ソフィアピアノコンクール第二次予選の課題はこうだ。――ベートーヴェン、ハイドン、モーツァルトのいずれか任意のソナタの一楽章を一曲演奏。そして、ショパンのエチュードのうち任意の一曲を演奏。俺はブランクが長いので、練習時間を節約するためにもショパンのエチュードの方は既にそこそこの形になっている第十二番『革命』を選曲した。
その二曲のうち、春宮は、俺が初めてステージで弾く『悲愴』を題材にするのだという。
春宮は頷きつつ、持ったままだった五枚の解答用紙をファイルにしまい、鞄に戻した。「それで、私は北条くんを邪魔しないためにも、しばらくこちらにお邪魔しないつもりでいます」
「えっ」――と、そこで怜音がぎょっとした顔になった。「ちょ、美涼ちゃん。もしかして、本番でしか『悲愴』聴かないつもりなの」
ええ、と春宮がこともなげに肯う。「そうですよ」
「いやでもさ。どんな画面にするか、どんな構図にするかとか、何度も聴いて試行錯誤するんじゃないの。本番一発しか聴かずに作品描くつもり?」
「ええ。もちろん、ステージの一回しか聴くつもりないですよ。一回の……いえ、ステージの、ホールの響きあっての彼の演奏が一番だ、ホールでの演奏を聴かねば意味がない、とかそういう意味ではありませんよ? ただ……」
「ただ?」
「私は、『この一回しかない』コンクールでの演奏を聴きたいんです。そもそも、同じ『悲愴』で同じ奏者でも、まったく同じ色が視れるわけじゃありません。どんな演奏でも同じものをもう一度を視ることはできない。少なくとも私にとっては一回一回の演奏が、その時限りの唯一なんです。
もちろん、練習の時の、北条くんのピアノも素晴らしい。でも、せっかく描くなら、せっかく全ての演奏の音が唯一なのであれば……大勢の人の前に聴かせる音を、一発勝負の全身全霊で奏でられた音がいいんです。……北条くんに、『自分はこんなふうに人を感動させたのか』って、わかってもらえるような絵を描くためにも」
春宮の物言いに、おお、という顔をして怜音が囃すように口笛を吹いたが、こちらとしてほ今さら気恥ずかしくなる必要もなかった。――春宮のミューズが俺の音ならば、俺のミューズは春宮の絵だ。俺がステージの上に立ち、春宮がその音を描くとそう決めた時から、互い全霊を賭すのは当然のことだった。
口の端を吊り上げ、挑発するように春宮を見る。
「……けど、本当に一回聴くだけでいいのか? 本当に音の色を覚えられるのかよ」
「愚問ですねぇ」春宮は挑発に応えるように不敵に笑ってみせた。「私が記憶だけを頼りに一体どれだけの枚数、君の『幻想即興曲』で描いてきたと思っているんですか? 私、視たものは結構覚えていられるんですよ。特に、とびきりきれいな音なら」
「そうかよ。じゃあ、俺が本番で大失敗でもしたらどうする?」
「その時はその時でしょうに。というか、君はもう本番で失敗したりしないと思います。ステージを自ら降りることも」
――君は舞台の上で、一番いい演奏をする。そう思います。
そう宣う彼女は、自信ありげだった。
ステージの上、大勢の前でピアノを弾くことはひどく楽しいことであると同時に、ひどく恐ろしいことでもある。期待を背負っていたらなおさらで、息が詰まって苦しくなるのだ。だからこそ四年前の俺は、ステージを降りて、逃げ出した。そしてそれを『ピアノを捨てた』として、ずっと自分の費やした過去と時間から目を背け続けてきた。自分で逃げたくせして『普通』を厭い、こんなふうに腐った自棄っぱちな生き方をした。
――だが。
「言ってくれるじゃねぇか」
春宮の言葉は一方的に抱く期待ではなく、おそらくは、信頼だった。
そして俺も、春宮美涼のために弾き、彼女のミューズで在ると決めた以上、その信頼に応えなければならない。
――春宮と怜音を見送って以後、一瞬、どこかから視線を向けられているような感覚があった。
これでも昔は多少なりとも注目される立ち位置にいたのだ。多少なら、誰かに見られていることも察することができる。
(……まさか、同じ学校のやつに春宮がうちから出て行ったところを見られてないよな)
外で会う方が誰かに目撃されやすいからと会う場所をうちにしていたわけだが、見られているとなると外で会っていたことが知られるよりまずい。開き直ることもできない、うちの学校の生徒にピアノを弾いていることを知られたくないからだ。
ただ、見渡してみてもあたりに人の気配はなかった。もちろん、危惧していた同じ制服の生徒が近くにいて、慌てて走り去っているわけでもない。
(ここらへんの不良がこっちを見てたとかか?)
高級住宅街とまでは行かなくとも、そこそこの家が立ち並ぶこのあたりは、鳴葉では治安がいい方のはずだが。ただ、俺のようにまあまあ裕福な家に生まれ育ったにもかかわらずグレるようなやつも中にはいるので、ここらに以前絡んできた不良がいないとも限らない。
だが、気配がないのはこれも同様だった。首を捻りながらも、家に戻る。
(気のせいか……)
それならいいのだが。
*
――しかし、気のせいではなかった。
違和感は確かに形になり、こちらを襲ってきた。
翌朝のことである。学校に行くと、校門のあたりに見かけない大人が固まっているのが視えた。彼らは一体誰なのか――気にはしつつも声は描けず、こわごわと横を通り過ぎていく生徒たちも、困惑している様子だ。
少し近づいてみてみれば、彼らがカメラやマイクを構えた報道陣らしいということがわかる。テレビで見かけるような多さではないものの、間違いなく彼らは誰かが来るのを待っていた。
彼らの取材対象は春宮美涼だろうか。天才少女として名が売れている春宮ならば、メディアが取材に来てもおかしくはないだろう。……まあ、いずれにせよ、
(俺には関係のない話だな)
そう高をくくって彼らの横を通り過ぎようとした、その瞬間。
……なぜか、即座に目の色を変えたスーツの連中が、こちらに雲霞のごとく集まってきたのである。マイクを携えこちらに向け、目をぎらぎらと輝かせ。
「宝生奏介くんですね! あのかつての神童の」