「あ……?」
ぎり、と強く歯を食いしばる。
「ふざけるな。俺はもう、人前では弾かない。確かにお前にはそう言ってあったはずだろうが」
内輪でいいのだ。……確かに俺は、ピアノを捨てたといいながら、裡にあるピアノへの渇望をずっと燻ぶらせていた。それに気づいたからこそ、もう一度自分の気持ちに向き合うことにしたのだ。
だが、大勢の前で弾くことも、スポットライトを浴びることも、もう望んじゃいない。
「俺は現状で満足してる。またピアノを弾く勇気を持てた。お前にも聴かせてやってる。そしてお前が描いた絵を見て、刺激を受けて自分のピアノに還元して……それで十分なんだよ。余計なことしてんじゃねぇよ」
「……いいえ。君は満足なんてしていない」
しかし、想像以上に強い声音で、否定が返ってきた。
「音楽に疎い私でもわかります。この一か月、ピアノに触れ続けた君の音はみるみるうちに洗練されていっていた。たくさんの曲をこの目で『視て』、私の耳も目も多少は肥えたように思います。……私の絵を見て、刺激を得てくれたと言うのもきっと事実なのでしょう。四年間で君が失っていたものが、戻っていくのを、肌で感じました」
――だとすれば、現状に満足しているはずがない。そう言って春宮が、立ち上がる。
そして彼女はさらに、俺に一歩近寄った。
「私が君のピアノを聞いて、その私が生み出したものから刺激を受けてそれをピアノに還元して。……そのループだけで、君は本当に満足しているんですか? 聴衆が私だけで、本当にいいと? 違う。音楽は、聴かれてこその音楽なんですよ」
「お前と、怜音が聞いてる」
「足りません。大勢に聴かれてこそ、音は洗練されます。それに……北条くんだって自分でもう気がついているんでしょう? 単純なことですよ。
上手くなったと実感したら、よりたくさんの人に聴いてほしくなる。そうでしょう?」
――なぜならあなたはピアニストだ。
春宮の言葉が、正面から胸を刺す。彼女の眼差しも言葉も、相変わらず強い。まっすぐで、眩しい。痛いほどに。
「小さな防音室で一人に聴かせるよりも、大きなホールでたくさんの聴衆を湧かせた方が晴れ晴れしいに決まっています。そんなの、誰だってそうです。ステージは恐ろしいところだということは、私にだって想像が尽きます。
でも、それでも――君はまだ、逃げている。ステージで弾くことから。あの時降りた舞台から。満足していないのに、満足していると偽ってまで」
ぐらりと視界が歪んだ。頭が痛む。……違う。そうじゃない。そうじゃないはずなのだ。
「……俺にはもうピアニストを目指す資格も、ステージで弾く資格もないから」
「音楽を奏でるのに資格がいるんですか? 君の行動のせいで割を食った者が、迷惑を被った者が多くいるから、家族に……お母様や響さんに、迷惑をかけてしまったから、君はそれを理由にして自分の気持ちから目を背けているんじゃないですか?
君はアーティスト、ピアニストです。私はそれを、知っています。君は君の本心を、きちんと見つめるべきだと思います」
息が苦しい、と思った。
自分の不甲斐なさを指摘された重苦しさが、全身にのしかかった故の苦しみだった。
肺に砂を詰め込まれたような感覚を抱えたまま、声を絞り出した。喉が渇く。
「――逃げちゃいけないのか」
「えっ……」
にわかに、春宮が目を見開いた。
「……春宮。お前の言うことは正しいのかもしれない。俺は響や母さんのことを言い訳にして、かつて怖ろしいことから逃げてるだけなのかもしれない。いや、かもじゃなくて、お前が正しいんだろうな。聴衆の期待が怖いと思うということは、期待に応えられた時の、自分の演奏を認めてもらえた時の喜びを知ってるってことだ。俺は……確かに奥底の本心ではステージに上ることを望んでるのかもしれない」
多かれ少なかれ、芸術と名乗つくものに携わっている者は、人の評価を糧にしている。だからこそ――誰かを湧かせた経験が大きければ大きいほど、かけられた期待が大きければ大きいほど、失望された時を思うと怖いのだ。足が竦むのだ。
父は言った。そんなものを過剰に恐れる者にピアニストとしてステージに上がる資格はない。
父は、自分の言う通りに弾けと俺に言った。言い続けた。それで結果を出せと。それがずっと枷だった。重かった。自由になりたいと思っていた。
だが。
(違ったのか?)
