いつかと逆だな。
俺は隣のクラスの扉の前に立ちながら、そんなことをふと思った。よい噂で知られているとはとても言えないためか、近くを通る生徒が、そして俺の存在に気づいている教室内の生徒が、こわごわとこちらを窺っているのがわかる。
だが、以前はひどく煩わしかった視線が、今はなぜかどうでもいいものに思えた。自由奔放で人目をいい意味で気にしない怜音の気持ちが、少しだけわかるような気がした。
放課後。ホームルームが終わった直後。日誌を携えて職員室に戻ろうとしていたらしい隣のクラスの担任が、俺を見て一瞬ぎょっとした顔をしたのを横目に、躊躇いなく扉を開けた。
「え、北条くん?」「なんで北条が……」「今日、学校来てたんだ」
変わらずひそひそと囁き合う声は耳に届くが、気にはならない。
代わりに、こちらの存在には当然気づいているだろうに、頑なにこちらを見ようとしない――教室中央あたりで妙にそわそわとしている人影に声をかけた。
「春宮」
落ち着きのない背中がびくりと跳ね、硬直した。学校でも有名な非行少年(仮)が全校のマドンナを呼びつけたことで、周囲の空気がざわりと逆立った。
しかし、そんなことはどうでもいい。言いたいことがあるのだ。
「ちょっと来い」
春宮がおずおずとこちらを向いた。躊躇うような、恐れるような、どうしてここに来ているのかということを気にするような顔。まさしくおずおずとした、という表現がぴったりな表情だった。呼び出しだ、とさらにざわめく教室のやつらを無視して、もう一度「春宮」と繰り返す。
彼女はしばらく迷った様子を見せていたが、ややあってから、戸惑いがちに頷いた。「わ、わかりました」
「あ、あのー、北条くん、どこまで行くんですか? せめて行き先を告げてから歩き出してほしいんですが……」
「……」
「し、しかも、なんですかさっきの呼び出し方は。あえて不良みたいなことをすることをしない君らしくもない。あれじゃあ、ほとんどの人がいらない勘違いをしましたよ」
「言いたい人には好きに言わせておけばいいって言ってたのはお前だろ。……ついたぞ」
それはそうですけど、と小さくぼやいた春宮が、顔を上げて「あ」という顔をする。
――そこは音楽室だった。俺が四年ぶりにピアノをまともに弾いた場所。そして、ミューズを求める春宮美涼と初めてまともに会話をした場所。
グランドピアノは西日を受けて赤く輝いていた。穏やかな静けさに満ちる夕方の無人の音楽室は、もう数十分もすれば音楽系部活が使う、にぎやかな部活動の場となる。
「どうしてこんなところに……」
「……春宮。お前、最近美術部行ってないんだってな。どうしてだ」
「えっ?」
「お前が親に絵を描くことそのものをよく思われてないってこと、聞いた。絵はやめるのか? だから美術部に顔を出さなくなったのか?」
「……ち、違いますよ。勉強のためです。今度こそ考査でいい成績を取れなかったら、本当に塾の曜日を増やされてしまうので。そうなれば、まったく絵を描く時間が取れなくなって、それこそ美術をやめなければならないことになりかねません」
――そうなるわけにはいかないんです、と、春宮は強い声で言った。認めてもらわなければならないことがある、と。
「私……、やっぱり普通科じゃなくて、美術科に行きたいんです。それも、芸大現役合格者を多く輩出しているような、名門に。そのために、次のコンクールで上位入賞を果たさなきゃいけないんです」
「……なるほど。じゃあもう一つ」
「もう一つ。なんですか?」
「俺を、どうしてもソフィアコンに出したかったのは、どうしてだ」
途端、春宮の顔が曇った。
「……その件は、本当にごめんなさい。出場ももう、お好きにやめてもらっていいですから」
「謝るのはいい。……その、前はあんまりちゃんと聞けなかったからな」
冷静でなかったから、悪かった。本心を聞かせてほしい、と――しどろもどろながらもそう言えば、春宮は驚いたように目を瞬いた。そして、半ば茫然としたような顔のまま「それは」と再び口を開いた。
「――多くの人の前でピアノを弾いている君の方が、今よりずっと楽しそうだったので」
「そうか」
いや、そうだな。そうだった。
春宮美涼は、そういうやつだ。
人の弱さを責めるのではなく、強引な手腕で人の背中を押すのだ。いつかのストリートピアノの時のように。試してみましょうよ、と、軽くそう言って。
く、と思わず笑いがこみ上げてくる。突然笑い出した俺を見て、春宮がびくっと肩を跳ねさせ、いかにもやばい奴を前にした時さながらに怯えた顔になった。失礼な奴だ。
「春宮」
「な、なんですか」
「人を勝手にコンクールに応募したことにしたんだ。お前もコンクールでちゃんと成績残せよ。それで許してやる。俺も勝手にお前の家庭環境について知っちまったしな」
「え? あの……ええと、もとよりそのつもりですが――お前『も』?」
「ああ」
俺は音楽室の中に入り、グランドピアノの前に立った。
そして、こつん、とその蓋を叩いた。
「俺は、ソフィアピアノコンクール第二次予選に出場する」
「……!」
「だが勘違いはするなよ。出場するのは賞を取るためや、ましてやまたピアニストを目指すためじゃない。そもそもピアニストになりたいという夢が父親に見せられたものだったか、自分のものだったのかも、まだわかってないしな」
観客は増える。聞く者も増える。それでも、やることは変わらない。
なぜなら。
「だから、今回は、お前のために弾いてやる」
俺のピアノをもう一度始めたのは、お前の絵だった。
お前も間違いなく、俺のミューズだった。
「俺は、お前のミューズだからな。そうだろ、春宮美涼」