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 ――そのまま席には到底戻る気にはなれず、俺は扉のそばで立って演奏を聴くことにした。

さすがに、観客席にいる怜音や母も、ここまでくれば午後の部のプログラムに記載されている『宝生響』の名前に気がついているだろう。春宮はともかく、響を知る二人とともに彼女の演奏を聴きたくはなかった。
開演ブザーが鳴り、間もなく無人のステージが試技者を迎える。堂々とした足取りでステージの中央に歩いてきた宝生響は、その背丈よりも何倍も大きく見えた。


『エントリーナンバー四十、宝生響。エチュードはイ短調作品25―11、ソナタはベートーヴェンピアノソナタ第十四番『月光』作品27―2第一楽章』


 彼女を迎える万雷の拍手が、寄せられた期待を示している。

 ――あのあと調べたが、響はこの四年で、かつての俺と同じように『天才』として喝采を浴びていたようだった。しかし俺とは違い、どんなステージでも完璧に演奏しきった。そして、かつて俺が逃げ出した舞台でも、準優勝という結果を出している。

 響は、恐ろしくなったりはしないのだろうか。父の重圧が、そして、周囲の期待が。

 響が椅子の高さを調節したのち、浅めに腰掛け、鍵盤に指を置いた。息が詰まりそうなほどひそやかな音から始まったその曲は、突如、荒々しく流れ落ちるような十六分音符の六連符に転じる。練習曲25―11『木枯らし』は、ショパンのエチュードの中でも上位の難曲と呼ばれるが、まったく怯んだ様子もなく、ミスタッチなく、弾き熟している。

 ド、と。台風の暴風を真正面から受けたような衝撃を受けた。

 これが響? 俺の妹だって?

(冗談だろ、おい……)

 じっとりと手に汗が滲んだ。今まで聴いてきた演奏者とはレベルが違う。技巧そのものはもちろん、表現力の格が違う。何が午後の部は心穏やかに聴ける、だ。馬鹿じゃないのか、俺は。

 ――そして、休む間もなく、今度は穏やかな曲調の『月光』。やはり、あの時駅で聴いた『月光』とはわけが違う。一音一音が心の奥底まで染み渡るような響き。この『月光』は、月明かりに照らされた舟ではなく、月が映る湖の水面だ。はかなく揺れる水面と、静謐さ。

(『勝負しようと思ってない』じゃ、ねぇよ……!)

 俺はこの時になってまで、まだ妹をどこか舐めていたのだ。

俺がピアノから逃げていた四年でどれほどの差がつくのかなど、想像に難くなかっただろうに。それなのに。
 敗北感を覚え、それに衝撃を受ける自分が、ただひたすら恥ずかしい。

 俺は響が出番を終え、ステージの袖に戻り――さらに午後の部が終わって一時間、予選通過者のところに自分のエントリーナンバーが貼り出されても、呆然としたままだった。


――予選では、演奏に順位をつけられることはない。だが、間違いなく、どう足掻いても、響のピアノが一番に優れていたことは火を見るよりも明らかだった。

そしてそれは、『敗北』から逃げてここまで来た俺にとって、初めての『敗北』だった。







「くそ……っ」


 無人の防音室で、本選の課題曲の楽譜を投げ捨てた。そして、眉間を摘みながら毒づく。

 ――第二次予選が終わってから数日が経ったが、まだ、響の演奏の衝撃から抜け出せずにいる。あのあと、怜音や春宮とどういう会話をして、どうやって家に帰ったのか、まったく記憶になかった。

「あと十日しかないってのに……!」

 ついさっきまで、小学校の時に何度か世話になった先生のレッスンを受けていたが、やはり身が入っていないと言われてしまった。ただし、当日も聴きに来ていた先生は、練習に身が入らない理由も承知しているらしく、早く切り替えるようにと言われただけだった。

 だが、簡単に切り替えられたなら苦労はしない。わかっていたつもりだったのに、今さら突き付けられた差が、そしてそれに愚かにもショックを受けた自分が、あまりにも惨めだった。

 自分の中ではそこそこの快奏だと思っていた『悲愴』も、響の『木枯らし』と『月光』の前では色褪せる。これでは、響に腕試しのお遊びと言われても反論できない。

「どうしろって言うんだよ……」

 春宮のために弾く『悲愴』を終えたのだから、本選ではそこまで肩に力をいれなくてもよいだろう、それはそうかもしれなかった。しかし、響のあの責めるような眼差しを思い出せば、そんな気にもなれなかった。本気でやらない。それこそ逃げだ。
 ああ、くそ――もう一度毒づいたタイミングで、防音室の隅に置いていたスマホが振動した。
 なんだと思って見てみれば。

「……春宮?」

  

「あ! よく来てくれましたね北条くん! すみません、練習の邪魔してしまって」
「……別にいい。行き詰ってたからな。それで、突然呼び出して何の用だよ」

 夏休みの学校には、意外と人気がある。運動部はグラウンドに陣取り、教室は音楽系の部活に占拠されている。多目的室からは吹奏楽部の演奏が響き渡り、視聴覚室からは軽音部のギターの音がする。……それでも西棟は変わらず静謐としていて、呼び出された美術室には春宮以外の姿はなかった。美術部は夏期休暇中の部活動はないらしい。

「もちろん、見ていただきたかったものがあるから呼んだんですよ」
「はあ……?」

 これです、と突き出されたものは、スケッチブックだった。前に見せてもらったものより幾分か大きい。見せたかったのはコンクール用の絵の原型、ということなのだろうか。――つまりは、あの日の『悲愴』を切り取った絵。

(こいつも、響のピアノを聴いたんだよな)

 音楽に詳しくない春宮でも、心を揺さぶる演奏かそうでないかはわかると言っていた。だとすれば、あの時の俺の『悲愴』と響の『月光』、どちらがよかったもわかったはずだ。

 あの演奏を聴いたあとで、春宮はこれを描いている。
 
苦々しい気持ちでスケッチブックをめくり――
そして、


「は……」