「……夏木先生」
「なあに」
「好きなことが自由にできる環境にあるのにそれをあえてしないのは、傲慢だと思うか?」
夏木は一瞬こちらを見て、しかしすぐに顔をもとの位置に戻した。
「別に、そんなことはないと思うわあ。傲慢というのはおかしいでしょう。それもひとつの生き方じゃなあい。道の歩き方なんて人それぞれなんだから」
「……そうだな」
母親に好きなことを捨ててしまえと言われ、肩身の狭い思いをしている春宮。好きなことをすることに、自分の気持ち以外の障害がない自分。俺はそれでもステージから、大勢の聴衆を求める本心に背を向けている。しかし、こういうことに正解はきっとない。なら。
(春宮も……)
――おそらく、人のピアノをソフィアピアノコンクールの予備審査に勝手に送ったのは、自分とは違いやりたいことを選べるような環境で本心から逃げるなど傲慢だ、と、そういうことが言いたかったわけではないのだろう。強引で勝手なところはあれど、そういった類の強要をしてくるようなやつではないということを、短い付き合いながらよく知っている。
「ただ、本当にその好きなことをやりたくて、その機会もあるのに、どうしてそれを選ばないのかしら? そこは少し不思議ね。アタシだったらやりたいことやっていいって言われたらずっとそうしてるけど。何か深い訳があるのかしらあ? トラウマ、罪悪感、負い目、引け目、なぜかそれを選んではいけないという強迫観念を自分にかけている……」
まあなんにせよ、と、夏木がこちらを見た。
「難しく考えなくていいのよお、奏介君。別に誰に強要できるものでもないし、自分の思うようにすればいいと先生思うわあ。美涼ちゃんの環境を気にして、選ぶものを変える必要もないわ。彼女のことは、彼女の問題なのだもの」
「別に春宮のことを気にしてなんて……というか、いつの間にか俺の話ってことになってるが」
「あらあ。あなたの話じゃないのぉ?」
「……俺は一般論として聞いただけだ」
途端半眼になった夏木が「嘘こけ」という顔になり、やや焦ったものの――結局、繊細なのか濃いのかわからない美術教師は「悩みたいなら悩んでていいのよ」とだけ言った。
「本当は自分がどうしたいのか、もう一度自分に問うてみるのよお。いいじゃない? なんだか青春らしくて。そういうことを考えることも、成長のうちだわあ」
「もう十分考えてたら?」
「それでも悩みが晴れないならいっそ試してみるのもアリかもねえ」
「試す?」
「そうよ。一発、どーんとね」
簡単に言ってくれる、と苦笑する。……だが、少し霧が晴れたような心地になったのも確かだった。
「……それも、ありなのかもしれないな」
ピアノを弾きたかったら家で好きに弾けばいい。わざわざ音楽の世界に戻る必要もない。その資格もないから――と、そう思っていた。……そう思うようにしていた。
だが、今のままではいけないという心の奥の声が、今になって強くなったのを感じるのだ。
*
家に帰ると、ちょうど母が出かけるところだった。軽く化粧をして、衣服を整えた母は、恐らくこれからパートに行くのだろう。毎週、この曜日は午後から夕方おわりまで、母は近くのスーパーでレジ打ちをしている。父から十分な養育費は受け取っているようだが、何かをしていないと落ち着かないのだそうだ。
「あら……」息子の早退にも慣れたものである母は、こちらの帰宅にはさして驚いていない様子だった。「もう帰ってきたの。午後の授業は」
「サボった」
「そう……」
やはり母は学校をフケてきたことを叱ろうとはしなかった。その代わり唐突に、何かを思い出したように「ああ」と声を上げた。
「そういえば昨日、美涼ちゃんの絵を見てきたわ。あの、ショーウィンドウに飾ってある」
「……ああ。あれ、まだ飾られてたのか」
「素敵な絵だったわね。あれが奏介の『幻想即興曲』……でも、なんとなくわかる気がするわ。紫色の炎。あなたは確かにあの時、魂を燃やしてピアノを弾いていたものね」
魂を燃やして、という言葉に、思わず顔を上げて母を見た。――紫色、森の中にある、紫の炎。小さくも存在感のある、燃え盛る炎。あの炎は――。
こちらの視線に気づいた母は、たいして表情も変えずに続けた。「あなた自身が燃えているようだったわ。息を呑むくらいに、迫力があった」
「……」
「そういえば、美涼ちゃん、最近うちに来ないのね。……テスト期間だからかしら」
黙り込んだ俺に気付かないはずもないだろうに、母はやはり淡々と続けた。
「どうしてもうすぐテスト期間だって知ってるんだよ。俺は言ってねぇだろ」
「学校のホームページに書いてあるもの、そのくらい。それに、奏介、真面目に勉強するでしょう。あまりやりたくないことだって毎日コツコツやる癖がついているから、毎日の勉強を習慣にしてもいるけど、テスト前はやや力を入れて勉強しているわ」
「……勉強の方が楽だしな」
「毎日何時間もピアノを弾き続けるより? そうかもしれない。でも、テストでいい点を取ったところで、あなたはあまり嬉しそうじゃないわ。コンクールやコンサートでピアノを弾き切った時に比べてしまうとね」
母は瞬きをひとつすると、一つにくくった髪をなびかせ、こちらまで歩いてくる。そして三和土で突っ立っている俺の横で、もくもくと靴を履き始めた。
「……なあ」気がつけば、口をついてずっと考えていた疑問が出てきた。「あいつはどうして、ソフィアピアノコンクールに勝手に応募なんてしたんだと思う?」
不意に母が立ち上がった。靴を履き終えたらしい。そして、今しがた俺が閉めたばかりの内鍵をひとつふたつと開けていく。――なんとなく予想はつくけれど、奏介。
「それは、母さんに聞くことじゃないと思うわ」
「けど……」
「でも、そうね。少し考えれば簡単にわかること。最近、あなたが一番楽しいと感じた瞬間はいつだった?」
「一番?」
一瞬考え、そして答えはすぐに出た――あの時の、ストリートピアノを弾き終えた瞬間だ。
うだうだ考えていたピアノを捨てた捨てないの悩みを、一瞬で吹き飛ばした演奏の快感。
楽しかった、と。誤魔化しようもなく感じたその感情を認めたから、俺はもう一度ピアノに触れることにしたのだから。
「あの時の奏介が逃げ出したくなるほど嫌だったものは、過剰な『勝利への期待』と『賞レース』でしょう? 宝生楽斗の息子だから、天才だから、勝って当然。素晴らしくて当然……」
母がこちらを見た。
「なら、ステージそのものは?」
「……!」
「難しく考えすぎなんじゃないかって、母さんは思います」
――こんな強引なことをしたのは、君を責めたい訳でも急かしたい訳でもなくて、私はただ、
――君が……ステージの上でピアノを弾く小学五年生の君が、大勢の前でピアノを弾く少し前の君が、今よりももっと楽しそうだったから!
あの時、聞かなかったはずの言葉の続きが、勝手に脳内で再生された。
試してみればいい、と言った夏木の言葉が蘇る。うじうじいじいじしていないで、飛び込んでみることでわかることもある。
俺は玄関すぐの壁にかけられているカレンダーを見た。――ソフィアピアノコンクール第二次予選まで、もう三週間を切っている。
「母さん」
久しぶりの呼びかたに、母は軽く目を見開いた。しかし、すぐに「何?」と応えた。
「パート、終わってからでいい。……昔世話になってた先生に、連絡って取れるか?」