移動先の控え室から呼ばれると、いよいよ出番が近くなったという証だ。暗いステージ袖に並ぶパイプ椅子に座り、漏れ聞こえるピアノを聴くのだ。

 観客席では浮ついているように感じていても、ステージ袖はさすがに緊張感に満ちている。

(……懐かしい雰囲気だ)

どの出場者も表情を引き締め、舞台を睨みつけている。優雅粛然とした雰囲気を持つ出場者たちが多い中――自分で言うのもおかしいかもしれないが――粗野そうな見た目の俺は普通目を引くはずだが、出場者たちはみなステージに意識を向けている。

まるでかつての自分のようだと思った。不安と緊張、そして興奮。彼らはこの時点で誰かと競っている。ステージに立つ他の演奏者のピアノを称えつつ、ミスを願う。下手を打てば暗い喜びを感じ、安堵する。完璧な演奏を聴けば焦燥感を覚え、負けるものかといきり立つ。

コンクールの舞台は戦場だ。他人と自分に打ち勝たなければ、敗者になる。

舞台(ここ)は俺が、かつて敗者になった場所だ。


『エントリーナンバー三十九、北条奏介。エチュードはハ短調作品10―12、ソナタはベートーヴェンピアノソナタ第八番『悲愴』作品十三第一楽章』


 名を呼ばれ、立ち上がる。

 ――そう、ここはかつて俺が逃げ出した場所。

 だが、妙に心が凪いでいた。

 ステージライトが照らす足元は、揺らがない。白く浮かび上がったグランドピアノに向かって一歩一歩と歩いた。緊張はあるが、手足の震えはなかった。

 脳裏にあの絵を思い描く。緑の森と、青の翼。言い表せない衝撃と、心の揺らぎ。

 俺がここで弾くことで、俺はまた、あの衝撃と感動に逢える。そう思えば恐怖よりも緊張よりも、歓喜が勝つ。

 椅子に座った。
 まずは、革命からだ。

 峻烈な一打目の和音から、両手が動き出す。いつだったかのストリートピアノよりも遥かに手首が柔らかく回る。指が滑らない。かつての指を取り戻したとは言えずとも、感覚が戻っているのがわかる。

 ――楽しい。

 ステージの上で純粋な高揚感を味わったのはいつぶりだろうか。全国進出を決めた『幻想即興曲』を弾いた時も、こんな気持ちにはならなかった。

 だが、高揚感に囚われてばかりいてはいけない。

 悲壮さを秘めた曲が終えると、十数秒の小休止のあとに、再び鍵盤に指を置いた。そして、一呼吸置いて――重量感のあるフォルテピアノの和音。『革命』の激烈な一打目とは違い、強くも物悲しげな音がホールに響き渡る。

 第一楽章グラーヴェ。イタリア語で重々しく荘重にという意味の『グラーヴェ』で始まる序奏は発想・速度記号の通り、重々しく悲しさを煽るメロディだ。和音が重圧とやりきれなさを語る。どれほど弾いても先の見えない音楽の世界に絶望を感じていた自分を思い出す。この冒頭が第二楽章・第三楽章に繋がり、全体を結びつける。

 そして、第一主題。難関と名高いオクターヴ・トレモロ。

 指はあまり上げずに、手首のスナップをきかせて柔らかく。手首が回れば、連動して腕も動く。音を保つために疲労は最小限にしつつ、しかし音量は控えめに。音を加減しながらも、鍵盤は確実に叩かねば、聞くものを魅了するあの主題が、途端に間の抜けたものになってしまう。

左手を高速で動かしながら、右手は右手で、求められる和音は一つ一つ場所が飛ぶ。跳躍する和音に意識を向けながら、左手は無心にトレモロを続ける。そして、情熱的であった第一主題から、流動的な第二主題へ。第一主題に対比された第二主題が、この曲をドラマティックに展開していく。

 ――ベートーヴェンピアノソナタ第八番『悲愴』は、ベートーヴェンの楽曲の中でも珍しく、作曲家本人が副題をつけた曲として知られている。楽聖と呼ばれたベートーヴェンは、難聴を抱えた上でも傑作をいくつも残した偉大な音楽家として知られているが、ピアノを弾いている者ならば、少しはわかる。音楽家にとって耳が聴こえないという絶望がどういうものなのか。そしてこの『悲愴』という、前期でも屈指の傑作は、ベートーヴェンの難聴が始まったころに作られていたとされている。

(あんたは、どういうつもりでこの『悲愴』を作ったんだ?)

 自身の苦悩を嘆いたのか。あるいは、普遍的な悲しみや絶望を表現しようとしたのか。
 ベートーヴェンという人間は、難聴という困難を抱えても、それでも好きなことを捨てなかった。捨てられなかった。そこにどんな苦しみや悲しみがあったのだろう。

 この曲に込められた悲哀を、ほんの数週間やそこらで俺のような子供に分析できるはずがない。それでも、一打一打に慟哭を込める。この曲を弾きながら感じる寂寥に、自分の想いを乗せる。

 自分の演奏が、先程自身の胸中でアナリーゼ不足だと評した前の演奏者たちよりも優れているのかどうかはわからない。自分の分析が十分だなんて到底言えるはずもなく、そもそも、練習量はおそらく他の演奏者に比べても圧倒的に不足している。もともと弾けていた『革命』同様、この短い期間で感覚を取り戻しつつなんとか形にしてきたのだ。

 だが、全霊で。ここはステージだ。聴くものの心を全力で揺さぶるつもりで想いを乗せる。
 あの天才の――春宮美涼のミューズに相応しく。

(これが最後の、)

 一音。――そして、残響。

 一呼吸置いて、椅子から立ち上がる。完璧な演奏ではなかった。練習不足のせいか、手首の動きも音も固いところが何か所もあった。少ないがミスもした。けれど、寂寞とした残響音がまだ響いているような静謐なホールに、白いステージに、広がる客席に、俺は間違いなく一曲を弾き切った達成感を感じた。ストリートピアノでも、小さな防音室の中でも感じられなかった快感だった。

 客席の春宮と目が合う。そしてその瞬間、拍手が降り注いだ。
 一礼し、袖に向かう。足取りは軽かった。――もう自分が、舞台から逃げることはないと思った。