連れてこられたのは美術室だった。

昼休みの美術室はさすがに誰もおらず、辺りはしんと静まり返っている。ただし、雑多に置かれたイーゼルやら画材やら作業台やらのせいでか、喧騒がなくとも静けさはあまり感じない。
美術室の真ん中には緑色の瓶やら作り物の林檎が置いてある。周りに置かれたイーゼルを覗き込んでみれば、鉛筆でのデッサンがされているものや、絵の具で写実的に置かれたものを紙に写し取っているものなど、さまざまな種類の絵があった。……よくわからないが、こういうのを静物画と言うのだったか。

(……春宮もこういうのを描いたりするのか?)

春宮が、何か……こういうものを描いているところを想像できない。ものを見て、正確にデッサン。風景を写真のように描いたりするところ――。
さらりとした手触りの林檎もどきはとても軽い。発泡スチロール製なのだろうが、一歩引けば本物に見えるから不思議だ。

「美涼ちゃんはあんまりそういうのやらないわよ」

「!」

まるで心を読まれたかのようなタイミングでのセリフに、僅かにぎょっとする。振り返るとすぐそこに夏木が立っていた――ここに呼び出したのは夏木なので、それは当然なのだが。

「あんまりってことは、やることはあるのか」
「そりゃァ、さすがにないわけないでしょうが。絵が上手くなるには、人の心に届かせるには、描きたいものを好きというだけじゃあ足りない。想像上のものでも、モノはよく『見』ないと描けないものなのよ。人もモノも風景も、観察して描く練習をする必要があるの。その練習が、」
「作品を作る材料になる」

「……あらあ」夏木がうっそりと笑った。「意外とわかってるじゃない?」

――さすがにわかるだろう、と思う。

たとえば、ピアノは練習しなければ、どんなギフテッドでも難曲を弾きこなすことはできない。一度聞いただけの曲を完璧に再現するだなんて規格外の天才も世の中にはいるそうだが、そういう輩も、指が動かなければ運指の複雑な曲を弾くことはできない。また、練習をしなければ腕なんて一瞬で鈍る。

逆にこつこつと練習を続け、煩雑な指使いをまるで息をするようにできるようになれば、目を剥くような難しい曲も弾けるようになるものだ――そういうことと似ている、と思う。

「美涼ちゃんはこういう基礎的な練習があんまり好きじゃなくて、でも真面目にやっていたのよお……あの子は伝えたいものをよりよく伝えるために、描きたいものをよりよく描けるようなりたいという目標があったからね」
「……」

なんと答えて良いかわからず視線を彷徨わせる。するとそこで、夏木は低く……案じているのだとわかる声で言った。「でもね、」

「ここ最近、全然部活に来ていないのよあの子」
「え……?」

 幽霊部員とはいいつつ、春宮が美術部にそこそこ入り浸っていることは知っていた。厳しい母親がいることもあり、絵を進めようにも作業をする場所がうちか学校しかないためだ。

「塾にも行ってるようだし、毎回部活に出ることはあまりないけど、ここまで来なかったのは初めてなのよねぇ。……だからね、あたしがあなたをここに連れてきたのは、何か知らないかと思ってのことよ。あんな場所で話すことでもないでしょ」
「……どうして俺が何か知ってると思ったん、ですか」
「だって、美涼ちゃんがわざわざ自分から自分の描いた絵を見せるため美術部に人を呼ぶなんて、あなたが初めてだったのよ。ということは相当仲がいいか、何かあなたたちの間に特別な事情があると考えるのが普通でしょ?」
(そうだったのか……)

 あの、青い羽根を持つ鳥の絵を思い出す。姿の見えない鳥と、飛び立つ直前の翼の絵。
 積極的に自分の描いた絵を見せるのが、俺が初めてというのは意外だった。

……いや。意外でもないかもしれない。少なくとも俺と再会するまでは、彼女は絵をやめようかとすら思っていたと言っていた。コンクールで金賞を取ったことも不本意だと考えていた様子だったのだ――自分でも納得がいっていない作品を無闇に他人に見せることはしないかもしれない。

「でも、じゃあ、そもそもあいつはなんでコンクールに出品なんてしてたんだ……」
「……それはもちろん、彼女の描きたい何かを忘れないでいたいがためと……もう一つ。親御さんに認めてもらいたい、というのがあるのでしょうね」
「……親に?」

 そうよ、と夏木は眉を寄せて言った。「あまり生徒のこういうこと、勝手に言うのはナシなんだけれど。なにやら奏介くん、あなたは美涼ちゃんの特別みたいだからねぇ」

(母親、か……)

あの夜出くわした、春宮の母親の顔を思い出す。基本的にあっけらかんとしている春宮が苦々しい顔をして『とても厳しい』と評する母親――。

だが。


「認めてもらうって、何を? 絵を描く腕や才能、残した結果を、ってことか?」