なんなんだこの、とんでもねえ女は。
褒められた性格をしていないと自覚している俺でも、さすがに閉口した。俺でもクラスメイトの顔と名前くらい把握している。まじめに学校に通ってないが、それでも。
「というかお前、自分が覚えてないのに、相手は自分の名前覚えてて当然だってのか」
「別にそういうつもりでは。でも、私のことを認識してくださっている方は多いと思いますよ。ほら私はこのとおり美少女ですので……」
「……」
「そんな死にかけの蝉を見るような目で見なくても」
――まあ。
確かに、目の前のこの女子は、美少女と言える風貌ではあるかもしれない。
艶やかな闇色の髪、そして黒いのにどこか透き通るような、色素が薄く感じられるような大きな瞳。睫毛はくるんと上を向き、唇は薄く桜桃色に色づく。
が、と、俺は眉を顰めた。
「それ、自分で言うのかよ。あきれた自信だな」
「おや」すると、目の前の女子はなぜかあきれたように目を眇めた。「君は何かカン違いをしているようですが、私が世間一般的に美少女と言われる顔立ちであることは『事実』であって、私の『自信』にはなりません」
「は?」
「顔立ちが整っているから、人に顔を覚えられやすい。これは基本的に成り立ちます。顔立ちが整っているから、自分に自身を持つ、あるいは、自分を素晴らしい人間だと思う。これは必ずしも成り立ちません。少なくとも私は私が美少女であることを誇ってはいません。私にとってそれは、さして重要なことではないからです」
「……」
目を細める。――容姿が無価値か。世間一般では価値があるものであるとされる整った容姿が、こいつにとっては重要ではないと。そういうことか。
俺が何も言わないでいると――いや、何も言えないでいると、お、と彼女は目を丸くした。
「ここで即座に意味がわからんと言わないあたり、君は私と相性がよさそうですね」
「やめろ気持ち悪い」
「えっ……さすがに傷つくのですが……?」
ややショックを受けているらしい彼女から、わざとらしく目を逸らした。
いいや実際、言っている意味はよくわからない。だが。
「否定する気はない。傲慢だとは思うけど」
「ほお」
「人が重んじるものって、人によって違うだろ」
家族の中で、俺と父親の考え方が、決定的に違ったように――。
「……そうですね。君の言う通りです」
「ふん、で? お前にとって重要なことってなんなんだ?」
「それは……」
つい、と。
彼女は視線を右へと映した。ショーウィンドウ、ガラスの向こうに目が向けられて、俺は思わずその視線の先を追う。
そして――息を飲んだ。
「は……」
色の、
奔流。
――そこにあったのは一枚の絵だった。
緑とあわい紫で描かれた森の絵。描かれている木々自体の輪郭はどこか茫漠としていて、抽象画のよう――しかし、決して抽象画ではない。
そして絵の森の奥では、何かが燃えていることに気がついた。紫色の炎に包まれ、静かに、燃え尽きようとしている何かがあるのだ。
画面全体がぼやけているのは、さながら、シャボン玉に映った景色を、写し取ったかのよう。
「……っ」
なんだ、これは。
俺は思わずシャツの胸元を掴んだ。
――今まで、絵に興味を持ったことはない。美術館に行っても、何を見ればいいのかわからなくて楽しめないのだ。心動かす音には遭ったことがあっても、絵には遭ったことがない。
なのに。
締め付けられる。ひどく懐かしく、哀しく、痛い。
俺はこの絵を、この光景を、どこかで見たことがあった。そんなはずはないのに、そんな気がした。
そして、思わず一歩下がって、ハッとする。
――そうか、こいつ、この絵を引きで見ようとしたのか。だから、俺にぶつかった……。
一歩下がったらどう見えるのか。この絵の印象はどう変わるのか。それを確かめたくなる。
「なあ、お前……」
そういうことなのか聞きたくて横を向けば、彼女は凪いだ――いっそ悲しげな瞳で絵を見つめていた。そうでなくば、怒っているような。
先程までの、どこかおどけた雰囲気とはまるで違う眼差しに、少なからず動揺する。
「この絵、好きですか?」