父の言う通りに弾けと言われて、その通りにしたとして、その結果、もしも成果を残せなかったのなら――それは俺の音(ピアニズム)を否定されたことにはならない、ということにならないだろうか。
だから父は、うるさいほど自分の言う通りに弾けと言っていたのか? 否、もう、確かめようのないことではあるが――。
ただ、確かなことが、一つだけ。――父はいつだって『正しかった』。
「だが、逃げるのはいけないことなのか。本心から目を背けるのは悪か。自分にとっての完璧を求め続けないのは怠慢か。完璧でなくても十分であればそれでいいかと思うことは糾弾されなくちゃいけないのか」
俺は自分の弱さに気づかず、認めもせず、いざ気づいて認めても、結局はそれを克服しようと動けない。才能があっても伸びしろは皆無、その通りだ。……その通りだったのだ。
多くの人に聞いて欲しい。聞いて欲しくない。期待して欲しい。期待して欲しくない。
ちっぽけな自尊心だけは立派な癖して、負けず嫌いも向上心も中途半端。
芸術の世界は才能だけで生きているほど甘くはない。才能を持っているのは前提条件でしかないからだ。並外れた才能と、努力をするセンスと、運。それらを最低限持ち合わせていなければ、誰も歩み方を保証してくれない霧の中、自分の足で歩くこともできない。
「お前は正しい。それで強い。俺とは違う」
「ほ、北条くん、あの、違うんです。逃げることがいけないこととか、そんなことを言いたかったんじゃないんです。こんな強引なことをしたのは、君を責めたい訳でも急かしたい訳でもなくて、私は、ただ……」
「もういい」
俺は立ち上がり、目の前の春宮を避けるようにして防音室の入口まで歩いていく。
そしてその扉を開け、立ち竦む春宮を見た。
「今日はもう帰れ」
「……、」
呆然とした様子の春宮は、それでも何かを言おうとして、結局何も言わなかった。
悲しげに、苦しげに眉を寄せたまま唇を引き結び、のろのろと防音室の隅っこの椅子から立ち上がる。
「……お邪魔しました」
ぺこりと頭を下げると、春宮は早足でそのまま玄関まで歩いた。そして一度こちらを振り返って、俺と目が合わないことを悟ると、そのままこの家を出ていった。
がちゃん、と、玄関扉が重苦しい空気に冷徹な音を添える。――ドド#レファ。
(……不協和音)
胸の内で吐き捨てながら、馬鹿らしい、と思った。
「あら……? 美涼ちゃん、もう帰ったの」
「ああ」
「せっかくお茶菓子用意したのに。こんなに早くなんて、珍しいのね……奏介?」
「……なんだよ」
「顔色が悪いけど。どうかしたの」
「別に」
端的に答え、開きっぱなしの防音室の扉を閉める。
「俺も部屋戻って勉強する。期末も近いし」
「……そう」
母は何か言いたげだったが、やはり何を言うこともなかった。
それをいいことに、俺はとっとと二階の自室に駆け上がった。
ぎり、と強く歯を食いしばる。
「ふざけるな。俺はもう、人前では弾かない。確かにお前にはそう言ってあったはずだろうが」
内輪でいいのだ。……確かに俺は、ピアノを捨てたといいながら、裡にあるピアノへの渇望をずっと燻ぶらせていた。それに気づいたからこそ、もう一度自分の気持ちに向き合うことにしたのだ。
だが、大勢の前で弾くことも、スポットライトを浴びることも、もう望んじゃいない。
「俺は現状で満足してる。またピアノを弾く勇気を持てた。お前にも聴かせてやってる。そしてお前が描いた絵を見て、刺激を受けて自分のピアノに還元して……それで十分なんだよ。余計なことしてんじゃねぇよ」
「……いいえ。君は満足なんてしていない」
しかし、想像以上に強い声音で、否定が返ってきた。
「音楽に疎い私でもわかります。この一か月、ピアノに触れ続けた君の音はみるみるうちに洗練されていっていた。たくさんの曲をこの目で『視て』、私の耳も目も多少は肥えたように思います。……私の絵を見て、刺激を得てくれたと言うのもきっと事実なのでしょう。四年間で君が失っていたものが、戻っていくのを、肌で感じました」
――だとすれば、現状に満足しているはずがない。そう言って春宮が、立ち上がる。
そして彼女はさらに、俺に一歩近寄った。
「私が君のピアノを聞いて、その私が生み出したものから刺激を受けてそれをピアノに還元して。……そのループだけで、君は本当に満足しているんですか? 聴衆が私だけで、本当にいいと? 違う。音楽は、聴かれてこその音楽なんですよ」
「お前と、怜音が聞いてる」
「足りません。大勢に聴かれてこそ、音は洗練されます。それに……北条くんだって自分でもう気がついているんでしょう? 単純なことですよ。
上手くなったと実感したら、よりたくさんの人に聴いてほしくなる。そうでしょう?」
――なぜならあなたはピアニストだ。
春宮の言葉が、正面から胸を刺す。彼女の眼差しも言葉も、相変わらず強い。まっすぐで、眩しい。痛いほどに。
「小さな防音室で一人に聴かせるよりも、大きなホールでたくさんの聴衆を湧かせた方が晴れ晴れしいに決まっています。そんなの、誰だってそうです。ステージは恐ろしいところだということは、私にだって想像が尽きます。
でも、それでも――君はまだ、逃げている。ステージで弾くことから。あの時降りた舞台から。満足していないのに、満足していると偽ってまで」
ぐらりと視界が歪んだ。頭が痛む。……違う。そうじゃない。そうじゃないはずなのだ。
「……俺にはもうピアニストを目指す資格も、ステージで弾く資格もないから」
「音楽を奏でるのに資格がいるんですか? 君の行動のせいで割を食った者が、迷惑を被った者が多くいるから、家族に……お母様や響さんに、迷惑をかけてしまったから、君はそれを理由にして自分の気持ちから目を背けているんじゃないですか?
