っていた。


「……で、お前はなんで来てんだ」
「ひどくない? せっかく親友が本選にまで応援に来てあげたんだからもっと喜んでよ」
「親友……?」
「え、待って何その反応……傷つくんだけど……」

 怜音は今回も録音機材の荷物持ちという名目で、母についてきたらしい。別に本選の演奏を録画録音したところで演奏を省みるわけでもなし、一体どうするのかと思っていたが、ただの記録だという。「奏介の結婚式とかで流せばいいじゃん」などと訳が分からないことを言ったうえ、「大丈夫、途中で音飛んだりしたら録画止めてあげるから」と縁起でもないことをのたまったので、脛を蹴り飛ばしておいた。

 母はそんな俺たちのしょうもないやり取りを、相変わらず静かな表情で見つめている。

――この人は今、いったい何を考えているのだろうか。

この会場には響がいる。恐らく母も四年間会うことが叶わなかった、家族の一人。
そしてかつての俺を遥かに凌ぐ実力を身に着けて俺の前に立っている。母は、そんな響のことを、彼女の演奏を、どう思っているんだろう。

「……そういやさ、お前、気をつけろよ?」
「は? 何がだよ」

 ふと、怜音が声をひそめて耳打ちしてくる。片眉を上げれば、怜音はさらに続けた。

「なんかよくわからんけど、森二(りんに)中の柄悪いやつらが最近やってるピアノのコンクールの本選出場者に恨み持ってる、みたいな噂が出回ってんだよね」
「はあ?」
「いや俺もさ、なんで森二の不良がピアノコンクールの出場者なんかに恨みなんて、って思ってたけど……お前に限っては心当たりがないわけじゃないでしょ? しかもこの時期にやってる大きめのピアノコンクールなんて、ソフィアコンしかないんだしさ」
「グ……」

 言葉に詰まる。
 ピアノをまた始める前は、喧嘩を売られたら買うという生活を繰り返していたのだ。いちいちのした相手の顔や名前を覚えていないが、逆恨みされる心当たりは十分すぎるほどにある。

「喧嘩を律義に買ってたお前の自業自得とはいえさあ、気をつけなよー? 『宝生響の兄』が話題の妹と一緒に予選通過しちゃったからさあ、あの水原とかいう記者を筆頭にマスコミがここらをうろうろしてんじゃん」
「お前に自業自得と言われると腹が立つな……」

 とはいえ、わかってはいる。不本意ながらも、素直に「気をつける」と応えた。

「……じゃあ俺は控室に行く前に、ちょっと甘い飲み物でも買ってくる」
「りょーかーい。存分に脳みそ働かせて。じゃ、俺とおばさんは席行くから、解散だな」

 頷く。――今日は、昨日と違って出場者は十人にも満たないため、ファイナリストのほとんどはホールではなく、あらかじめ用意された控え室で待機することになるのだ。

 ふと、母がこちらを見た。目が合うと、母は小さく笑って首を縦に振ってみせた。

「頑張りなさい。……きっと響もそれを望んでる」
「……、ああ」

 そうだろう。響は俺に憤りを抱いていたが、もうピアノなんてやめてしまえとは言わなかった。俺は頷き、そのまま大ホール一階の正面出口に向かう二人の背中を見送る。
 ――自動販売機は二階ロビーのラウンジに並んでいる。ホールの中でもゆったりと飲食ができるリラクゼーションスペースには、軽食を売る小さな売店もある。

 当分補給のためにスポーツドリンクでも買いに行くかと、二階ロビーへ続く階段を上っていくと、何やら踊り場のあたりで言い争う声が聞こえてきた。


「あのさー、もうここで出場やめるって言えばそれでいいわけよ。わかる?」
「あんた天才なんだろ? ここで怪我なんかしたくないんじゃねえの」
「将来のことも考えてさー、ここで辞退してくんね? お前が調子に乗ってると困る人間もいるんだわ。俺らのカノジョちゃんとかさあ~」


(……なんだ?)

 チンピラか?

 俺が言うのもなんだが、随分と場違いな存在がコンサートホールにあったものである。
 詰め寄っている側は男が三人といったところか。濁声ではあるが声は若い。中高生だろうか。

(ファイナリストの誰かに出場辞退を迫ってるのか?)

 なんて面倒な場所に居合わせてしまったのか。

「お前がここで優勝なんかしてみたら、スイセン? とかがお前に決まっちゃって、他のやつらが迷惑するわけね。カワイソーじゃん、天才様が他の奴らの選択肢奪ったらさあ」
「そんなこと、知ったことじゃないわ。あなたたちの彼女がどこのクラスの誰だかは知りませんが、学内推薦が欲しいなら正当に努力して、コンクールの実績で私に勝てばいいでしょう」

しかし、そこではっと目を見開く。
耳に届いたのは聞き覚えのある声だった。

(……響?)

 まさか、と思う。だがたしかに、声は妹のものだった。……けど、どうして響が?

 慌てて、しかし慎重に階段を上っていけば、ようやく揉めている四人の姿が見えてきた。
 男三人の方は、愚かなことに制服だった。シャツとスラックスはどこにでもありそうなデザインでも、胸元の校章の刺繍がどの学校の生徒かを判別させる。

 ――森道第二中学校。通称森二。
 間違いない、奴らは森二の生徒だ。

「そもそも、場外での恐喝なんてね。馬鹿らしい。ねえ、彼女さんたちとやらに伝えてもらえる? あなたたちこそ、こんな野蛮な人を使って意味のない恫喝をする前に、自分の演奏を省みたらどうかしらって」
「なんだとこの女……!」
(まずい、)

 響の挑戦的な言葉に、三人のうちの一人が瞬時に怒りを沸騰させる。
そしてそいつは一歩前に出ると、胸まで掲げた腕を引き、

「下手に出てたら調子に乗りやがって!」

 思い切り、前へと突き出した。


「えっ……⁉」


 ト、と、勢いとは裏腹に、拍子抜けするほど軽い音ともに、肩を押された響がバランスを崩した。目を見開いた響の上体が、ぐらりと傾ぐ。

――響は薄手の上着を着ているだけで、ドレス姿だ。このままでは。


「響!」


 落下してくる妹、俺は左手で手すりを掴んだまま、右手を彼女の背中に伸ばし、

 ――ドッ。