「は? ……いや、俺は絵とかわからねぇけど、」
「けど?」
――見ていると痛くて、意味がわからないほど苦しくなる。
言葉に出来ずに、下を向く。彼女は無表情で瞬きをすると、少しの間ののち、「そうですか」と言った。
「わからなくていいと思いますよ」
「は?」
「所詮、何もかもぼやけた絵ですから」
思わず目を見開いた。
今まさに、自分の中の何かを侮辱されたような――否、痛いところを衝かれたような感覚がしたからだった。
「お前――」
「それではまた」
ぺこり。
一礼すると、彼女はさっと踵を返し、学校のある方向へ、スタスタと歩き去っていった。あまりにも素早いその様子に、ぽかんとして後ろ姿を見送る。
「……いや、ぶつかったこと謝ってから行けよ……」
なんなんだ、マジで。
お前、俺にぶつかったことに気づかなかいほど、この絵に見惚れてたんじゃないのかよ。
頭を掻き、もう一度絵を見る。
(……あ、)
初めて見た時のような、鮮烈な印象はもうそこにはなかった。
代わりに、大きなキャンバスの上、県の美術コンクールで金賞を取ったことを示す表示があったことに気がつく。
「……コンクール」
K県美術絵画コンクール自由テーマ部門金賞。中学の部、春宮美涼……。
ああ、と思った。先程受けた衝撃が、急激に失せていくのを感じた。
誰かが誰かの魂を削って描き出したものも、所詮は誰かに評価してもらわなければ、無意味なものになるのだ。音楽も美術も何もかも、名も知らない誰かに見られ、聴かれ、消費されて消える。この、金賞を取ったとかいう描き手も天才だ、神童だ、と囃されたのち、きっとそのうち褪せて消えていく。
『優勝以外に価値はない。ピアノを弾き続けることに必要なのは畢竟、結果だ。お前が愉しむ必要はない』
――わかるだろう、奏介。
耳の奥であの人の声がする。ずきん。頭痛がする。
「……アホくせえ」
急激に夢から醒めたような心地になって、俺も歩き出した。
頭痛を抱えたままチッ、と、舌打ちをする。――ああクソったれ。
やっぱり、芸術なんてものは、追求するだけ馬鹿らしい。
褒められた性格をしていないと自覚している俺でも、さすがに閉口した。俺でもクラスメイトの顔と名前くらい把握している。まじめに学校に通ってないが、それでも。
「というかお前、自分が覚えてないのに、相手は自分の名前覚えてて当然だってのか」
「別にそういうつもりでは。でも、私のことを認識してくださっている方は多いと思いますよ。ほら私はこのとおり美少女ですので……」
「……」
「そんな死にかけの蝉を見るような目で見なくても」
――まあ。
確かに、目の前のこの女子は、美少女と言える風貌ではあるかもしれない。
艶やかな闇色の髪、そして黒いのにどこか透き通るような、色素が薄く感じられるような大きな瞳。睫毛はくるんと上を向き、唇は薄く桜桃色に色づく。
が、と、俺は眉を顰めた。
「それ、自分で言うのかよ。あきれた自信だな」
「おや」すると、目の前の女子はなぜかあきれたように目を眇めた。「君は何かカン違いをしているようですが、私が世間一般的に美少女と言われる顔立ちであることは『事実』であって、私の『自信』にはなりません」
「は?」
「顔立ちが整っているから、人に顔を覚えられやすい。これは基本的に成り立ちます。顔立ちが整っているから、自分に自身を持つ、あるいは、自分を素晴らしい人間だと思う。これは必ずしも成り立ちません。少なくとも私は私が美少女であることを誇ってはいません。私にとってそれは、さして重要なことではないからです」
「……」
目を細める。――容姿が無価値か。世間一般では価値があるものであるとされる整った容姿が、こいつにとっては重要ではないと。そういうことか。
俺が何も言わないでいると――いや、何も言えないでいると、お、と彼女は目を丸くした。
「ここで即座に意味がわからんと言わないあたり、君は私と相性がよさそうですね」
「やめろ気持ち悪い」
「えっ……さすがに傷つくのですが……?」
ややショックを受けているらしい彼女から、わざとらしく目を逸らした。
いいや実際、言っている意味はよくわからない。だが。
