「まさかお前がピアノなんて弾いているとはな」

 ふん、と、鼻を鳴らして山田が吐き捨てる。

「別にあんたには関係ないだろ」

 目を合わせずに応える。


――あの連中はなんだ、どういうつもりでお前に何を聞きに来た――といったことを職員室で根掘り葉掘り聞かれ、ようやく解放されたのはホームルームの時間になったあたりのことだった。

春宮や怜音はその場にいただけとのことで、既に教室に戻っている。俺も、連中の意図など知ったことかと答えてもよかったのだが、やめておいた。わかることだけ答えた方が早く解放されると判断したためだ。そもそも、校門の前であれだけ騒がれた時点で、全校生徒に『北条奏介』のコンクール出場が知られるのは時間の問題だろう。

「関係なくはないだろうが。お前のせいで、生徒に迷惑がかかっていたんだぞ。わかっているのか?」
「あいつらは俺が呼んだわけじゃない」
「それでもだ。いいか、雑誌の取材なんかが来たからって調子に乗ってるんじゃないぞ。学校側に許可も取らないで生徒に群がるような下品な記者たちばかりが集まってきたのは、お前の素行の悪さを面白おかしくネタにしたかったからだろうが。少しは自分を省みたらどうだ」
「……」
「なんだ、その目は。目上を睨みつけるんじゃない」

 ち、と舌打ちをした山田が、目を眇めて俺を見た。苛立ちと侮蔑が混ざった視線だ。「――元天才だかなんだか知らんが、どうせ誇張だろう。お前なんかに大した演奏ができるはずがない」
「……だから、あんたには関係ないだろ」

「ふん」こちらの反応を受け、再び不機嫌そうに鼻を鳴らしてみせた山田が、職員室の戸を開ける。「まあ、好きにすればいいさ。三年生のこの時期にコンクールだなんだと、余裕をこいていて後から苦労するのはお前だろうがな」

 言い捨てられるのと同時、ぴしゃりと目の前で職員室の戸が閉まる。

 もちろん、言われなくても好きにさせてもらう。志望校もなく、目標もない。元から進路なんてものを考えていたわけでもなかったのだ。……ただ、今はやりたいことがある。それだけで前に進んでいるはずだ。


 ――ただ。
 水原のという男の言った、『彼女』とやらの存在だけが、妙に頭の片隅に引っかかった。







ソフィアピアノコンクールの第二次予選は、夏休み初日だった。

 からっと晴れ上がった空は透き通るほどに青く、同様に空気も乾いている。じめじめとした六月の暑さはどこかへ吹き飛んだようで、コンサートホールのロビーにいる人々の顔も心なしか清々しさを感じているようだ。

「ソフィアコンの会場って、こんなに大きいんですね……⁉ 鳴葉市民ホールと雰囲気が全然違います」
「やっぱ多目的の市民ホールとは音響が違うんだってさー。クラシックでも、オーケストラというよりはピアノを奇麗に聴かせるためのホールとして有名なんだと」
「詳しいですね雪村くん」
「おばさんの受け売り」

 機材を抱えたままピースをした怜音に、なるほど、と同行してきた春宮が頷いた。



 コンクールの会場である大ホールに入れば、人口密度は高いはずなのに、空気が涼やかになるのが不思議だ。とりあえず四人並んで席を取り、座る。ソフィアコンは基本、出入り自由で審査員と来賓以外に指定席は存在しない。順番が近くなってくれば俺は席を離れ、控室に向かうこととなる。

 右隣に座る怜音が、二枚組になっているプログラムのうちの一枚目を開いた。そこそこの人数が参加する第二次予選、プログラムは午前の部と午後の部の二つに分かれている。

「……いや奏介お前午前の部のトリじゃん」
「印象には残りやすそうですね。でも、こういうのって、順番そのものよりも前に弾く方が上手いか下手かが重要なんじゃないですか?」
「あー。前があからさまに上手かったら比べられるし、前が下手だったらラッキーっていうのはありそうだよね」

 つうかお前プログラム見ないの、と呆れたように怜音に言われ、ああ、と頷く。
別にプログラムを見たところで、誰が上手いかなんてもうわからないのだ。そもそも四年前は特定の弾き手を意識したことはなかった。だから名前を見て演奏の良し悪しが予想できるわけでもなし、エントリーナンバーだけわかっていればいい。

「なんか、余裕って感じじゃん?」
「別に、今回は最優秀を取るためにここにいるんじゃないからな」

 他の演奏を気にする必要はない。目を伏せてそう言ったところで、開演ブザーが鳴った。――コンクールが始まる。

 ソフィアコンは持ち時間が厳密に決まっているわけではないが、二曲合わせて十分以内におさめる弾き手が多いと聞く。俺は力を入れた『悲愴』に八分三十秒を費やすので、三分ほどの『革命』と合わせると十二分弱の演奏時間となる。他の弾き手と比べれば長い方だ。

 二、三人が演奏を終えたところで、昔から割と耳の肥えている怜音が感心したように呟いた。

「みんな、結構上手いもんだね。予備審査通っただけあるわ」
「どこからの目線だよ、お前は」

 呆れ交じりに突っ込むが、怜音の感想もわかる。中学生の部であるからか、俺がかつて参加していた小学生の部よりも当然課題曲は難しく、それを演奏する弾き手の技術も高い。

 ただし、予備審査を経て初の公開審査だからか、漂う緊張感はそこまででもないように思えた。――俺が最後に上ったのは、ジュニアとはいえ地方の予選を勝ち抜いてきた弾き手が集まる全国の舞台だった。地方の期待を背負った出場者が集まる全国大会に比べると、やや浮ついた空気が演奏者にある。

「美涼ちゃんはどう思う?」
「ううーん……。私の耳では、演奏の良し悪しはよくわかりませんね。技術があるのはなんとなくわかるんですけど。すごいなあ、くらいしか感想は言えないですね」
「ああー、なるほど。そういや美涼ちゃんて音感なかったね」
「放っておいてください」
「耳がアレなら、目ならどうなんだよ」
「うーん。色があっちこっち行ったり、伸びたり跳ねたり回ったり混ざったりと忙しいので、なんとも。たくさん見ていてなんだか酔ってきてしまいました。色酔い、というのでしょうか」
「いや、知らねぇわ」

 真面目腐った顔で意味の分からない感想を述べる春宮だったが、それが彼女の世界なのだろう。春宮本人も言っていたが、彼女には音楽の楽しみ方が二つあるのだ。耳で聴くこと、目で視ることの二つだ。目で聴く、耳で視るというべきかもしれない。彼女は音の出す色と、そして耳で聴く音、両方で演奏を評価している――それは春宮美涼だけの評価基準だ。

――そうかもしれない。今までの奏者は確かに技術を持っていた。多少演奏不足の感がある者もちらほらいたものの、曲を弾き熟していた弾き手が多かった。だが、それだけだ。譜面を追って正確に弾くだけでは聴く者の心を揺さぶることはない。感動は技術だけでは生まれないのだ。

 演奏の巧拙というものは、技術だけに現れるものではない。人間的に未熟な中学生では限界があれど、曲を読み込み分析し、曲が作られた背景を知り、その上で作曲者の想いを自分の解釈で奏でなければならない。それをアナリーゼと呼ぶこともあるが、解釈にも分析にも決められた正解はない。

 ――だから音楽は難しい。

「そろそろ行ってくる」

 呼び出しの時間だ。席を立てば後ろから、行ってらっしゃい、と言う声が三つ、控え目追ってきた。