――自宅の防音室であった。


春宮は神妙な顔をして部屋の隅にある椅子に腰掛けており、傍に立つ怜音も場の空気に飲まれているのか緊張の面持ちで春宮を見ている。俺はグランドピアノの前の椅子に座り、腕と足を組んで二人を見据える。

「春宮」
「イエスサー!」

意識して厳かに名前を呼べば、春宮は即座に芝居がかった仕草で敬礼し、さらに素早い手つきでカバンを開けて五枚の紙を取り出した。そして――赤いペンで点数の記載されている、五枚の解答用紙それぞれがよく見えるように掲げてみせる。

「北条先生! なんとかですが、目標点数ギリギリ突破いたしました!」
「ギリギリじゃねぇか」

だが、まあ。
これで期末テストの憂いは絶たれたか。


――天才少女画家春宮美涼は、なんとか交渉を重ねた上で設定された目標点数を達成し、塾を増やされることで部活を、延いては絵そのものをやめなければならなくなる危機を回避。そして、無事絵画コンクールへの挑戦権を手にしたのである。

(……まあ、マジでギリギリだけどな)

 とはいえ、である。

俺はこの一週間、ピアノの練習をしつつも春宮の教師役を務めた身として、とりあえずは安堵のため息をついた。……これで時間を無駄にせずに済んだというものだ。



 *



 春宮、そして怜音を家に呼び出したのは、テスト返却が終わったその日の放課後だった。今日は塾が休みであるということで、春宮にはテストの点数を報告してもらうべく、そしてこれからの予定を確認するべくここに呼びつけたと言うわけだった。怜音はついでである。

「全教科平均プラス十点! すごいじゃん美涼ちゃん。これなら学年五十位以内は固い!」
「ふふん! でしょう! 私はやればできる女なんです」
「でもこれで鳴葉高志望はさすがにきついっていうか、むしろ正気? って感じだけど」
「そういえばお二人ともお誕生日はいつですか。プレゼントにオブラートなんてどうでしょう。鯨の皮みたいな厚さの」

 機知に富んでいるのかそうでないのかわからない会話をする春宮と怜音をよそに、俺はこれからのスケジュールを頭に思い浮かべた。

 ――ソフィアピアノコンクール第二次予選と本選は、音源審査であった第一次予選(予備審査)とは違い、ホールでの公開審査となる。予備審査でかなりの数が落とされるが、実質こういう類の大規模なコンクールは公開審査になってからが本番と言われる。大規模であるがゆえに玉石混交、そのためあくまで第一次予選は篩であり、基準に達していない石――弾き手を落とすためのものだからだ。

 そして期末試験が終わり、七月に入ったことで、第二次予選まではもう日がない。今はこういう状態である。

「それにしてもまさか奏介がピアノコンクールにまた出場するなんてなあ。ストリートピアノの時もそこそこ驚いたけど、さすがにまたコンクールに出ることにするとは思わなかった」
「……別に、優勝をガツガツ獲りにいくっていう、昔みたいな殺伐とした目的でのコンクール出場じゃない。あくまで腕試しと……こいつのコンクールのための素材提供のためだ」
「公開審査での演奏を聴いて、それを描こうと思っているんです。練習を聴かせてもらうこともできるんですが、やっぱり音響拡散の整ったホールで聴いた方が、音がよく響くでしょう?」
「なるほどね。そういや、美涼ちゃん、一か月後くらいが締め切りのコンクールに応募するって言ってたし、タイミング的にもちょうどいいな」

 怜音にはあらかじめ、おおよその事情を知らせている。うんうんと納得したように頷いてみせた奴を見て、ふと、思い出したように春宮が目を瞬かせて聞いた。

「あの。そういえば、雪村くんはどうしてここに?」
 これには俺が答えた。

「こいつにも荷物持ちとしてソフィアコンに協力してもらう予定だから、一応だ。出場者の関係者のみ、許可を取った出場者の演奏の録音録画を許されてるからな。録音録画データで演奏を見直せるし、撮っておきたいんだよ。それで、その機材をこいつに持たせる」
「ああ、なるほど。雪村くんもソフィアコンの予選に来るんですね? 北条くんのサポート役として」
「そーゆーこと。期末の勉強手伝ってもらう代わりに約束させられた」

 タハー、と、軽く笑いながら怜音が後頭部を掻いた。

 素行が悪い上に成績も悪ければ、ただの素行不良に比べて数段階教師がうるさくなるのは、何も俺に限った話ではない。むしろ、喧嘩はあまり買わないものの俺以上に好き勝手している怜音の方が目をつけられている節がある。

遊びにも飽きて、かといってやることもなくて普段から勉強をしている俺と違い、怜音はいつも気ままに遊び歩いている。しかし成績を落とした大人の説教を鬱陶しいと感じているのは怜音も同じで、わりと毎回テスト前はそこそこ対策をし、そこそこの成績を取っているのだ。怜音はもとから頭の回転も悪くない。

「――で、公開審査って言ってたけど」ふと怜音が目を細め、俺と春宮を見比べた。「奏介は、美涼ちゃんのために何を弾くわけ?」

 つまりは、春宮は第二次予選、本選、どちらを聴くのかということだ。

 無論、本選には第二次予選を通過しなければ出場できない。それを考えれば、ホールでの生演奏を聴きたいのであれば第二次予選を選ばなければならない。

ただし、そういう事情云々の前に、これに関してはどちらにするか既に決まっている。
絵画コンクールの締め切りは本選のたった数日後だ。ゆえに、本選の曲を題材にしていては描く時間が非常に限られてしまう。そのため、

「春宮美涼の絵のために弾くのは、予選の曲だ。ベートーヴェンピアノソナタ第八番『悲愴』、第一楽章」