「否定する気はない。傲慢だとは思うけど」
「ほお」
「人が重んじるものって、人によって違うだろ」
家族の中で、俺と父親の考え方が、決定的に違ったように――。
「……そうですね。君の言う通りです」
「ふん、で? お前にとって重要なことってなんなんだ?」
「それは……」
つい、と。
彼女は視線を右へと映した。ショーウィンドウ、ガラスの向こうに目が向けられて、俺は思わずその視線の先を追う。
そして――息を飲んだ。
「は……」
色の、
奔流。
――そこにあったのは一枚の絵だった。
緑とあわい紫で描かれた森の絵。描かれている木々自体の輪郭はどこか茫漠としていて、抽象画のよう――しかし、決して抽象画ではない。
そして絵の森の奥では、何かが燃えていることに気がついた。紫色の炎に包まれ、静かに、燃え尽きようとしている何かがあるのだ。
画面全体がぼやけているのは、さながら、シャボン玉に映った景色を、写し取ったかのよう。
「……っ」
なんだ、これは。
俺は思わずシャツの胸元を掴んだ。
――今まで、絵に興味を持ったことはない。美術館に行っても、何を見ればいいのかわからなくて楽しめないのだ。心動かす音には遭ったことがあっても、絵には遭ったことがない。
なのに。
締め付けられる。ひどく懐かしく、哀しく、痛い。
俺はこの絵を、この光景を、どこかで見たことがあった。そんなはずはないのに、そんな気がした。
そして、思わず一歩下がって、ハッとする。
――そうか、こいつ、この絵を引きで見ようとしたのか。だから、俺にぶつかった……。
一歩下がったらどう見えるのか。この絵の印象はどう変わるのか。それを確かめたくなる。
「なあ、お前……」
そういうことなのか聞きたくて横を向けば、彼女は凪いだ――いっそ悲しげな瞳で絵を見つめていた。そうでなくば、怒っているような。
先程までの、どこかおどけた雰囲気とはまるで違う眼差しに、少なからず動揺する。
「この絵、好きですか?」
「は? ……いや、俺は絵とかわからねぇけど、」
「けど?」
――見ていると痛くて、意味がわからないほど苦しくなる。
言葉に出来ずに、下を向く。彼女は無表情で瞬きをすると、少しの間ののち、「そうですか」と言った。
「わからなくていいと思いますよ」
「は?」
「所詮、何もかもぼやけた絵ですから」
思わず目を見開いた。
今まさに、自分の中の何かを侮辱されたような――否、痛いところを衝かれたような感覚がしたからだった。
「お前――」
「それではまた」
ぺこり。
一礼すると、彼女はさっと踵を返し、学校のある方向へ、スタスタと歩き去っていった。あまりにも素早いその様子に、ぽかんとして後ろ姿を見送る。
「……いや、ぶつかったこと謝ってから行けよ……」
なんなんだ、マジで。
お前、俺にぶつかったことに気づかなかいほど、この絵に見惚れてたんじゃないのかよ。
頭を掻き、もう一度絵を見る。
(……あ、)
初めて見た時のような、鮮烈な印象はもうそこにはなかった。
代わりに、大きなキャンバスの上、県の美術コンクールで金賞を取ったことを示す表示があったことに気がつく。
「……コンクール」
K県美術絵画コンクール自由テーマ部門金賞。中学の部、春宮美涼……。
ああ、と思った。先程受けた衝撃が、急激に失せていくのを感じた。
誰かが誰かの魂を削って描き出したものも、所詮は誰かに評価してもらわなければ、無意味なものになるのだ。音楽も美術も何もかも、名も知らない誰かに見られ、聴かれ、消費されて消える。この、金賞を取ったとかいう描き手も天才だ、神童だ、と囃されたのち、きっとそのうち褪せて消えていく。
『優勝以外に価値はない。ピアノを弾き続けることに必要なのは畢竟、結果だ。お前が愉しむ必要はない』
――わかるだろう、奏介。
耳の奥であの人の声がする。ずきん。頭痛がする。
「……アホくせえ」
急激に夢から醒めたような心地になって、俺も歩き出した。
頭痛を抱えたままチッ、と、舌打ちをする。――ああクソったれ。
やっぱり、芸術なんてものは、追求するだけ馬鹿らしい。