君はアーティスト、ピアニストです。私はそれを、知っています。君は君の本心を、きちんと見つめるべきだと思います」
息が苦しい、と思った。
自分の不甲斐なさを指摘された重苦しさが、全身にのしかかった故の苦しみだった。
肺に砂を詰め込まれたような感覚を抱えたまま、声を絞り出した。喉が渇く。
「――逃げちゃいけないのか」
「えっ……」
にわかに、春宮が目を見開いた。
「……春宮。お前の言うことは正しいのかもしれない。俺は響や母さんのことを言い訳にして、かつて怖ろしいことから逃げてるだけなのかもしれない。いや、かもじゃなくて、お前が正しいんだろうな。聴衆の期待が怖いと思うということは、期待に応えられた時の、自分の演奏を認めてもらえた時の喜びを知ってるってことだ。俺は……確かに奥底の本心ではステージに上ることを望んでるのかもしれない」
多かれ少なかれ、芸術と名乗つくものに携わっている者は、人の評価を糧にしている。だからこそ――誰かを湧かせた経験が大きければ大きいほど、かけられた期待が大きければ大きいほど、失望された時を思うと怖いのだ。足が竦むのだ。
父は言った。そんなものを過剰に恐れる者にピアニストとしてステージに上がる資格はない。
父は、自分の言う通りに弾けと俺に言った。言い続けた。それで結果を出せと。それがずっと枷だった。重かった。自由になりたいと思っていた。
だが。
(違ったのか?)
父の言う通りに弾けと言われて、その通りにしたとして、その結果、もしも成果を残せなかったのなら――それは俺の音(ピアニズム)を否定されたことにはならない、ということにならないだろうか。
だから父は、うるさいほど自分の言う通りに弾けと言っていたのか? 否、もう、確かめようのないことではあるが――。
ただ、確かなことが、一つだけ。――父はいつだって『正しかった』。
「だが、逃げるのはいけないことなのか。本心から目を背けるのは悪か。自分にとっての完璧を求め続けないのは怠慢か。完璧でなくても十分であればそれでいいかと思うことは糾弾されなくちゃいけないのか」
俺は自分の弱さに気づかず、認めもせず、いざ気づいて認めても、結局はそれを克服しようと動けない。才能があっても伸びしろは皆無、その通りだ。……その通りだったのだ。
多くの人に聞いて欲しい。聞いて欲しくない。期待して欲しい。期待して欲しくない。
ちっぽけな自尊心だけは立派な癖して、負けず嫌いも向上心も中途半端。
芸術の世界は才能だけで生きているほど甘くはない。才能を持っているのは前提条件でしかないからだ。並外れた才能と、努力をするセンスと、運。それらを最低限持ち合わせていなければ、誰も歩み方を保証してくれない霧の中、自分の足で歩くこともできない。
「お前は正しい。それで強い。俺とは違う」
「ほ、北条くん、あの、違うんです。逃げることがいけないこととか、そんなことを言いたかったんじゃないんです。こんな強引なことをしたのは、君を責めたい訳でも急かしたい訳でもなくて、私は、ただ……」
「もういい」
俺は立ち上がり、目の前の春宮を避けるようにして防音室の入口まで歩いていく。
そしてその扉を開け、立ち竦む春宮を見た。
「今日はもう帰れ」
「……、」
呆然とした様子の春宮は、それでも何かを言おうとして、結局何も言わなかった。
悲しげに、苦しげに眉を寄せたまま唇を引き結び、のろのろと防音室の隅っこの椅子から立ち上がる。
「……お邪魔しました」
ぺこりと頭を下げると、春宮は早足でそのまま玄関まで歩いた。そして一度こちらを振り返って、俺と目が合わないことを悟ると、そのままこの家を出ていった。
がちゃん、と、玄関扉が重苦しい空気に冷徹な音を添える。――ドド#レファ。
(……不協和音)
胸の内で吐き捨てながら、馬鹿らしい、と思った。
「あら……? 美涼ちゃん、もう帰ったの」
「ああ」
「せっかくお茶菓子用意したのに。こんなに早くなんて、珍しいのね……奏介?」
「……なんだよ」
「顔色が悪いけど。どうかしたの」
「別に」
端的に答え、開きっぱなしの防音室の扉を閉める。
「俺も部屋戻って勉強する。期末も近いし」
「……そう」
母は何か言いたげだったが、やはり何を言うこともなかった。
それをいいことに、俺はとっとと二階の自室に駆け上がった。