「それはもちろんあるでしょうけど、絵を描くことそのものを、でしょうね」
「は?」
「あら、そうでしょう? あの子、親御さんに絵を描くことそれ自体を即刻やめろって言われているじゃない。絵なんて描いてないで勉強に集中しろってね。美術部に入っていることもよく思われていないみたいで、それでもどうにか続けていきたいってよく言っているわ。部活にあまり来ないのも、そりゃあ部活で出す課題をやるより自分の好きなものを描きたいってのもあるだろうけど、親御さんの意向で入った塾が忙しいからという方が大きいでしょうねぇ」
「……、」
「だから、コンクールに作品を出しているのも、なんとか実績を挙げれば絵を描くことを認めてもらえるんじゃないかって考えがあっての…………、もしかしてあなた、何も知らない?」
こちらの顔色が変わっていくのを――血の気が引いていっているのを察したのだろう。明らかにまずい、という顔をした夏木が頬を引きつらせた。「やだ、早まったかしら、生徒の都合を他人にぺらぺらと――」
厳しい母親だとは聞いていた。しかし、絵を描くことそのものすら認められていないとまでは思わなかった。勉強しろ、成績を維持しろ、というところまではわかる。春宮の楽観さは見ていて危ういところがあるので、親が過干渉気味なのもそのせいだろうと軽く見ていた。嫌なら勉強すればいいだろう、くらいには思ってた。
だが……そうだったのか。春宮は好きなことをすることを、親に認められていないのだ。
そして最近は、唯一何も考えず美術部に顔を出してもいない――。
(まさか、あいつ、絵をやめたりしねぇよな……)
これまでの彼女の様子からは想像もつかないが、しかし、春宮が親に言われるまま絵を放り出す可能性を思うと、言いようもない遣る瀬なさに胸がむかついた。どうしてこうももやもやと気分に靄がかかるのかは説明できないが、それでも。……俺にまたピアノを弾かせたのは、春宮美涼の絵であったと言うのに。
「また大きなコンクールがあるから、挑戦してみようとしていたのに……やめちゃうのかしらねえ……受験生が本気で応募するとしたら最後の大きなコンクールになるのに」
ふう、と嘆息してみせた夏木の声に顔を上げる。――大きなコンクール。初耳だった。
「……なんだよ、その大きなコンクールって」
「ああ、全国規模の絵画コンクールのことよお。知名度的にもかなりのもので、入賞すれば有名美術科の推薦ももらえるような、大きなものでね。募集規定は平面作品であることと、作品のサイズのみ。アクリル・油彩・水彩・日本画・版画・パステルなどなど平面作品ならばどれでもオーケー。美涼ちゃんだけじゃなく、他の美術部の子たちも何人か参加することを決めているわ」
「いつ頃にあるんだ?」
「そこまで遠くもないわね。八月の初旬に募集締め切りじゃなかったかしら」
八月の初旬。ということは、ソフィアコンのファイナルが終わってすぐに締め切りか。
……ふと、脳裏を、悲しげな表情のまま何も言わずに家を出て行った春宮の背中がよぎる。好きなことから逃げることはいけないことか、正しくなければいけないのかと責めるように問い、困り切った顔をさせたことを思い出す。
『こんな強引なことをしたのは、君を責めたい訳でも急かしたい訳でもなくて、私はただ……』
――あの時、春宮は一体、なんと言おうとしていたのだろう。俺は冷静さを失って、続きを聴こうともしなかった。
「……あんたは春宮がどうして美術部に顔出さないのか、本当にそのコンクールに応募するのをやめたのか、知らないのか?」
「残念ながらね。だから、あなたをこうしてここまで連れてきたんじゃないの」
詳しいことは何も知らなかったみたいだけど、と少し残念そうに夏木が溜息をつく。
春宮は、コンクールの結果を気にしないと言いながら、自分の意思にかかわらず、それが必要になる時もあると言っていた。必要になる時、それがもしも母親に自分の好きなことを、絵を描くことを認めてもらうための――ということを指していたのだとしたら、今夏木の言ったコンクールは、春宮にとっての中学最後のチャンスということになる。
しかしそれなのに、当の春宮に、絵を描いている様子は見られない――。
(俺は……あいつのことを何も知らない)
わかっていたようで、わかっていなかったことだった。
そもそも他人が、完全に誰かの立場になってものを考えるなんてことは土台無理な話なのだ。しかし、俺はなぜか、春宮美涼という人間がどういう人間で、どういう生き方をしているのか、わかった気になっていた。それは彼女が俺のピアノを唯一だと言ったからかもしれないし、俺の前で俺を真っ直ぐに見据える彼女は、小心者の自分がひどく眩しく感じる程に強い眼差しをしていたから。強く、迷わず、好きなことに一直線で在れるような、そういう存在なのだと勝手に思い込んでいた。
(少なくとも俺は、自分の『好きなこと』を抑圧されたことはない)
父の指導は俺にとっての不自由そのものだったが、あくまで俺の興味の中心はピアノであり、歩んでいきたい道はピアノの道だった。俺がピアノ以外の生き方を選ぼうとしたら阻まれていたのかもしれないが、そんなものは無意味な仮定だ。
好きだからこそ、やりたいと選んだ道だからこそ、諦めなくていいのなら、諦めたくないと思った、と、そう言っていた春宮を思い出す。
――彼女は、本当のところは何を思って、俺に、もう一度ピアノを弾いてほしいと言ったのだろう。
共感覚。一般の人々とは異なる感覚を持って生まれてきた彼女は、常人には視えず、理解もできない世界を視ている。そして濁った水のような色ばかりを奏でる音楽の中でも、唯一クリアに美しく視えた(きこえた)北条奏介のピアノを描くために筆を執ったという。
絵は彼女にとって、読んで字のごとく自己表現であったはずだ。自分にしか視えない世界を、自分が心動かされた音(光景)を、その筆で描くことで誰かに伝えるための。
しかし春宮は、そのことを周囲に理解してもらえていない。
(春宮が俺に自分のミューズになれと言ったときも、本心をきちんと見つめるべきだと言ったときも、)
その時、彼女は、何を考えていたのだろう。