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 俺が弾き終えてすぐに始まった昼休憩は一時間とあまり長くない。そのため昼食は軽く済ませ、さっさとホールに戻ることにした。
出番も終えた。午後の部は心穏やかに聴けそうだ、と呟くと、へえと怜音が目を細めた。

「さすがに出番の前は緊張するんだな、お前も」
「うるせぇな」
「贔屓目抜きで、午前の部は北条くんが一番よかったように思いますよ? いえ、視える音は他と比べ物にならないほどきれいだったんですけど、それも抜きで」
「……お前、音楽の良し悪しを聴き分ける耳はないんだろ」

 純粋な賛辞が気恥ずかしくてそう返せば、春宮は「失礼ですねえ」と頬を膨らませる。

「私みたいな素人にだって、共感覚抜きでも、飛びぬけていい演奏とそうでない演奏くらいわかりますよ。技術の巧拙はわかりませんけど」
「そうかよ」
「あ、信じてませんね? いいですよ、私の感想は筆で語りますから。まあ何を言ったって、結局私は耳と目で音楽を楽しんでいる訳ですからね」
「わかったわかった……俺は少し水飲んでくるから」

どうにもこそばゆく、喉が渇いたと断って席を立つ。コンサートホールでの飲食は禁止されているため、そのまま二重構造の扉を開けて外に出た。

ロビーと舞台袖に繋がる、カーペットの敷かれた細い廊下で、抱えていた水筒の中身を煽る。……午後の部のプログラムは確認していないが、次に弾くのは誰だろうか。


「悪いけど、そこ、どいてもらってもいいかしら」


「あ? ああ」廊下の中央に立っていたことで、意図せず道を塞いでいたことに気がつく。この廊下は舞台袖に繋がる。午後の部の早い出番の出場者だろうか、と慌てて壁に身を寄せ、「悪かっ……、は?」

 言葉は、途中で途切れた。

 そこに立っていたのは、薄水色のドレス姿の少女だった。そして、その顔立ちにひどく見覚えがあった。……いや、見覚えがある、とか、そういう話でおさまる存在ではない。

 まさか、と思った。知らなかった。いや、だが、可能性は十分にあっただろう。ソフィアピアノコンクールは、学生コンクールの中でも登竜門なのだ。


「響……!」
「久しぶりね、奏介」


 ――そこには、一つ年下の妹が立っていた。


冷めた目でこちらを見ている妹の背丈は、当然だが記憶の中のそれよりも遥かに伸びていた。

父に似た三白眼で目つきが悪いと言われてきた俺と違い、響は昔から優しげで整った顔立ちをしている。にもかかわらず、こちらを見つめる妹の視線はひどく冴え冴えとしていて、顔立ちを柔和に感じさせない。

「ソフィアコン、出てたのか」
「それはこっちのセリフ。四年間もずっと逃げ続けてたくせに、どういう心境の変化?」
「……」

 冷めた口調には、お兄ちゃん、と慕ってくれていたかつての妹の面影は感じられない。
当たり前か、と思った。俺のせいで響は随分割を食ったはずだ。

「……マスコミに、俺がソフィアコンに出場することを言ったのはお前か?」 

宝生奏介が北条奏介であると知っており、かつ、このソフィアコンの出場者をあらかじめ把握することができるようなパイプを持つ人物には、響も当てはまる。

「マスコミ? ああ、違うわよ。あんた、どこかの駅でストリートピアノしたんですって? うちの生徒が噂してるのを聞いたから、その子たちが知り合いの記者か何かに喋ったんじゃないかしら。うちの生徒なら『宝生奏介』が『北条奏介』だって知っている者もいれば親が音楽家をしてる生徒も少なくないし、情報の出所としては可能性十分よね」
「なるほどな……」

あの時か。

言われてみればあの駅には確かに、かつて俺の通った学校の制服を着た女子たちがいた。彼女らが、あるいは彼女らの友人が、その日の俺のピアノを聞いていたとしてもおかしくはない。

「というか、その件に関しては私も迷惑を被った方なんだけど」
「どういう意味だよ」
「あら、わからない? なら私たちの名前とあんたのところに来た記者が名乗った雑誌名で検索してみたらどう?」

 鼻を鳴らす響を横目に、取り出したスマホの電源を入れる。そして言われた通りに素早く検索エンジンにワードを打ち込むと、響の言いたいことはすぐにわかった。検索画面の上部に出てきたのは、雑誌記事の概要を乗せたネットページ、そこには――宝生奏介と宝生響が同じソフィアコンに出場する、といった内容が人々の興味を煽るように好き勝手書き立てられていた。


 ――堕ちた天才、宝生奏介。四年にわたる非行少年としての自棄な日々。かつての神童がピアノを捨てた意味とは? そして、今回復活を果たした目的は父への当てつけ? 
――因縁の兄妹対決。堕ちた兄の代わりに天才・宝生楽斗の音楽を叩きこまれた妹は、かつての兄を踏み台にして駆け上がるか? 


まるで三流のゴシップ記事だ。あの様子ではおかしなことを書かれるであろうことはある程度予想がついていたが、正式なインタビューでないからといってここまで好き勝手されるとは――それに、あの時水原の言った『彼女』というのは響のことだったのか。

「何が兄妹対決よ。本当にいい迷惑。何が怖かったか知らないけど、四年間もステージから逃げ続けた臆病者と、さもライバルか何かみたいに並べないでもらいたいわ。冗談じゃない」
「……」
「しかもなんなのあの不完全な演奏は。体裁だけ整えたような音。しかもミスタッチはする、指は転んでテンポはズレる。練習不足にも程があるわ。腕試しのお遊びのつもりなの? よくあんな無様な演奏が披露できる。あれで、よくも私と勝とうだなんて思えたわね」
「……別に、お前と勝負しようなんて思ってない」
「勝負しない? それこそ冗談じゃない。これは自分の納得のいく演奏ができたかどうかのコンサートじゃない、他と勝ち負けを競うコンクールなのよ。コンクールは戦争なの。ステージの上は戦場なの。……あんたのそういう、いかにも周りを気にしてませんみたいなところが昔から嫌いだった」

響は苦々しげに吐き捨てた。

「いい? 私はあんたがくだらなくて無意味な四年間を過ごしてるあいだ、ひたすら練習してたの。あんたが逃げて、また素行不良に走ってる間、私はずっと指を動かしてピアノを弾いてた、鍵盤を叩いてたの。爪が割れるまで、指に血が滲むまで。私だけじゃないわ。他の出場者だってそう。ここに舐めた気持ちで来てるのはあんただけ」

違う、と否定したかった。舐めた気持ちで臨んでなどいないと。

しかし、響の目がそれを許さなかった。実際妹は、俺が無意味な時間を過ごしている時も、ずっと血のにじむような努力を続けてきたのだろう。

「見てなさい」

言い捨てた響が、そのまま俺の横を通り過ぎる。


「必ず私が私のピアノで、あんたの音を捩じ伏せてやる」


 茫然とその背中を見送る。

彼女はやはりもう、クマのキャラクターを好んでいた時のように、幼い妹ではないのだ。